2026.07.13
閑・感・観~寄稿コーナー~
1988年以来28年間続けてきた毎日あゆみ会が解散するとのお知らせがあったので、2026年6月27日解散を兼ねた最後の総会に参加した。
そこで毎日新聞社を定年退職以来お会いしていない朝野富三さんとの久しぶりの再会があった。朝野さんとは45年前の社会部時代に表題の取材で機材の準備などを支援させて頂いたこともあり、社会部記者の中でも特に印象に残っていた。お互いに後期高齢者世代になって容姿も変貌していたことから初めは気付かなかったが、話をする中で1981年(昭和56年)の表題の話題が弾み、当時の報告書は終活整理で捨て切れずに残しているので、メールで送りますよとのお話を頂いた。その中には当時自分が書いた報告書も含まれていた。そこで朝野さんに大阪毎友会のホームページ「閑・感・観~寄稿コーナ」に投稿を提案したが、元編集局長や執行役員だった方には内容の一部がちょっと憚るところがあると思い、アマチュア無線関係の機関誌に投稿された内容を私が代わって投稿させて頂くことにした。
以下は朝野富三さんの原稿です。
1981(昭和56)年の夏、南太平洋のソロモン諸島国にあるベララベラ島で日本政府による大がかりな旧日本兵捜索が行われたことがある。電気もガスも水道もなく文明から隔絶された密林の島だった。もし日本兵が発見されたら世界的な大ニュースだけにどうやっていち早く第一報を送るのか、ハム(アマチュア無線)を使った密かなスクープ合戦が展開されたのである。1981年(昭和56年)45年前の話ではあるが、日本のハム史に残したい秘話として紹介させていただく。
ベラ島(ベララベラ島)は、太平洋戦争で日米最大の激戦地となったソロモン諸島のガダルカナル島から北西400km。佐渡島より少し小さく東西30km、南北40km、当時の人口は3000人ほどだった。
日本軍は約1200人の陸海軍将兵を投人して占領したが、米軍の反攻にあい1943(昭和18)年1月6日、突然撤退を決断した。しかし撤収舟艇に乗り遅れた140人から190人の兵隊が残されたとされ、戦後も島内に潜んでいたが、見つかっては送り返されるか、中には現地民に撲殺された者も少なくなかった。その後も密林に数人が残留しているらしいとの情報があり、戦友会などが捜索活動を行ってきた。
1972(昭和47)年にグアム島で横井庄一さん、1974(同49)年にフィリピン・ルバング島で小野田寛郎さんが救出され、厚生省(観在の厚生労働省)はベラ島について最後の捜索団を編成した。終戦から36年、もし見つかれば世界的なビッグニュースになるだけに報道各社も随行記者を派遣した。だがそこに立ちはだかったのが現地では通信手段がないことだった。電気のないベラ島にはむろん電話や無線設備はない。イギリスから独立してまだ3年目のこの国の国際電話は衛星通信を使ったSCPC方式による5回線があるだけで、そのうちの1回線がベラ島の隣のギゾという島にあったが、日本兵が見つかった時は、調査団のスタッフがカヌーで数時間かけてギゾ島に行き、厚生省に一報を入れ、記者発表する段取りにしていた。
しかしそれでは発見から発表まで1日近くかかり、それに波が荒い南太平洋ではカヌーを出せないこともある。一連の報道に先行していた読売新聞(大阪本社)はハムの資格を持つ記者を含めた大部隊をすでに現地に送り込んで設営しているとの情報があったことから各社は頭を抱えた。イザという時は読売の一人勝ちになることは明らかだった。
私は当時、毎日新聞大阪本社の社会部記者だったが、無線通信の心得があることから白羽の矢が立ち、派遣を命じられた。しかし一人で行けという。とりあえず大阪本社の連絡部電送課に相談。たまたま太平洋横断ヨット・レース取材用(モニター受信用)に購入していた21MHz帯のSSB無線機(出力10W)があり、これを持って行くことにした。電源の発電機が必要だったが、持って行くには重すぎる。小野喬啓さんという新聞社の電気技術者に頼んで単一の乾電池10本で使えるように加工してもらっていたところ、東京のNHKの報道局から電話があり、通信や技術要員を派遣する余裕はないから相乗りさせてくれないかという申し出を受けた。スクープ合戦で他社と手を組むなどもってのほかだったが、新聞と放送は違うからいいかと考え、提携する代わりに発電機(ホンダ製、300W、重さ20kg)と高性能ビームアンテナ(CY153、重さ8kg)を持ってくることを条件にした。
