閑・感・観~寄稿コーナー~
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新刊紹介 辻一郎著『放送人 高橋信三とその時代』刊行(藤田 修二)

2022.05.15

閑・感・観~寄稿コーナー~

「放送人高橋信三とその時代」

 高橋信三さん(1901-1980)は28年に大阪毎日新聞に入社、経済部長から編集総務(編集局長の次のポスト)時代に放送局の設立を命じられ、50年に日本初の民間放送局「新日本放送」(毎日放送=MBSの前身)を発足させ、61年毎日放送社長、77年に会長。会長のまま80年に死去したメディアの大先輩である。新日本放送設立当初からは名目上の社長は財界人が座っていたが、実質上の中心人物だった。のみならず長年にわたる活動で、日本の放送界全般に強い発言力を持っていた実力者である。

 著者の辻一郎さんは同社の元取締役報道局長。55年に新日本放送に入社し、主に報道畑を歩み、直接高橋さんの薫陶も受けたことがある人だ。父君は辻平一さん。在任中にサンデー毎日の部数を30万部から80万部に爆発的に伸ばした編集長として知られる。

 という次第でモチーフも著者も毎日新聞に直接・間接に深いゆかりがある人たちなのでこのコーナーに投稿する次第。

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 私は高橋さんに直接お目にかかったことはない。それどころか書かれたものを読んだこともない。しかし、辻さんの以前の著書『私だけの放送史』(2008年、清流出版)で晩年の高橋さんが新年祝賀会で年末年始の番組の感想をこう述べたと紹介していて、関心を抱いていた。曰く「われわれが目指してきた放送とは、こんな程度のものだったのか。視聴率をとりたい一心で、愚劣な番組をならべるのはやめてほしい」。視聴率とは民放業界のいわば通貨であり、民放はそれに血眼になっているのだが、こういう経営者もいたのかと。

 戦前の新聞、日本放送協会のありようを身にしみて知る高橋さんは、民主主義の大切さ、そのための多様な情報をメディアが提供することの大切さを折に触れて訴えた。そのことを通じて新しい日本を建設していこうとした。その意気込みは「新日本放送」という社名に如実に表れている。

 以下この本による高橋語録のいくつかを紹介したい。

 「NHKは戦争中“大本営発表”という形で大ウソをついた過去がある。これに対し、われわれの放送は、表現の自由を活発に発揮するものであり、官営に対して民間で行う放送である。その意味で(NHKが使う商業放送ではなく)民間放送という呼称を使っている」(1967年、民放連放送研究所設立5周年のシンポジウムで)。

 「テレビが茶の間の娯楽機関という時代はいまやすぎ、報道機関であり、教養機関であるという時代に入りつつあります」(同年、入社式)

 「われわれは株式会社毎日放送の経営にあたっていますが、目的は利益をあげることではありません。目的は毎日放送という放送を通じて、社会に貢献することです。…そのことをもう一度、肝に銘じていただきたいと思います」(1971年叙勲を受けた後社員が集まって開いた会合で)

 「ジャーナリズムは、常に大衆とともにあり、政府に対しては野党的でなければなりません。それは即ち大衆の利益、“最大多数の最大幸福”を探し求めることがジャーナリズムの使命だからです」(1972年年賀式)

 「わが国の民放における報道番組の比重は現在まことに小さい。報道番組が、営業的にスポンサーがつきにくいとか、娯楽番組に比べて視聴率が低いというような議論は、…外部の社会には通用しない」(月刊民放1972年4月号)

 山崎豊子さんの『華麗なる一族』は執筆当時から財界からクレームがついた作品だったが、それを毎日放送がドラマ化した時に高橋さんが山崎さんに言った言葉が印象深いと山崎さんが書いている。「『何も難しいことはない。自分たちが“放送人”であるという意識さえ持てば、…自ずから簡単明瞭にわかる。極端にいえば、アチャラカ番組で稼いだ金をため込まんと、出血覚悟でええ番組を作る、それぐらいの番組制作の情熱がなかったら、放送会社やない、広告会社や』と至極当然のようにおっしゃった」と(1980年追想高橋信三)。

 この本の末尾に毎日新聞から毎日放送に移った北野栄三・元毎日放送常務(毎日新聞終身名誉職員、毎友会会員)も一文を寄せている。「会社の入社式で『憲法を読め』と言ったのには驚いた」と書き、「日本の放送人に望みたいのは、『もう高橋の時代ではない』と言う前に、高橋のいた時代を歴史として、放送のこれからのために学んでほしいことである」と呼びかけている。

 高橋さんは大阪の天王寺中学のころ、ズボと言うあだ名が付けられたという。何となくズボラなところがあったのか。中学同級生の上田常隆さん(後の毎日新聞社長)が毎日入社後もそのあだ名を広めたそうだ。ヌーボーとした様子の中にも経営者として厳しい側面も持ち合わせていたのだろうが、メディアの経営者として上記のような理念を絶えず掲げる姿勢には敬意を抱かざるを得ない。

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 ところが現在の放送界は高橋さんが掲げた理念とずれてきているようだ。辻さんがこの本を書いた理由もそこにある。

 高橋さんの提言で毎日放送が76年に始めた夕方のワイドなローカルニュース番組は、その後、NHKを含めて各局が追随した。それが近年では吉本芸人らが目立つ娯楽色が濃い内容になってきている。

