2020.07.23
閑・感・観~寄稿コーナー~
全国に散在する宮内庁治定の天皇皇后皇族の陵墓や伝承陵墓、主な古墳巡りは、2019年春の鹿児島県にある「神代(かみよ)三代」と言われる初代神武(じんむ)天皇の父、祖父、曽祖父の3御陵を終え、自分なりの資料作りがひと区切りしたので、資料作りの中で気づいた、「和歌」や「小倉(おぐら)百人一首」について調べてみた
。
今日ではパソコンやスマホを使ったメールやSNSなどで所用や思いが短文で交わされているが、1000年以上も昔の平安時代にも和歌という極めて短文な手法でそれぞれの思いを伝え合っていた。当時の平仮名による和歌の集大成ともいえる「小倉百人一首」とともに、現代の年初に行われる宮中での「歌始め」に相当する「歌会(うたかい)」や「歌合(うたあわせ)」が盛んに開催され、歌人が集まる「歌会」だけでなく、歌を集めて競ったいわゆる「紙上歌合」にも発展し、一層の平安文化の形成に大きな役割を果たしたに違いない。以下、「小倉百人一首」を中心に概略的に書いてみるが、今回は「小倉百人一首」や「三十六歌仙(かせん)」、「歌合」などの全歌をはじめ、各歌人の経歴やプロフィールを割愛するので、その資料は、またの機会にしたいと思う。
1.和歌と小倉百人一首
「小倉百人一首」は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて歌人として活躍した、公卿(くぎょう)の藤原定家(ていか)によって撰集(せんじゅう)された。藤原定家の漢文で書かれた日記「明月記(めいげつき)」(国宝)の文暦(ぶんりゃく)2年(西暦1235年)5月27日の記述によると、撰集のきっかけは、鎌倉幕府の御家人(ごけにん)で鎌倉歌壇の代表的歌人の宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)が、後に出家して實信房蓮生(じつしんぼうれんじょう)と号し、京都嵯峨野(さがの)に建てた別荘「中院(ちゅういん)山荘」の襖絵(ふすまえ)に使うため、藤原定家に歌人の和歌の色紙(しきし)を依頼したことによる。「明月記」によれば、蓮生からは「色紙には藤原定家の揮毫(きごう)で書いてほしい」とあり、藤原定家は筆が得意でないと断ったが、再三の頼みを断り切れなかった、としている。
藤原定家は撰集にあたって、近江京(おうみきょう)の38代天智(てんぢ)天皇や藤原京(ふじわらきょう)の39代持統(じとう)天皇の、萬葉(まんよう)時代とも言われる飛鳥(あすか)時代から、鎌倉幕府に握られてきた政権を取り戻そうとして失敗=承久(じょうきゅう)の乱(らん)=し、自らも隠岐(おき)に流された82代後鳥羽(ごとば)上皇、同罪で佐渡に流された84代順徳(じゅんとく)天皇までの秀れた歌人100人の歌を一首ずつ取り上げ、時代順に色紙に書いて蓮生(宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)に渡した。
一説では蓮生に渡したのは98首で、残りの2首を蓮生に任せたのではないかともいわれ、また歌壇の重鎮の一人とされる蓮生の歌が「小倉百人一首」の中に無いのも定家撰集の意義からは不自然である。そうであるとすれば、残りの2首が誰なのか、蓮生も出家前から宇都宮頼綱として宇都宮歌壇を担う著名な歌人であっただけに、定家の撰集どおりとなったかどうかは不明であるが、「小倉百人一首」の呼び名はこうした藤原定家が蓮生の中院山荘に絡んで撰集したことによるのは間違いない。歌の並びは蓮生に渡した色紙の順に番号が振られており、後世いつの頃からか前述の5月27日が「百人一首の日」と言われ、宇都宮頼綱の出所である栃木県宇都宮市では蓮生というよりも「百人一首の頼綱」としていろんなイベントがあるようである。