NHK記者3人と途中のグアムで合流。ソロモン諸島国の首都ホニアラの空港に着くと、その足でバンガロー風の建物の郵便通信局に行き、アマチュア無線局の開設許可を取った。先述の通り独立間もない国である。係官から許可証を渡される時、「アマチュア無線局はこの国ではあんたで2人目だよ」と言われた。 ベラ島には小型船で向かい、船着き場がないため沖合でカヌーに乗り換え、宿舎は現地の住民の民家を借りた。楯子の葉でふいた屋根の高床式の、早い話が掘っ建て小屋だが、そこにNHK、民放の記者たちと暮らすことになった。
早速、現地の男に頼んで楯子の木に登ってもらい、ビームアンテナ(八木アンテナ)を張ってみた。ベラ島と日本は直線で6000km。無線機は10Wと出力が小さい。これで本当に交信できるか不安は大きかった。
位置づけは毎日新聞大阪本社のアマ無線クラブ局(JA3YFF)の移動局とし、受け手は大阪府医師会のハムクラブが引き受けてくれ、日本時間で毎日15時と19時の2回定時交信することにした。医師会側からCW(モールス信号)で呼びかけ、私は可能ならボイスで応答することにし、日本兵が発見されるなど緊急事態が起き、定時交信では間に合わない時はベラ島近くにいる日本漁船をCQ(通信相手になって欲しいとの呼びかけ符号)で呼び出し、漁協経由で毎日本社に電話連絡してもらう手はずを考えた。
机代わりの空き箱にSSB(無線機)を設置して電源を入れてみた。医師会ハムを呼ぶと、すぐに応答があった。高性能ビームアンテナのおかげで実効輻射電力は70W相当になっており、クリアな音声通話が可能だった。
始まった捜索活動は、島内9ヵ所につくった基地から戦友会の元兵士たちが連日ビラをまいたり、スピーカーで懐かしの歌謡曲や童謡を流しながら呼びかけるものだった。
各社が最も気にしていたのは読売新聞の動向だった。私たちの宿舎から30mほど離れたところに立派な宿舎を構え、10人近くが詰め、すでに大きなアンテナが張ってあった。だいぶ前から来て取材も先行しており、各社とも読売に完敗することだけは何としても避けたかった。
私は第3級無線通信士(現在の第3級総合無線通信士)の資格を持っていた。大学に行く前に海上自衛隊に4年間在籍した時に取得したもので、外電傍受に従事していたこともある。そんな経験から“敵陣”の傍受を試みると、しきりに本社らしきコールサインを呼んでいるのだが応答がなく、交信できていないことがわかった。見てみると、指向性アンテナの方向が逆方向に張られていた。あまり知識のないハム資格者の記者が担当だったらしく、むろん、私はそのことを教えてやらなかった。
それが1週間後に交信が可能になっていた。その翌日、見慣れない一人の日本人の男が海岸を散歩していたので何気なく声をかけると、ホニアラ(首都ガダルカナル島の北西海岸にあるホニアラリゾート地)で電気店を営んでいるというA氏で、読売に頼まれて通信設備の設定に来たのだという。3通(第3級無線通信士)の資格を持っていると言うので「どこで取ったのですか?」と聞くと、何と私と同じ元自衛隊員だったとわかり、一気に打ち解けた。読売の周波数、本社との定時交信時間などを洗いざらい教えてくれた。
こうなると楽なものである。朝日新聞など数社の記者たちは読売の定時交信時間になると私の宿舎に集まり、みんなで読売の交信内容を傍受するのである。政府の捜索団のスタッフまで加わり、いつの間にか読売VS毎日・NHK・朝日連合のグループができあがっていた。
読売は日本兵を「イグアナ」という隠語で呼び、捜索の状況を本社に逐一伝え、しばしば“飛ばし記事”を打電していた。傍受していた私は「ヨミに明日の朝刊で大きく記事が出るが飛ばしなので相手にしないように」と本社側に伝えると、私が傍受していることを知らない編集局の幹部は「どうして事前にわかるのか」と不思議がっていたという。
約40日間の捜索はこれといった成果も得られないまま終わり、捜索団は撤収することが決まった。戦後の日本政府による旧日本兵捜しはこれをもってすべて終了したのである。空騒ぎに終わった捜索だが、島民たちにとっては驚きの連続だったらしい。何よりも生まれて初めて見る電気の灯りや、不思議な機械で遠い日本と話している私の姿は関心の的で、夜になると男や子どもたちが宿舎にやって来て、窓からじっとのぞきこんでいた。
