2026.05.28
閑・感・観~寄稿コーナー~
こんにちは。1981年入社で、2018年秋に早期退職した中村秀明です。イタリア北部のボローニャで暮らし始めて、8年目に入っています。
人口40万人のボローニャは、イタリアで7番目に大きな都市。私たち夫婦の留学先でもある欧州最古の大学があり、総延長約60キロの柱廊「ポルティコ」が世界遺産となっているほか、美食の街、音楽の街、絵本の街などいろいろな顔を持っています。井上ひさしさんは「ボローニャ紀行」で、家族・友人・女性を大切にする街づくりを住民自らが進める都市として紹介しました。
ところで、この国を語るうえで重要な言葉があります。「イタリアは創られたが、イタリア人はまだだ」。1861年の建国直後にある政治家が口にしました。ボローニャに暮らし、国内各地に足を運ぶと、160年以上たった今もなお、この言葉はしっかり生き続けていると思えてきます。
中世以降、イタリア半島は教皇領や大公国、自由都市、自治共和国、それらに属する領地などがモザイク模様のように広がりました。それぞれの後ろ盾はローマ教皇庁や神聖ローマ帝国、スペイン、ノルマン、オーストリア、そしてナポレオンのフランスなどへと変化しつつ、外国軍の駐留を許すことがあっても、独自色を保った地域や街として歴史を刻んできたのです。
そのぶ厚い蓄積は、一つの国家となり工業化や経済活動の広域化が進んだことで、少しずつ損なわれていますが、なお厳然としています。イタリア人である前に、ナポレターノであり、ボロネーゼなのです。隣町同士でも、友好的な関係にないというケースがたくさんあります。フィレンツェとシエナの確執は有名ですが、ここボローニャも隣町のモデナとは、教皇派と神聖ローマ帝国派という歴史的経緯や戦火を交えた過去があって、今も関係は微妙です。
ともかくイタリアに住む人々は、わが街・わが地域の歴史と独自性に誇りを持ち、老いも若きも強い愛着を抱き続けているのです。地方に行けば行くほど、それを実感します。旅先の街で、その地の奥深さや美しさを地元の人に褒めたりすると、「そうでしょう」と街の歩みや隠れた名所、伝統料理などについて得意気に解説が始まります。
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ボローニャではさらに第2次大戦後半の経験が、特別な意味をもたらしました。街のシンボルは一般に、中心地の2本の塔やサン・ペトロニオ大聖堂、長い柱廊と言われますが、私は市立図書館正面に飾られた2000を超える顔写真だと思っています。彼ら、彼女らは「レジスタンス」としてドイツ軍やムッソリーニ支持層と戦い、亡くなった市民です。10代と思わしき少年の写真もあります。


1943年秋以降、連合軍の北上によって、ドイツ軍の最終防衛ラインにおける拠点となったボローニャとその周辺は、一進一退の攻防が20カ月も繰り広げられ、市民が命を落としながらもドイツ軍を降伏に追い込みました。この時の「犠牲を払って自らの手で街を解放した」という痛みと自負が、戦後ボローニャの原点なのです。
「われらの街」という思いがひときわ強いせいか、政治的には左派の牙城です。フィレンツェやトリノ、ジェノバなども左派色の街ですが、ボローニャは学生が多いこともあり、一段と色濃いように思えます。ファシズムが強いたような権利の制限や排外的な動き、統制などにすごく敏感です。一方で、個人の権利や自由を重んじる姿勢や隣人愛と寛容の精神の浸透につながっているようです。

「ボンジョルノ」。外国人の私たちが通りを歩き、誰かに目があって声をかけると、不思議そうな表情すら見せず、笑顔で挨拶が返ってきます。一度そういうことがあると、気持ちよくなってまた声をかけます。老夫婦やベビーカーを押す母親、修道院のシスター、清掃の作業員、開店準備を始めるカフェの店員、路上生活者………。そして、次第にそれが日常になっていく。こんな光景はボローニャならではでしょう。偶然と直感でボローニャを住む場所に選びましたが、間違った思い込みではなかったようです。
ボローニャを訪ねることがあったら、ボロネーゼと思われる人にぜひ声をかけてみてください。「ボンジョルノ」と、笑顔で。
(元経済部、中村秀明)
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