 そして今年の元日のバラエティー番組で、毎日放送は日本維新の会の松井一郎代表(大阪市長)、吉村洋文副代表(大阪府知事)、創設者の橋下徹氏をそろって出演させ、維新色の濃い話題で雑談させた。視聴者や番組審議会から「政治的公平の見地から問題がある」との指摘を受け、同社の調査委員会は「放送基準上の認識が甘かった」と結論付けた。私は、個々の番組で政治的公平性を担保する必要はなく、局全体の番組でバランスをとればいいという立場(政府の統一見解もそうなっている)だが、いかんせんこの番組は視聴率狙いで仲間内3人をそろえてあれこれしゃべらせたことに問題がある。「報道番組」がバラエティー化しているのと同じことだ。高橋さんが存命ならどうしただろう。

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 以下高橋さんと毎日新聞について一部を抜粋する。

【京都支局時代】

 振り出しは伝説の大物支局長、岩井武俊さんの時代だ。社史には全く記述がないので興味深く読んだ。

 井上靖さんによる岩井評を紹介している。それによれば「私は新聞社にいる間、氏に頭が上がらなかった。宗教や美術は勿論のこと、広く一般の文化問題にふかい造詣と独自な見識を持っており、大学出の青二才が立ち対える相手ではなかった。…私は新聞記者で氏の如くひろい教養を持ち、権力に屈せず、己を曲げない人物を知らない」と(サンデー毎日1961年4月2日号)。

 岩井さんは一流の学者、文人、芸術家と深く交わり、陶芸の河井寛次郎ら当時の気鋭の人たちを育てるのに心を尽くした。そういう場に加藤三之雄、森正蔵、城戸又一、小瀧顕忠、辻平一、高橋ら支局員をよく同席させた。まだ大正デモクラシーの残り香も少しは漂っていたころ、支局員たちは上質の文化に包まれて成長したのではないか。高橋さんが放送の質にこだわったのは京都支局時代が原点としてあったように思われる。

 高橋さん自身「当時の京都支局は、まことに新聞記者修行のための恰好の場所であったと思う。十何人かの支局員だけで、京都大学の各学部をはじめとして各宗各派の総本山クラスの寺院や一流の美術工芸家たちから取材するためには、聞き手として恥ずかしくないだけの見識を持たなければならないと勉強させられた」と述懐している(毎日放送社報1977年5月1日号)

 もっとも岩井さんが大物でありえたのは、人格識見だけでなくお金の裏打ちがあったからこそで、辻さんは余談として書いているが、1934年岩井さんは勤続20年賞与として4300円をもらっている。「今の金だったら5000万円以上になるかもしれない。当時の新聞社の威勢の良さがうかがえる」とそれなりの高給取りだったと思われる辻さんが驚いている。これは岩井個人に支給されたもので、そのほか支局経費が毎月どれほどあったことか、私、貧乏支局長経験者としては想像するだにやるせない。

【毎日新聞社の新旧分離の時】

 1977年の毎日新聞社の実質上の倒産、会社を新旧2つに分けて再建するに際し、平岡敏男・毎日新聞社長から支援を求められた高橋さんの態度はまことに厳しかった。「平岡さんの再建策には次々とクレームをつけ、簡単に認めようとはしなかった。この背景には平岡の案を『甘い』と考え、『この程度の手術で、毎日新聞の生き残りが、本当にはかれのるのか』と懸念を抱いていたこともあったろう。だがそれだけでなく『毎日新聞と言う泥船と一緒に沈んでは大変だ。毎日放送はここは慎重に、毎日新聞と距離をおこう』と計算したところもあったのではないかと考えられる」と辻さんは記している。

 新会社への出資金は1億円。新会社の発起人には名を連ねた。ちなみにTBSの出資金は5000万円、発起人にはならなかった。RKB毎日の出資金は3500万円だった。

 辻さんによると、平岡さんから新会社の会長に就いてくれないかと打診を受けたとき、「もう10歳若かったら、毎日新聞に戻って、立て直しに協力するのだが…」と実に残念がったと言われる。「高橋の毎日新聞への愛情はそれほど深いものがあった。これは『自分を育ててくれたのは毎日新聞』という思いから生まれていた」という。

 私は当時毎日新聞労働組合本部執行委員会の一員ではあったが、この辺りのいきさつはほとんど知らないので、辻さんの記述をそのまま紹介した。

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 本書は単に高橋さんの伝記ではなく、表題にあるように同時代の放送を中心としたメディア史、それに辻さんのちょっとした自分史でもある。A5判570頁。高橋さんの秘書だった庄司葉子(映画界に転じて司葉子)さんらにも丹念に話を聞き、膨大な資料を博捜した労作。大阪公立大学共同出版会刊。3500円+税。

 全くの余談で、もちろんこの本には書いていないが、戦前大毎野鳥の会というのがあった。1938年大阪での探鳥会のあと発足して間もない会の創設者中西悟堂さんは大毎名古屋総局に立ち寄った。「名古屋総局長浦田氏がすこぶる野鳥運動にご熱心で、大毎総局楼上で一夜の会合を開いていただいた」と中西さんは記録に残している。出席者の中に経済課長高橋信三さんの名もある。

                              (元代表室 藤田修二)