閑・感・観~寄稿コーナー~
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ふ留井が64年の歴史に幕①だれかいる?だれがいる?②「ますみ」と「修ちゃん兄ちゃん」③締めはおでんの中華そば④「晩年」のふ留井も、新たな魅力で愛されました  満澄美ちゃん、お疲れさまでした⑤論客も「ふ留井は楽しかった」⑥ふ留井は私の学校だった⑦28年前の映像的再現⑧北新地のプロの凄さ⑨先輩の名前と思い出が出てくる店

2026.05.02

閑・感・観~寄稿コーナー~

 「2026年3月31日に廃業届けを出し、64年の店に幕を下ろしました」

 大阪市・北新地のふ留井の2代目女将、満澄美さん(私は「ますみちゃん」と呼んでいました)からメールが届きました。毎日新聞の社員が入りびたった居酒屋さん(おでん屋さん)、寂しい限りです。

左端が初代女将(2009年3月)

 ふ留井の開店は1962年4月19日です。私が大阪勤務になったのは1974年春。そのころは、社会部の送別会は会社で行った後、2次会は必ずふ留井でした。狭い店内は満員電車のような混みようで、私のような若い記者はいつも立ち飲みでした。

 たくさんの毎日社員が飲みに行くので、初代女将の米子暁美さん(私は「おばちゃん」と呼んでいました)は会社の情報に詳しく、話しやすいとも言え、一方でうっとうしいと言えるのですが、それでもみんな通い詰めました。

 私が子どものころ、「事件記者」というテレビ番組があり、記者がたむろする居酒屋さん「ひさご」が出てきました。ふ留井に初めて行った時、「ひさごみたいな店は、本当にあるんや」と感激したものです。

 酒の勢いでけんかする人もいました。仲直りするために、飲みに行く人もいました。なぜかギターを持って行き、弾き語りをする人もいました。新人は落書き帳に決意を書かされ、転勤する人も記帳させられました。本を出した人は、店に置いてもらいました。トイレには名刺が張りまくってありました。つけで飲む人ばかり。私はこの良きしきたりを大事にし、定年退職後も長くボーナス払いでした。

左から3番目が2代目女将(2011年6月)

 記者が取材相手をよく連れて行き、その後に常連になった人も多く、いろいろな人に出会う場でもありました。講談の4代目旭堂南陵さん(故人)は国家秘密法案にからむ取材がきっかけで、ふ留井の飲み仲間になりました。伊方原発訴訟や狭山事件の再審請求に携わった弁護士の藤田一良さん(故人)は、火曜日によく店を訪れるので、その日に合わせて飲みに行きました。

 おばちゃんとは、店での関係に留まりませんでした。寄席に行った帰りに、記者何人かがすしをごちそうになったことがありました。京都府宇治市の平等院に行った時も、大阪市・鶴橋をぶらついた時も、ご飯をおごってもらいました。金払いの悪い客に対して、金払いのいい女将でした。

 おばちゃんは2013年に亡くなり、毎日新聞本社ビル地下のオーバルホールで、偲ぶ会が開かれました。閉店が心配されましたが、姪のますみちゃんが継ぎました。とても記憶のいい人で、客の誕生日や最後に来た日を覚えているのです。ある時、何十年かぶりに読売新聞の記者に再会し、ふ留井に行ったことがあります。彼は「初めて」と言ったのですが、ますみちゃんは「来たことがあるはず」と言って、店に置いてある落書き帳を次々に引っ張り出し、ついに彼が若いころに書いたページを見つけたのです。

 おばちゃんの偲ぶ会では、参加者が思い出を書いて会場の壁に張り出しました。私が書いたのが、「だれかいる?だれがいる?」でした。店にはたいてい毎日新聞関係者がいるのですが、念のため電話して確かめる人がいました。続いて誰がいるかを聞き、そりの合わない人なら行く時間をずらす。そんなたまり場だったような気がします。

                  (元地方部、梶川 伸)

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 「ふ留井」という店については、梶川さんが過不足なく書いているので、以下は僕の全く私的なつまらない断想です。

 僕が大阪社会部駆け出しだったころ、部員約60人の社会部には藤田姓が4人もいました。紛らわしいので、大概、下の名前で呼ばれていました。一番年次が下の僕の場合は「藤修」「修ちゃん」「修君」など。