平安時代は宗教、文学、建築、美術などの文化が一斉に花開いた時代であるが、文学面では話しことばを文字に起こす手段として使われた萬葉仮名(まんようがな)が、使いやすい平仮名・片仮名が考案された時代で、平安時代の3大文学といわれる伊勢(いせ)物語、源氏(げんじ)物語、古今(こきん)和歌集をはじめ、3大随筆といわれる枕草子(まくらのそうし)、徒然草(つれずれ草)、方丈記(ほうじょうき)など多くの作品が生まれた。中でも和歌については、それを身につけることが、出世の手段ともなる、古来からの貴族社会の大事な教養ともなっていった。伊勢物語を例に挙げたので、その第84段を挙げてみよう。
昔男ありけり。・・・(中略)・・・。さるに、十二月(じゅうにがつ)ばかり
に、とみのこととて、御ふみあり。おどろきて見れば、歌あり。
老いぬればさらぬ別れのありといへば いよいよ見まくほしき君かな
かの子、いたううち泣きてよめる。
世の中にさらぬ別れのなくもがな 千代(ちよ)もといのる人の子のため
伊勢物語は在原業平(ありはらのなりひら)の作と言われており、自分の母の伊都(いづ)内親王から、年末のあいさつがてらに、「年を取るといつ別れが来るかもしれず、とても逢いたい」と子の業平に手紙を出したが、手紙にはその歌だけが書かれてあって、これに業平は「世の中にはそんなこともあるけど、千年も長生きしていてほしい」と、これも歌だけで返事した、という内容である。在原業平は「三十六歌仙」にも選ばれ、「小倉百人一首」にも採られている歌人ではあるが、日常のこうしたやりとりが、きわめて短文の和歌で普通に行われていたのである。平安時代の文化の進み方には目を見張る驚きがある。
そうして詠(よ)まれた数多くの和歌が歌人独自の歌集や、撰者によって編纂された勅撰(ちょくせん)和歌集に収められてきたが、「小倉百人一首」は和歌を通して、平仮名の無かった萬葉時代から平仮名を交えた平安時代までの文字使い文化の変遷を幅広く総括したともいえる。
和歌の成り立ちについては定かではないが、「古事記」「日本書紀」にみられる天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟の素戔嗚尊(すさのおのみこと)が出雲(いずも)の地で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治してそこに宮(みや)を作ったとされる下りで、素戔嗚尊が、宮を建てたその地から雲が立ち上るのをみて詠んだとされる下記の歌があり、これが和歌の起源とされている。
「古事記」は40代天武(てんむ)天皇が西暦672年に、自らが起こした「壬申(じんしん)の乱(らん)」で焼失した国史を復元するために、稗田阿禮(ひえだのあれい)に「帝紀(ていき)」や「舊辭(きゅうじ)」を誦習(しょうしゅう)させ、43代元明(げんめい)天皇時の西暦712年に太安萬侶(おおのやすまろ)によって編纂されたが、記述の文体は、漢文体と話し言葉を漢字に当てた文体とを混淆(こんこう)した形式をとった。「古事記」とほとんど並行して720年に完成した「日本書紀」は、天武天皇の皇子舎人(とねり)親王=崇道盡敬皇帝(すどうじんけいこうてい)=の編纂で完全な漢文体で書かれている。ただし、下記の歌は「古事記」同様に話し言葉を漢字に当てている。
古事記 夜久毛多都(やくもたつ) 伊豆毛夜幣賀岐(いづもやへがき)
都麻碁微尒(つまごみに) 夜幣賀岐都久流(やへがきつくる)
曽能夜幣賀岐袁(そのやへがきを)
日本書紀 夜句茂多兔(やくもたつ) 伊弩毛夜覇餓岐(いづもやへがき)
兔磨語昧爾(つまごみに) 夜覇餓枳都倶盧(やへがきつくる)
贈廼夜覇餓岐廻(そのやへがきを)
現代語文 八雲(やぐも)立(た)つ 出雲八重垣(いづもやえがき)
妻(つま)ごみに 八重垣作(やえがきつく)る
その八重垣(やえがき)を
上記の漢字の使い方は、後に最古の歌集「萬葉集」に使われたことから、「萬葉仮名」と呼ばれているが、読みを平仮名に起こしたこの歌は「古今和歌集」の序文の「仮名序(かなじょ)」に採られている。