いよいよ引き揚げる日が近づいたある日、集落のトップ(酋長)が私を訪ねて来た。その文明の機器を置いていってくれないかという頼みだった。無線設備は彼らには使いようがないが、発電機ならお礼に残してもいいだろうと思い、NHKに言うと「備品なので持って帰らないと困る」と抵抗した。私は「カヌーに乗せる際に誤って海に落としてしまったと始末書でも書けばすむじゃないか」と言って説得した。
拙い英語で発電機の使い方のマニュアルを作り、頭のよさそうな3人の男に丁寧に扱い方を何度も教えた。そしていよいよ彼ら自身がやる番である。ガソリン、ヒューズなどを確認し、スイッチを入れ、恐る恐る始動のヒモを引っ張るとエンジンがうなりを上げ、電球が灯った。宿舎の辺りが明るくなり、固唾を飲んで見守っていた住民たちから一斉に歓声と拍手が起こった。ベラ島に文明がもたらされた瞬間だったのかもしれない。
こうして南太平洋のジャングル島でのハム空中戦は終わったのだが、これまでこの事実を明かしてこなかったのには理由がある。ハム(アマチュア無線)を取材に使うことは国際法上、厳しく禁じられていたからである。直接に本社と交信しなかったのもそのためであり、あえて「ベララベラ」という地名や「捜索」「日本兵」という言葉も使わないように注意していた。しかし、当時は世界的ニュースを伝える手段が他になく、やむを得なかった措置だと考えたのだが、もう時効だろうか。
さて、こうした捜索期間に私は“本来のハム交信”も楽しんだ。「こちらソロモン諸島」とCQで呼びかけると、日本各地から一斉にすさまじい数の応答が殺到し、しばらくは聞き取れずに1時間、長い時は1時間半ぐらい放っておくこともしばしばだった。それでも多くの方と交信ができたが、帰国後すぐに別の取材に追われ、その方たちにはお礼や事情の説明もしないまま今日まできてしまい、申し訳なく思っている。そこで当時交信した方たちのコールサインを記させていただく。もうあれから45年。他界された方もおいでかもしれないが、遅ればせながらお礼とお詫びまで。(順不同)
JR3DLW、JH3MXM、JH3DVA、JM1 1MF、JE3YQO、JLlWPQ、JL1NHF、JH3CDY、JR3HLI、JH2QQE、JE3LWB、JHOGDO、JA7VAB、JR7MHF、JR21ZO、JAOBXP、JH8AEM、JN1SCB
以上の原稿は朝野富三さんが、ずいぶん前に「アマチュア無線関係雑誌」に投稿された内容です。また、内容の一部は毎友会ホームページ投稿用に朝野さんが書き換えて頂いたところがあります。
当時、第3級無線通信士の資格をもった朝野富三記者が、取材に出発する際に無線機など機材の準備をした者として、朝野さんの了解を得て大阪毎友会のホームページに投稿させて頂きました。
45年前の懐かしい話を一読頂け頂けたら幸いです。
(元連絡部電送課、小野 喬啓)
[参 考]
1)第3級無線通信士(現在の第三級総合無線通信士)はプロの無線通信士資格。操作範囲は主に船舶や航空機に設置された無線設備の操作を行うことが出来る。
2)読売の記者が持っていたと思われるハム資格はアマチュア無線(趣味で楽しむ無線)の無線技士だったようだが、どのクラス資格か不明。従って、第3級無線通信士とは技量や知識の差は格段に差がある。なお、アマチュア無線資格には第1級〜第4級の4種類 があり、扱える周波数帯や送信出力が等級によって異なる。
3)SCPC方式の電話回線
1つの送出するチャネルに対して,1つの搬送波を割り当てるFDMA方式をSCPC方式という。この方式は,通信容量の小さいシステムに適しており,インテルサットにおける小容量通信,アナログセルラー自動車携帯電話方式などに利用されている。各キャリアの周波数を分けることにより衛星中継器上で多重し,複数のチャネルを伝送することができる。
◇参考 1981年(昭和56年)に作成した連絡部電送課(小野)の報告書
(下記をクリックしてご覧ください)
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