 社会部がよく行く「北谷」「小菊」「まんき(どんな字だったか忘れました)」などの飲み屋の女将からも同様に呼ばれました。ひどい場合は単に「修」「こら、修!!」と。

 ふ留井の場合は、先代の暁美さんからは「修ちゃん」でした。後に2代目女将を継いだ満澄美さんは、僕が店に行き始めたころはまだ20歳前のお手伝いで、背は高いけれどまだ子供子供していて、客の多くは「ますみ」と呼び捨てでした。ぼくも「ますみ」と言いました。逆に満壽美さんからは、「修ちゃん」ではちょっとまずいと考えたのか「修ちゃん兄ちゃん」と言われるようになりました。同じ干支の巳年生まれで満壽美さん(以下ますみ)はちょうど一回り下なのです。

 以来50有余年、80代男と70代女になっても「ますみ」「修ちゃん兄ちゃん」の関係です。

 僕はそれほど頻繁に酒房に足を運ぶ人間ではなく、ふ留井でも上客ではなかったと思います。現役時代、ふ留井で作家の若一光司さんら社外の人と仕事の話をすることはありましたが、社内の人とゆったり会話する時間を過ごした記憶はあまりありません。何しろ連日多くの客で込み合い、にぎやかに盛り上がっていましたから。

 むしろリタイヤ後、ふ留井での時間がありがたいなと思うようになりました。客は少数・高齢化し、落ち着いて静かになりましたから。年に多くて3回ほどですが、僕より若い人、できれば現役の人からメディアやジャーナリズムの現況を教えてもらったり、全く異分野の道に進んだ新聞社時代の後輩に話を聞く場として大変ありがたい存在になりました。客が少ないから、僕の相手との話が途切れたときにますみが昔話で接ぎ穂になってくれたりしました。

 コロナ禍の際の店のやり繰りは大変だったと思いますが、その後もカウンターに仕切りを置いて一人置きの席にしたまま、席が空いているのに突然の客は断るなど、閑静を保つようにしていました。料金も上がりませんでした。ますみはもうほとんどボランティアでした。ぼつぼつ終活にかかっていたのかもしれません。 去年、閉店の噂を聞いて「本当?」と尋ねましたが、「いずれは」とぼかされました。

 それなのに4月1日「昨日で閉店しました」と突然の連絡。エイプリルフールではありませんでした。ご苦労さん会が開かれないかなと、最もよく店を訪れ、かつ世話好きなSさんにきくと「固くお断りとのことです」と。ますみのいさぎよさ、覚悟をいまさらながら知りました。ますみ72歳、毎夜の仕事で疲れは相当にたまっているはず。今後の健勝を祈るのみ。

                    (元社会部、藤田 修二)

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 81年入社の同期・城島徹くんからのメールで毎友会の記事を知り、掲載されていた写真を見て腰を抜かしました。

 梶川さん、おばちゃんのいいショットがこれ以外になかったのですか。これじゃ、まるで私が主役。17年前の3月、大阪代表室から東京論説室への異動に際し、駆け出し時代の支局デスク・吉田嘉彦さん(故人・ふ留井の常連でなぜか「社長」と呼んでもらっていた)に送別していただいた時だと記憶しています。

 おばちゃんの後ろ、左端の背の高い人は毎友会メンバーになじみのない顔でしょう。彼は徳島支局で1年後輩だった読売の足達新さん(後の大阪読売専務)。まことに懐が深いふ留井は毎日のたまり場にとどまらず、朝日や読売の記者、電通マンらをも惹きつけ、連夜のごとくにぎわい、店内にいつもざわめきが渦巻いていました。ますみちゃんの大好きな木枯らし紋次郎・中村敦夫さんも足を運んだと聞いています。

 もっとも、私らのような新社以降に入社した世代にとっては、魔物が棲むようなカオス酒場。「なんや、貴様!」という怒鳴り声やテーブルを叩く音が突然店内に響いたり、「君ーい、こんなとこで飲んでないで夜回りにいかんかい、10年早いわ」と背後からネチネチとからまれたり、夜もふけて客が増えると立ち飲み状態になったり、と。先輩に誘われたら行くけれど、気楽に足を踏み入れるのをためらう世界でもありました。

 それらすべてをのみ込み、なお余りあったのは、おばちゃんの肝のすわった堂々とした客さばきと看板娘ますみちゃんの明るい笑顔と朗らかな声。そして、いつでも美味しい料理と酒でした。カウンターの上に並んだ手づくりの惣菜の数々に喉を鳴らし、おでんの締めに登場する絶品の中華そばに至福を感じました。