「小倉百人一首」には「萬葉集」から3首が採られているが、萬葉集に書かれた文体では次のようになる。
※歌番号は「小倉百人一首」に付けられた番号。
歌番号2 持統天皇
春過而 夏來良之 白妙能 衣乾有 天之香來山(万葉集巻1-28)
春過ぎて 夏來(き)にけらし 白妙(しろたえ)の 衣(ころも)ほすてふ
天(あま)の香具山(かぐやま)(新古今和歌集巻3夏歌 175)
歌番号3 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)
足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾乃 長永夜乎 一鴨將宿
(万葉集巻11-2802 詠み人知らず)
あしびきの 山鳥(山鳥)の尾(お)の しだり尾(お)の ながながし夜(よ)
をひとりかも寢(ね)む(拾遺=しゅうい=和歌集 778)
歌番号4 山邊赤人(やまべのあかひと)(山部赤人)
田兒之浦從 打出而見者 眞白衣 不盡能高嶺爾 雪者零家留
(万葉集巻3-318)
田子(たご)の浦(うら)に うち出(い)でて見れば 白妙(しろたえ)の
富士の高嶺(たかね)に 雪は降りつゝ(新古今和歌集巻6冬歌 675)
従って、上記3首は萬葉集から直接採録せず、新古今和歌集と拾遺(しゅうい)和歌集に再録された現代語文体の歌を採っている。
<小倉百人一首・歌人の内訳> ※〇数字、(100)数字は歌番号。
◆◆男性(79名)◆◆
【天皇】(7名)
①38天智天皇、⑬57陽成(ようぜい)天皇、⑮58光孝 (こうこう) 天皇、(58)67三條天皇、(77)75崇徳(すとく)天皇、(99)82後鳥羽(ごとば)天皇、 (100)84順徳(じゅんとく)天皇
【親王】(1名)
⑳元良(もとよし)親王(57陽成天皇第1皇子)
【萬葉歌人】(3名)
③柿本人麿(かきもとのひとまろ)、④山邊赤人(やまべのあかひと)、⑥中納言家持(ちゅうなごんやかもち)=大伴家持(おおともやかもち)
【公卿】(28名)
◇攝政關白(せっしょうかんぱく)(4)
㉖貞信公(ていしんこう)=藤原忠平(ただひら)=、㊺謙徳公(けんとくこう)=藤原伊尹(これただ)=、(76)法性寺入道前關白太政大臣(ほっしょうじにゅうどうさきのだじょうだいじん=藤原忠通(ただみち)=、 (91)後京極攝政前太政大臣(のちのきょうごくせっしょうさきのだじょうだいじん)=九條良經(よしつね)=
◇征夷(せいい)大将軍(1)
(93)鎌倉右大臣(うだいじん)=源實朝(みなもとのさねとも)=
◇公卿(23)
⑪参議篁(さんぎのたかむら)=小野(おの)篁=、⑭河原左大臣、(かわらのさだいじん)=源融(みなもとのとおる)=、⑯中納言行平(ちゅうなごんゆきひら)=在原行平(ありはらゆきひら)=、⑰在原業平朝臣(ありはらのなりひらあそん)、㉔菅家(かんけ)=菅原道眞(すがはらみちざね)=、㉕三條右大臣(うだいん)=藤原定方(さだかた)=、㉗中納言兼輔(ちゅうなごんかねすけ)=藤原兼輔(かねすけ)=、(39)参議等(さんぎのひとし)=源等(みなもとのひとし)=、㊸権中納言敦忠(ごんちゅうなごんあつただ)=藤原敦忠(あつただ)=、㊹中納言朝忠(ちゅうなごん)=藤原朝忠(あさただ)=、(55)大納言公任(だいなごんきんとう)=藤原公任(きんとう)=、(51)藤原義孝(よしたか)、(63)左京大夫道雅(さきょうだゆうみちまさ)=藤原道雅(みちまさ)=、(64)権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより)=藤原定頼(さだより)=、(71)大納言經信(だいなごんつねのぶ)=源經信 (みなもとのつねのぶ)=、(73)権中納言匡房(ごんちゅうなごんまさふさ)=大江匡房(おおえまさふさ)=、(79)左京大夫顯輔(さきうだゆうあきすけ)=藤原顯輔(あきすけ)=、(81)後徳大寺左大臣 (のちのとくだいじさだいじん)=後徳大寺實定(さねさだ)=、 (83)皇太后宮大夫俊成(こうたいごうだゆうしゅんぜい)=藤原俊成(しゅんぜい)=、(94)参議雅經(さんぎのまさつね)=飛鳥井經 (あすかいまさつね)=、(96)入道前太政大臣(にゅうどうさきのだじょうだいじん)=西園寺公經(さいおんじきんつね)=、 (97)権中納言定家(ごんちゅうなごんていか)=藤原定家(ていか)=、(98)從二位家隆(じゅにいいえたか)=藤原家隆(いえたか)
