閑・感・観~寄稿コーナー~
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ふ留井が64年の歴史に幕①だれかいる?だれがいる?②「ますみ」と「修ちゃん兄ちゃん」③締めはおでんの中華そば④「晩年」のふ留井も、新たな魅力で愛されました  満澄美ちゃん、お疲れさまでした

2026.04.10

閑・感・観~寄稿コーナー~

 「2026年3月31日に廃業届けを出し、64年の店に幕を下ろしました」

 大阪市・北新地のふ留井の2代目女将、満澄美さん(私は「ますみちゃん」と呼んでいました)からメールが届きました。毎日新聞の社員が入りびたった居酒屋さん(おでん屋さん)、寂しい限りです。

左端が初代女将(2009年3月)

 ふ留井の開店は1962年4月19日です。私が大阪勤務になったのは1974年春。そのころは、社会部の送別会は会社で行った後、2次会は必ずふ留井でした。狭い店内は満員電車のような混みようで、私のような若い記者はいつも立ち飲みでした。

 たくさんの毎日社員が飲みに行くので、初代女将の米子暁美さん(私は「おばちゃん」と呼んでいました)は会社の情報に詳しく、話しやすいとも言え、一方でうっとうしいと言えるのですが、それでもみんな通い詰めました。

 私が子どものころ、「事件記者」というテレビ番組があり、記者がたむろする居酒屋さん「ひさご」が出てきました。ふ留井に初めて行った時、「ひさごみたいな店は、本当にあるんや」と感激したものです。

 酒の勢いでけんかする人もいました。仲直りするために、飲みに行く人もいました。なぜかギターを持って行き、弾き語りをする人もいました。新人は落書き帳に決意を書かされ、転勤する人も記帳させられました。本を出した人は、店に置いてもらいました。トイレには名刺が張りまくってありました。つけで飲む人ばかり。私はこの良きしきたりを大事にし、定年退職後も長くボーナス払いでした。

左から3番目が2代目女将(2011年6月)

 記者が取材相手をよく連れて行き、その後に常連になった人も多く、いろいろな人に出会う場でもありました。講談の4代目旭堂南陵さん(故人)は国家秘密法案にからむ取材がきっかけで、ふ留井の飲み仲間になりました。伊方原発訴訟や狭山事件の再審請求に携わった弁護士の藤田一良さん(故人)は、火曜日によく店を訪れるので、その日に合わせて飲みに行きました。

 おばちゃんとは、店での関係に留まりませんでした。寄席に行った帰りに、記者何人かがすしをごちそうになったことがありました。京都府宇治市の平等院に行った時も、大阪市・鶴橋をぶらついた時も、ご飯をおごってもらいました。金払いの悪い客に対して、金払いのいい女将でした。

 おばちゃんは2013年に亡くなり、毎日新聞本社ビル地下のオーバルホールで、偲ぶ会が開かれました。閉店が心配されましたが、姪のますみちゃんが継ぎました。とても記憶のいい人で、客の誕生日や最後に来た日を覚えているのです。ある時、何十年かぶりに読売新聞の記者に再会し、ふ留井に行ったことがあります。彼は「初めて」と言ったのですが、ますみちゃんは「来たことがあるはず」と言って、店に置いてある落書き帳を次々に引っ張り出し、ついに彼が若いころに書いたページを見つけたのです。

 おばちゃんの偲ぶ会では、参加者が思い出を書いて会場の壁に張り出しました。私が書いたのが、「だれかいる?だれがいる?」でした。店にはたいてい毎日新聞関係者がいるのですが、念のため電話して確かめる人がいました。続いて誰がいるかを聞き、そりの合わない人なら行く時間をずらす。そんなたまり場だったような気がします。

                  (元地方部、梶川 伸)

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 「ふ留井」という店については、梶川さんが過不足なく書いているので、以下は僕の全く私的なつまらない断想です。

 僕が大阪社会部駆け出しだったころ、部員約60人の社会部には藤田姓が4人もいました。紛らわしいので、大概、下の名前で呼ばれていました。一番年次が下の僕の場合は「藤修」「修ちゃん」「修君」など。

 社会部がよく行く「北谷」「小菊」「まんき(どんな字だったか忘れました)」などの飲み屋の女将からも同様に呼ばれました。ひどい場合は単に「修」「こら、修!!」と。

 ふ留井の場合は、先代の暁美さんからは「修ちゃん」でした。後に2代目女将を継いだ満澄美さんは、僕が店に行き始めたころはまだ20歳前のお手伝いで、背は高いけれどまだ子供子供していて、客の多くは「ますみ」と呼び捨てでした。ぼくも「ますみ」と言いました。逆に満壽美さんからは、「修ちゃん」ではちょっとまずいと考えたのか「修ちゃん兄ちゃん」と言われるようになりました。同じ干支の巳年生まれで満壽美さん(以下ますみ)はちょうど一回り下なのです。

 以来50有余年、80代男と70代女になっても「ますみ」「修ちゃん兄ちゃん」の関係です。

 僕はそれほど頻繁に酒房に足を運ぶ人間ではなく、ふ留井でも上客ではなかったと思います。現役時代、ふ留井で作家の若一光司さんら社外の人と仕事の話をすることはありましたが、社内の人とゆったり会話する時間を過ごした記憶はあまりありません。何しろ連日多くの客で込み合い、にぎやかに盛り上がっていましたから。