 ありがとうございました。

                  (元経済部、中村秀明)=イタリア在住

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 毎日新聞を中心に報道各社の記者がたむろしていた2000年くらいまでの「ふ留井」をイメージされている方が、この追悼文集を目にされる人々の大半でしょう。初代女将の暁美さんが、長いがん闘病に入られ、その跡を継いだ満澄美ちゃんが切り盛りし、最後の5年くらいは、かつての喧騒の店とは別世界のような静かで穏やかな「小料理屋さん」となっていました。

 コロナ禍に見舞われ、満澄美ちゃんも年齢とともに体力に自信をもてなくなり、店は午後9時閉店。料理もお任せのコース。メインデッシュはご存じのように、おでん盛り合わせでした。

 お気づきになった方はいらっしゃいますか? おでんを入れていた土鍋が、プラスチック製に変わっていたことを? 満澄美ちゃんはおでんを運ぶ体力も弱っていて、お客さんに万が一でもこぼしてはいけないので、軽いものに変えていたのでした。

 そんな頃から、ふ留井の静かな幕閉じが始まっていたのでした。私が毎日新聞を退職して大学に籍を移してから、店にお連れした教職員は30人を超えていると思います。そのすべての方がふ留井ファンになってくれて、その魅力を「お魚の調理の見事さ」「おでんのおいしさ」とともに「女将さんの人柄」を挙げてくれました。絶頂期にマスコミ人でにぎわったふ留井は、最後はしっとりとしたお店に姿を変えて、新たな客層も引き付けていたのでした。

 最後の年末となった2025年12月、大学の男女仲間9人で店を貸し切り、21日が誕生日の満澄美ちゃんに、参加者一人一人が個別にプレゼントを渡すと、満澄美ちゃんは大きく涙ぐんでいました。「よほど趣向に感動してくれた」と思っていたのですが、後に本人が漏らしたのには「あの時、店を止めることを決めていて、これが最後かと思うと、いろんなものがこみあげてきてん」ということでした。

 今年4月19日で開店65周年を迎える予定でしたのに、あと1か月届かなかったのは残念ですが、それほどぎりぎりまで満澄美ちゃんは頑張ってきていたのでした。

 毎年12月21日、迫田太さんは誕生日の満澄美ちゃんに花を届けてくださっていました。ふ留井さん、迫田さん、ありがとうございました。

満澄美さんと筆者

 

 

 

 

 

 

 

      (毎日新聞社1983年入社、2018年同社卒業 嶋谷泰典)

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 20年ほど前かな?白内障の手術をして眼内レンズを入れた。「ふ留井」のママ米子暁美さんから電話があった。「目を切ったんやて?かわいそうに」「どういうことはなかったわい。君のブスがはっきり見えるようになった!こわいぞ、こわいぞ」。「ぷっ」と吹き出して「またまた。コラ、やんちゃ!保険きかへんて?」「医者が『キャッシュ、キャッシュ』言うて跳び回っとったぞ」。「またぁ。アホ言うてる場合か。大事にせなあかんで」「うん、おおきに」。

 すぐに現金15万円が届いた(費用きっちりだった)。「なにすんねん。大金を」「わたしのお金ちゃうで。みんなのお見舞い。『返す』言われても返すところが分からんお金。とっとき」。

 「何事にかかわらず」即断即決。「頼りなさそうやのになぁ」と言うと「ほっといてんか」と言われた。

 “常連”の中では、俳優中村敦夫さんがママの”憧れの人“。二次会は、ママに頼まれたせいもあって中村さんと二人。いつも二、三軒は飲み歩いたが中村さんは断っても断っても「これ奥様に」と言っておみやげをくれた。「私が買う」と言ってもきかなかった。「そうか、あいつ(ママ)の同類(ガンコ)や」と思った。

 「東京組」では岩見隆夫さん、白木東洋さん、原田三朗さん。いずれも「超」のつく「ウルサイ」論客ばかりだが、「ふ留井」の話になると論客を「捨てた」。「楽しかった」「楽しかった」と。そういう店だった。「ふ留井」は。

                         (宮本 二美生)