◇下級貴族(24名)
⑱藤原敏行朝臣(としゆきあそん)、㉒文屋康秀(ふんやのやすひで)、㉓大江千里(おおえのちさと)、㉘源宗干朝臣(みなもとのむねゆきあそん)、㉙凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、㉚壬生忠岑(みぶのただみね)、㉛坂上是則(さかのうえのこれのり)、㉜春道列樹(はるみちのつらき)、㉝紀友則(きのとものり)、㉞藤原興風(おきかぜ)、㉟紀貫之(きのつらゆき)㊱清原深養父(きよはらふかやぶ)、㊲文屋朝康(ふんやのあさやす)、㊵平兼盛(たいらのかねもり)、㊶壬生忠見(みぶのただみ)、㊷清原元輔(きよはらのもとすけ)、㊸源重之(みなもとのしげゆき)、㊾大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)、(51)藤原實方朝臣(さねかたあそん)、(52)藤原道信朝臣(みちのぶあそん)、(74)源俊頼朝臣(みなもとのとしよりあそん)、(75)藤原基俊(もととし)、(78)源兼昌(みなもとの かねまさ)、(84)藤原清輔朝臣(きよすけあそん)
◇僧侶(13名)
⑧喜撰(きせん)法師、⑩蟬丸(せみまる)、⑫僧正遍照(そうじょう へんじょう)、㉑素性(そせい)法師、(47)惠慶(えぎょう)法師、(66)前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん)、(69)能因(のういん)法師、(71)良暹(りょうぜん)法師、(82)道因(どういん)法師、 (85)俊惠(しゅんえ)法師、(86)西行(さいぎょう)法師、(87)寂蓮 (じゃくれん)法師、(95)前大僧正慈圓(さきのだいそうじょうじえん)
◇他 (3名)
⑤猿丸大夫(さるまるだゆう)、⑦阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、 ㊻曽禰好忠(そねよしただ)
◆◆女性(21名)◆◆
【天皇】(1人)
②41持統(じとう)天皇
【内親王】(1人)
(89)式子(のりこ)内親王=77後白河(ごしらかわ)天皇皇女
【女房(にょうぼう)】(17名)
⑨小野小町(おののこまち)、⑲伊勢(いせ)=藤原繼蔭(つぐかげ)の娘=、㊳右近(うこん)=右近衛少將(さこのえしょうしょう)藤原季繩(すえなわ)の娘=、(56)和泉式部(いずみしきぶ)、(57)紫式部(むらさきしきぶ)、(58)大貮三位(だいにさんみ)=紫式部の娘)、(59) 赤染衛門(あかぞめえもん)=大隅守赤染時用(おおすみのかみあかぞめときもち)の娘=、(60)小式部内侍(こしきぶないし)=和泉式部の娘=、(61)伊勢大輔(いせのたいふ)、62清少納言(せいしょうなごん)、(65)相模(さがみ)=但馬守頼光(たじまのかみよりみつ)の養女 =、(67)周防内侍(すおうないし)=平仲子(たいらのなかこ)=、 (72)祐子(ゆうし)内親王家紀伊(けきい)、(80)待賢門院堀河(たいけんもんいんほりかわ)=源顯仲(みなもとのあきなか)の娘=、(88)皇嘉門院(こうかもんいん)別当=源俊隆(みなもとのとしたか)の娘=、 (90)殷富門院大輔(いんぷもんいんたいふ)=藤原信成(のぶなり)の娘=、(92)二條院讃岐(さぬき)=源頼政(みなもとのよりまさ)の娘
【公卿母(くぎょうはは)】(2名)
