2025.02.06
閑・感・観~寄稿コーナー~
我が畏敬する詩人、以倉紘平さんから『以倉紘平全詩集』(編集工房ノア刊、9900円)が送られてきた。まだまだお元気だから全詩集発刊は早い気もするが、4月には85歳。十分な余力のあるうちに自分で足跡をまとめられたのだろう。
A5判720頁函入り。堂々たるつくりの中には、以倉さんのほとんど全詩業が収められていてずっしりと重い。けたたましい世の中からしばし離れ、姿勢を正し、しんとした気持ちで通読した。
以倉さんはその澄明・硬質な「命の輝き」ともいえる言葉で、詩壇の登竜門とされるH氏賞、現代詩人賞ほか数々の受賞に輝くほか、真率な人柄で日本現代詩人会会長の大役も務められた重鎮である。平家物語を研究する学究でもある。
僕は感受性に乏しく、詩を多く読んだ素養もないから、以倉さんの業績を評するどころか、うまく紹介する能力はない。ただ、評論家の故坪内祐三さんが以倉さんの詩集『夜学生』(本全詩集にも一部収められている)に接した際に、週刊誌の書評欄で「感動の大安売りの時代に本当に感動できる本」と叫んだことを書き留めておきたい。
ここでは以倉さんの教育者としての側面に触れる。
その①以倉さんは近畿大学(現在は名誉教授)に招かれる前、大阪・釜ヶ崎に隣接する大阪府立今宮工業高校で1965年から1998年まで33年間国語を教えた。前半は日本の高度成長と重なる時期で、大阪の夜間高校生は全日制の生徒より多かった。そこには地方から貧しく事情を抱えた少年たちが集まってきていた。中には成人も少なからずいた。以倉さんは全身で夜学生たちにかかわった。その表現が上記の『夜学生』である。以倉先生と生徒との関係性がいかなるものであったか、この拙い文章の最後に『夜学生』所収の散文詩1編を加えたので、長くて恐縮ですが読んでいただけたら幸いです。
以倉さんは別のところで書いている。「考えてみると、私はどれほど夜学生から恩恵を受けてきたことだろう。生きる力も、怠惰に対する反省も、思い上がりや、一人よがりを教えられたのも彼らからだった。彼らの生活の流儀を見ていると、自然と自分の非に思い当たるのである」
その②毎日文化センター(大阪)での以倉さんの詩の教室は2001年からなんと23年余りも続いている。先日電話で話したら「まだやっているんですよ」と言っておられた。毎月2回夜、高齢の身をおして尼崎の塚口から梅田まで出て来られるのである。
実はこの教室、当時同センターに勤務していた私が以倉さんにお願いして開設した。センターでは、短詩型文学の分野では短歌の塚本邦夫さん、河野裕子さんらが、俳句では桂信子さん、伊丹三樹彦さんらそうそうたる顔ぶれが講師でおられた。でもなぜか現代詩の教室がなかった。そこで学芸部の文芸担当故村井英雄記者の力を借り、以倉さんに打診したら多忙の中来てくださることになった。その際の初顔合わせだったのが北新地の店「ふ留井」でだった。
それほど多くはない受講生の中から、これまで織田作之助賞、三好達治賞、伊東静雄賞佳作、神戸ナビール文学賞佳作、奈良国民文化祭現代詩部門日本現代詩現代詩人会会長賞など、韻文、散文問わず受賞者を輩出している。織田作之助賞を受賞した筆名松嶋智佐さんは元大阪府警の女性白バイ隊員で、警察ものの小説を続々と発表している人気作家だ。うれしいことだ。どういう教え方をしているのか知らないが、自ずと伝わるものがあるのだろう。
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私自身は2002年に文化センター退職。その後も以倉さんが主宰している上質の同人詩誌『アリゼ』をずっと送っていただいている。のみならず以倉さんはじめ同人が出す詩集まで必ず送られてくる。その度に以倉流の「命から、魂から生まれた」言葉に俗塵に汚れた身が洗われる思いを抱くのである。一方で、『アリゼ』にしばらくの間雑文を寄稿するという鉄面皮なことまでした。
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夜学生
大阪市の某孤児院の門前に捨子があった。昭和三十三年十二月二十八日の夕刻で生後三週間であった。少年は、中学を卒業する迄この施設で育てられた。卒業後は福祉規則に従って施設を出、大阪平林にあるベニヤ工場に勤め、寮の住込みとなった。昭和四十九年四月、少年はこうして夜学に入学してきたのである。学級委員に選ばれ、体操部に所属した。華麗ではないが、努力型の演技は今も私のまぶたにある。二年の時、小年は二,三の級友(クラスメイト)を前に自己の生いたちを語ったことがあった。作文の時間のあと、自分は捨子であること、書置きによって母の出身地は長崎県であり、その名は<柳田ベン>であると。その年の夏、同郷の級友の案内で、彼は長崎市へ旅立った。しかし、<柳田ベン>なる女性の行方はしれなかったのである。施設で育って、大阪の地下鉄ですら乗車したことのなかった彼の、唯一の旅が母を求める旅であったことは象徴的である。柳田が発病したのは、昭和五十三年十一月であった。大阪扇町公園で、深夜、暗い夜空に向かって咆哮しているところを警官に補導され、某精神病院に収容された。私は大和川沿いにあるその病院を幾度か見舞っている。すでに全身がむくみ、分裂病特有の緩慢な動作と弛緩した表情をもつ人間になっていた。<窓から>と彼は言った。その時の目の異様なかがやきを私は忘れない。<きのうもお母さんが覗いていた>と。柳田信吾の病いは一進一退であった。ただ一度、病気が快方にむかったことがあった。彼は担任の私に<帰るところがあればなあ>とつぶやいたのである。妻と二人の幼児のいる狭い私の家に、彼をひきとることは不可能であった。私は無言のうちに彼を拒み、彼の快癒の唯一の機会を奪い去ったのである。彼はやがてリハビリテーション用の公共の厚生施設に移され、施設と病院の出入りを繰り返した。それから七年、昭和六十年十二月七日、柳田信吾は病院の屋上から投身自殺をとげたのであった。病院のカルテには、警察の調べによって彼の死を<柳田ベン>に伝えたとある。<柳田ベン>は、遺体並びに遺骨の引取りを受諾せず、病院側にまかせる由の連絡をしたと記している。よって彼の遺体は、大阪市長の命により、セレモニーユニオンなる名の葬儀会社によって荼毘に付され、その遺骨は、阿倍野斎場高台の最西端にある無縁仏の墓に合葬された。一年後、私は病院のカルテの記載をたよりに、<柳田ベン>の動静を求めて、佐賀県唐津市の小さな田舎町を訪ねて行った。私の目的は、いかなる理由によって子供を捨て、いかなる理由によって遺骨の引取りを拒んだのかを知ることではない。わが子との対面を拒むには余人の与り知らぬ深い事情がひそんでいるに違いない。ただ私は、生前の少年が母を求めて旅立ったこと、病室の窓から自分を見つめている母を歓喜をもって語った事実だけは伝える義務があると信じたからである。しかし、捜しあてた共同長屋の住所には、すでに<柳田ベン>はいなかった。彼女は半年前に死亡しており、しかも彼女は、<柳田ベン>という名をもつ廃品回収を業とした朝鮮の女(ひと)であったのである。
(以上原文のママ。原文は縦書き)
(元社会部、藤田 修二)