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 瀬戸大橋が開通した昭和63年4月、高松支局に大きな段ボ―ル箱が届いた。送り主は「ふ留井」(米子暁美、満澄美)とある。届け先は経済部から着任したばかりの吉川順三支局長とデスク2年目の私(山口)。内容欄には「慰問袋」と書かれ、乾麺のうどん・そば、即席味噌汁、菓子などがぎっしり。二人とも単身赴任で、吉川さんは今度が初めて。私は2年目だった。

 慰問袋というのは戦地の兵士を鼓舞し、慰めるため日用品や食料品を入れて送った袋で、戦中派にはおなじみのもの。今と違って周りにコンビニが少なかったときで、多忙時の買い物を心配して送ってくれたらしい。「カミさんもしていないのに…」。「ママさん、ますみちゃん」の優しい母心に熱いものがこみ上げてきた。一番下にはノートをしのばせ、無言の励ましとありがたかった。

 思えば、お二人の温かい人柄は最初に出会ったころから感じていた。社会部新人のころ、ふ留井にいるのを先輩記者に見つかり、どやされたとき、ママさんが「大声厳禁」とぴしゃり、大きな包容力に助けられた。仕事を終えた深夜、空腹に加え、おでんも切れて困っていたら、そおっとうどんを出してくれたことも。新聞や雑誌で「北新地の隠れ家」、「変わらぬ家庭の味」とたびたび紹介されたが、昭和のロマンは色あせることがなかった。

 時は過ぎ、私の仕事は事件や行政の取材から展覧会の企画に移った。博物館や美術館の研究者を誘い、止まり木の交遊は横に広がった。カウンターの上には歌手の加藤登紀子さん、俳優の中村敦夫さん、辰巳琢郎さんらのくったくない写真。かつて来られた時に撮ったものだ。写真とはいえ、ともに時間を共有したうれしい誤解に後押しされたのか、談論風発の議論は続き、展覧会のアイデアや切り口を教えてもらい、新たな仕事につながった。

 特に『毎日』を退職後に勤めた市役所では、「カルチャースコール」(文化の嵐)の愛称で年10数回の講演会、シンポジウムを無料開催する仕事を手伝った。大勢の講師を発掘、選考せねばならず、ますみちゃんに窮状を訴えると、元大使館医務官で医療小説に新境地を開いた気鋭の作家、久坂部羊さんをはじめ講談師、画家らを紹介してくれた。

 交遊50年。ふ留井を通じて、人に対する温かさ、優しさの大切さをはじめ、多くのことを教わり、仕事への情熱をいただいた。感謝の念は尽きない。まさしく「私の学校」だった。このたびの残念な閉店を知って,京大の演劇サークル以来交際の長い辰巳琢郎さんからは「ふ留井は僕の青春だった」と惜しむ声が届いている。

                    (元文化事業部、山口 安昭)

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 ⑦

 昨年(2025年)11月19日夕刻、ふ留井のカウンターに座りました。連れは京都亀岡在の人(元社会部事件系)。杯を傾けつつ、ちょっと確かめたいことがあって満澄美女将に話しを振ると、「あぁ、寒い日やったねぇ」。

 1997年10月31日の「芭蕉終焉の地夜間吟行」なる飲み会のことでした。御堂筋での風流ごっこで冷え切って熱燗がよく出たこと、歌人道浦母都子さんが御簾越しに我々4人の句会もどきをチラ見していたこと、カウンターには○○さんと××さんがいたこと・・・・・・。記憶力のすごさは知り尽くしているつもりでしたが、間髪を入れぬ28年前の“映像的”再現はやはり驚くしかありませんでした。

 ただ、記憶力以外の衰えは少しずつ進んだのか今年3月末の閉店になってしまいました。北新地現存最古級の店の常連として老いの坂を上ろうか下ろうかと思っていた身にとっては、いわばアイデンティティの一部を無くしたような。名門ゴルフクラブの会員権を手放したらこんな気分になるのか。

 コロナ禍以後も止まり木の間引きを厳密に守り続けた近年。落ち着いて楽しむためには格好の空間でしたが、ここで交わした名刺は(それほど多くないけど)同業他社がほとんど。東京大手町の新聞社の社長名で開店60年を祝う大きな花束が届いたりして、往事茫々、ある種の感慨を禁じ得ません。

 「不義理やなぁ」とご本人には直接言いましたが、いきなりの閉店、その日のうちの廃業届提出はいかにもママゆずりでお見事。英断。よくぞ一人でのれんを守り抜きました。本当にご苦労様でした。