(53)右大將道綱(うたいしょうみちつな)母=藤原兼輔(かねすけ)妻=、(54)儀同三司(ぎどうさんし)母=高階貴子(たかしなきし)=
【歌種別】
・季(32首=春6、夏4、秋16、冬6) ・戀(43首) ・羇旅(きりょ)=(4首)
・離別(1首) ・雑(ぞう)=(19首) ・雑秋(ぞうしゅう)=(1首)
<「小倉百人一首」に採られた100人の歌人の歌集>
・古今(こきん)和歌集(24) ・千載(せんざい)和歌集(15) ・新古今和歌集(14)
・後拾遺(ごしゅうい)和歌集(14) ・拾遺和歌集(10) ・後撰(ごせん)和歌集(7)
・金葉(きんよう)和歌集(5) ・詞花(しか)和歌集(5) ・新勅撰(ちょくせん)和歌集(4) ・続後撰(ごせん)和歌集(2)
「小倉百人一首」の100人の歌人は時代、官位、職種、事情など、撰集のバランスは必ずしも完璧ではないものの割合いよく配慮されていて、天皇についても1156年の保元(ほうげん)の乱で四国の讃岐(さぬき)に流された75代崇徳(すとく)上皇、
歌番号77 瀬(せ)をはやみ 岩(いわ)にせかるる 瀧川(たきがわ)の
割(わ)れても末(すえ)に あはむとぞ思ふ(詞花和歌集 229)
1221年の承久(じょうきゅう)の乱で隠岐に流された82代後鳥羽上皇
歌番号99 人も惜(お)し 人も恨(うら)めし あぢきなく
世(よ)を思ふゆゑに 物思ふ身は(続後撰和歌集 1202)
と佐渡に流された84代順徳(じゅんとく)上皇、
歌番号100 ももしきや 古き軒端(のきば)の しのぶにも
なほ余(あま)りある 昔なりけり(続後撰和歌集 1205)
いずれも帰京かなわず現地で没した3天皇の情を汲んだ選定は特筆される。中でも後鳥羽上皇は藤原定家に並ぶ歌才に秀で、遠い隠岐から京の歌人たちや佐渡の順徳上皇らを巻き込んだ大掛かりな「歌合」を主催するなど、当代随一の歌人の一人で、選ばれるのは当然のことではあった。また、代表的歌人の「三十六歌仙」を選定した藤原公任(きんとう)は自分をその中に加えていない謙虚さが見られていたが、藤原定家が「小倉百人一首」の歌人に藤原公任を選定したのは最もであるし、
歌番号55 瀧(たき)の音(おと)は 絶(た)えて久しく なりぬれど
名(な)こそ流れて なほ聞(き)こへけれ(千載和歌集 1035)
藤原定家自身も末席に名を連ねている。
歌番号97 來(こ)ぬ人を まつほの浦(うら)の 夕凪(ゆうなぎ)に
焼くや藻塩(もしお)の 身もこがれつゝ(新勅撰和歌集 849)
推測であるが、藤原定家は實信房蓮生(宇都宮頼綱)に渡した98人の色紙には定家自身を加えず、蓮生を入れていたので、蓮生が逆に自分をはずして藤原定家を入れたのではないかと思われる。でなければ、当時の代表的歌人であった蓮生が「小倉百人一首」の中に見えないのは、何とも理解し難いところである。
もし、藤原定家が歌人に宇都宮頼綱を選んでいたとすれば、「實信房蓮生」として、次の歌のいずれかではともいわれる。
さても猶(なお) しのべばとこそ 思ひつれ
誰(た)が心より おつる涙ぞ(続後撰和歌集)
甲斐(かい)の嶺(ね)は はや雪白し 神(かん)な月(づき)
しぐれて越(こ)ゆる さやの中山(なかやま)(続後撰和歌集)
「中院山荘」の襖絵(ふすまえ)に使われた藤原定家のこの時の色紙の一部が、後には公卿や大商人らの茶室の襖絵に使われたり、贋作(がんさく)が横行した。江戸時代には木版を使うことで、「小倉百人一首」は「かるた遊び」にも発展し、一般に普及して今日に至っている。滋賀県大津市の近江神宮では、「小倉百人一首」巻頭の歌の近江に都を置いた38代天智天皇に因んで、「かるた」に伴う祭事のほか全国的な各種の「かるた大会」が開催されている。とりわけ、前述の栃木県宇都宮市では宇都宮頼綱(實信房蓮生)に因み、「百人一首かるた」による競技や催事が盛んである。
2.歌仙と歌合