 むしろリタイヤ後、ふ留井での時間がありがたいなと思うようになりました。客は少数・高齢化し、落ち着いて静かになりましたから。年に多くて3回ほどですが、僕より若い人、できれば現役の人からメディアやジャーナリズムの現況を教えてもらったり、全く異分野の道に進んだ新聞社時代の後輩に話を聞く場として大変ありがたい存在になりました。客が少ないから、僕の相手との話が途切れたときにますみが昔話で接ぎ穂になってくれたりしました。

 コロナ禍の際の店のやり繰りは大変だったと思いますが、その後もカウンターに仕切りを置いて一人置きの席にしたまま、席が空いているのに突然の客は断るなど、閑静を保つようにしていました。料金も上がりませんでした。ますみはもうほとんどボランティアでした。ぼつぼつ終活にかかっていたのかもしれません。 去年、閉店の噂を聞いて「本当?」と尋ねましたが、「いずれは」とぼかされました。

 それなのに4月1日「昨日で閉店しました」と突然の連絡。エイプリルフールではありませんでした。ご苦労さん会が開かれないかなと、最もよく店を訪れ、かつ世話好きなSさんにきくと「固くお断りとのことです」と。ますみのいさぎよさ、覚悟をいまさらながら知りました。ますみ72歳、毎夜の仕事で疲れは相当にたまっているはず。今後の健勝を祈るのみ。

                    (元社会部、藤田 修二)

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 81年入社の同期・城島徹くんからのメールで毎友会の記事を知り、掲載されていた写真を見て腰を抜かしました。

 梶川さん、おばちゃんのいいショットがこれ以外になかったのですか。これじゃ、まるで私が主役。17年前の3月、大阪代表室から東京論説室への異動に際し、駆け出し時代の支局デスク・吉田嘉彦さん(故人・ふ留井の常連でなぜか「社長」と呼んでもらっていた)に送別していただいた時だと記憶しています。

 おばちゃんの後ろ、左端の背の高い人は毎友会メンバーになじみのない顔でしょう。彼は徳島支局で1年後輩だった読売の足達新さん(後の大阪読売専務)。まことに懐が深いふ留井は毎日のたまり場にとどまらず、朝日や読売の記者、電通マンらをも惹きつけ、連夜のごとくにぎわい、店内にいつもざわめきが渦巻いていました。ますみちゃんの大好きな木枯らし紋次郎・中村敦夫さんも足を運んだと聞いています。

 もっとも、私らのような新社以降に入社した世代にとっては、魔物が棲むようなカオス酒場。「なんや、貴様!」という怒鳴り声やテーブルを叩く音が突然店内に響いたり、「君ーい、こんなとこで飲んでないで夜回りにいかんかい、10年早いわ」と背後からネチネチとからまれたり、夜もふけて客が増えると立ち飲み状態になったり、と。先輩に誘われたら行くけれど、気楽に足を踏み入れるのをためらう世界でもありました。

 それらすべてをのみ込み、なお余りあったのは、おばちゃんの肝のすわった堂々とした客さばきと看板娘ますみちゃんの明るい笑顔と朗らかな声。そして、いつでも美味しい料理と酒でした。カウンターの上に並んだ手づくりの惣菜の数々に喉を鳴らし、おでんの締めに登場する絶品の中華そばに至福を感じました。

 ありがとうございました。

                  (元経済部、中村秀明)=イタリア在住

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 毎日新聞を中心に報道各社の記者がたむろしていた2000年くらいまでの「ふ留井」をイメージされている方が、この追悼文集を目にされる人々の大半でしょう。初代女将の暁美さんが、長いがん闘病に入られ、その跡を継いだ満澄美ちゃんが切り盛りし、最後の5年くらいは、かつての喧騒の店とは別世界のような静かで穏やかな「小料理屋さん」となっていました。

 コロナ禍に見舞われ、満澄美ちゃんも年齢とともに体力に自信をもてなくなり、店は午後9時閉店。料理もお任せのコース。メインデッシュはご存じのように、おでん盛り合わせでした。

 お気づきになった方はいらっしゃいますか? おでんを入れていた土鍋が、プラスチック製に変わっていたことを? 満澄美ちゃんはおでんを運ぶ体力も弱っていて、お客さんに万が一でもこぼしてはいけないので、軽いものに変えていたのでした。

 そんな頃から、ふ留井の静かな幕閉じが始まっていたのでした。私が毎日新聞を退職して大学に籍を移してから、店にお連れした教職員は30人を超えていると思います。そのすべての方がふ留井ファンになってくれて、その魅力を「お魚の調理の見事さ」「おでんのおいしさ」とともに「女将さんの人柄」を挙げてくれました。絶頂期にマスコミ人でにぎわったふ留井は、最後はしっとりとしたお店に姿を変えて、新たな客層も引き付けていたのでした。

 最後の年末となった2025年12月、大学の男女仲間9人で店を貸し切り、21日が誕生日の満澄美ちゃんに、参加者一人一人が個別にプレゼントを渡すと、満澄美ちゃんは大きく涙ぐんでいました。「よほど趣向に感動してくれた」と思っていたのですが、後に本人が漏らしたのには「あの時、店を止めることを決めていて、これが最後かと思うと、いろんなものがこみあげてきてん」ということでした。

 今年4月19日で開店65周年を迎える予定でしたのに、あと1か月届かなかったのは残念ですが、それほどぎりぎりまで満澄美ちゃんは頑張ってきていたのでした。

 毎年12月21日、迫田太さんは誕生日の満澄美ちゃんに花を届けてくださっていました。ふ留井さん、迫田さん、ありがとうございました。

      (毎日新聞社1983年入社、2018年同社卒業 嶋谷泰典)

◇係から

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