 とは言ったもののどこで飲むかな・・・・・・。

                                  (渡辺悟)

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 1981年入社1年生の秋、広島支局先輩方に「本社の雰囲気を見てこい」と命じられて労組の集まりに参加した夜、初めてふ留井の暖簾をくぐりました。広島から地方部デスクに転じておられた河竹さんに連れられてでしたが、学生気分が残るヒヨッコ記者を一人前に扱ってくれ、社会人になった実感を味合わせていただきました。

 3年後、宇治支局員として同様に労組の大会?に参加し、同期生と2人、労組大阪支部長の高松さんに連れられて、3年ぶり2度目のふ留井へ。店に入るなり、ママは「あら山口さん、久しぶり」と迎え入れてくれました。こんな若輩者の顔と名前を覚えていてくれるとは、と驚きましたが、その後、折に触れてママの昔話を聞く中で、北新地で活躍してきたプロの凄さを痛感しました。そういえば、広島から初めて訪れたときに写真を撮られた記憶があり、ママもますみちゃんも、単に記憶力が凄いというだけでなく、顧客を頭に叩き込む努力をしていたのだろうと推察しています。我々新聞記者も見習わなければと思わされました。

      ◇

 堂島から西梅田に大阪本社が移転し、ふ留井に足を踏み入れる頻度は落ちましたが、時々、取材先の「接待」に使わせてもらいました。ほぼ例外なく、「いい店ですねえ。私も使わせてもらってもいいですか」とふ留井ファンになりました。「ふ留井接待」のおかげで取材先との距離がぐっと縮まり、1990年代末のバブル崩壊後の金融危機の取材では大いに助けられました。

 大阪の金融担当記者の重要な取材相手は日銀大阪支店と近畿財務局。金融機関から免許を取り上げる「破綻処理」を決めるのは大蔵省(当時)ですが、出先の近財のキャリア官僚は「大阪の記者は相手にしなくていい」と言い含められて赴任してきており、取りつく島もありません。そこでちょっと親しくなったノンキャリの近財職員をふ留井に招き、懇談しました。効果てきめん、近畿財務局長と部長たちの「御前会議」の内容を教えてくれるようになりました。ノンキャリだけど、御前会議に陪席する人だったのです。

 「〇〇銀行を来週末に破綻処理し、××銀行はその翌週末に破綻処理すると言ってます」との情報を東京経済部や政治部に打ち返し、政治家情報を得て大阪発で銀行破綻を報じることが出来ました。そのお礼を申し上げる前に、ふ留井は無くなってしまったんですね。

 ママ、ますみちゃん、本当にお世話になりました。

                        (元経済部・山口透)

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2026年2月19日 気の置けない同期の城島氏、現役の高尾君と

 10年ほど前になります。
 酒が好きで、話が好きで、寂しがりやだった幸良雄史さんが亡くなったと聞いた日だった。

 大阪府警キャップの先輩で、事業局長の先輩だった。しばしば飲んで説教されたが、妙に腹が立たなかった人。若すぎた。

 「やるせない」

 「飲みたい」

 夕刻、ふ留井に行った。 止まり木の隅で独り、幸良さんのことを思いながら杯を傾けていた。

 小一時間もしただろうか。カラン、カランとドアの鈴の音がして、一人で入ってきた人がいた。伊藤芳明さんだった。
  「お~」

「どうも」

 「一人か?」

 「ええ、幸良さん亡くなって、ちょっと飲みたくなりまして」

 「お前もか」

 そんな会話だったかと。

 その手の思い出が詰まった店だった。

2026年3月24日 私の最後のふ留井

 一人で行くことがほとんどだったけど、満澄美さんと差し向かいで話をすると昔お世話になった支局長の石倉明さん、高山武久さん。先輩の亘英太郎さん、村井英雄さん、岡本健一さん、稲田敏雄さん。そういう人たちの名前と思い出が出てくる。

 そして、私はそういう先輩の顔を思い浮かべながら飲みました。

 寂しいです。

 でも、満澄美さんの閉店の潔さには、ただただ、アタマが下がりました。

              (亀岡在住の元社会部事件系 氷置恒夫)

◇係から

 ふ留井の思い出をお寄せください。写真も歓迎します。宛て先は、ホームページ担当の梶川伸のメールアドレス shinmafuyu@nifty.com へお願いします。