和歌は平安時代には貴族の個人的な楽しみではなく、「歌会」や「歌合」が頻繁に行われるようになり、その競い合いが一層、和歌の技法や言葉の表現の深みを高めていったとされるが、中でも「歌合」は「歌会」のように歌人たちが一堂に会して詠み合うのではなく、左右2組に分けて相対する歌人の歌の優劣を判定する「歌合」が盛んであった。優劣良否を判定する判者(はんざ・審判)は主催者が選ぶので、主催者と判者のレベルの程度がその「歌合」のレベルの高さにつながった。判者は歌に判詞(はんじ)という評価の言葉をつけるが、歌人にとっては、その判詞が単なる歌の評価ではなく官位としての自分の地位にも影響するだけに、判者が誰であるか、どのような判詞を得たかが非常に重く受け止められたという。それは更に発展して、場所や人数を選ばない「三百番歌合」「千五百番歌合」など、紙に書かれた歌による、いわば紙上での大「歌会」にもなった。
歌仙とは単なる和歌の時代から大掛かりな「歌合」にまで発展した、それぞれの時代を代表する秀でた歌人をいう。
<主な歌仙>
・三十六人撰(せん)
藤原公任が自分以外の当時の代表的な歌人の歌を選んで「三十六人撰」とした。
・三十六歌仙(かせん)
藤原公任撰「三十六人撰」に基づいた、平安時代の代表的歌人三十六人の総称。
※「三十六人撰」の撰者の藤原公任は、「三十六歌仙」にも自らを入れていない。
※「六歌仙」の文屋康秀、喜撰法師、大伴黒主は入っていない。
※藤原定家は、藤原公任を「三十六人」に並ぶ秀歌人として「小倉百人一首」に取り上げている。
・六歌仙
「古今和歌集」の「仮名序」にある下記の代表的歌人6人をいう。
僧正遍照、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大伴黒主(古今和歌集順)
※上記のうち、大伴黒主は「古今和歌集」「後撰和歌集」「拾遺和歌集」などに15句が見えるが、藤原定家は大伴黒主を「小倉百人一首」の歌人に取り上げていない。
・女房三十六歌仙
鎌倉中期の「女房三十六歌合」で詠んだ36人の女流歌人で、一人3首ずつ歌う、いわば紙上の歌合。左に小野小町から相模までの中古(ちゅうこ)歌人、右に式子内親王から藻璧門院少将(そうへきもんいんしょうしょう)までの当時の歌人を配し、一人3首ずつ歌わせた。撰者は不明。
・中古三十六歌仙
平安時代末期に、歌人よりも歌学者で知られた藤原範兼(のりかね)が編纂した「後六々撰(ごろくろくせん)」に採り上げられた歌人36人で、「三十六歌仙」以外の秀れた歌人及び、以後の歌人が対象。「中古」とは「三十六歌仙」の時代を古代と見立て、それ以後を指したとされる。
<三十六人撰>
歌人は藤原公任による撰で。歌は一人複数首、計150首が撰集されている。後に「三十六歌仙」の歌人として使われた。
<三十六歌仙>
歌人は藤原公任撰の「三十六撰」に同じ。
数字=小倉百人一首歌番号、六=六歌仙、女=女房三十六歌仙
柿本人麻呂(3) 猿丸大夫(5) 大中臣頼基(おおなかとみのよりもと) 藤原朝忠(44) 小野小町(六女9) 凡河内躬恒(29) 源信明(みなもとののぶあきら) 藤原高光(たかみつ) 伊勢(女19) 源公忠(みなもとのきんただ) 藤原仲文(なかふみ) 源順(みなもとのしたごう) 山邊赤人(4) 僧正遍照(六12) 坂上是則(31) 藤原敦忠(43) 藤原兼輔(27) 紀友則(33) 齋宮女御(さいぐうにょうご ・女) 小大君(こおおきみ・女) 藤原興風(34) 源宗干(28) 清原元輔(42) 壬生忠見(41) 大伴家持(6) 在原業平(六17) 源重之(48) 藤原元眞(もとざね) 紀貫之(35) 壬生忠岑(30) 藤原清正(きよまさ) 中務(なかつかさ・女) 藤原敏行(18) 素性法師(21) 大中臣能宣(49) 平兼盛(40)
<女房三十六歌仙>
鎌倉時代に行われた「女房三十六歌合」の組み合わせ。歌は別掲。
三=三十六歌仙、数字=小倉百人一首歌番号=。中=中古三十六歌仙
左 右
1 小野小町(三9) 式子内親王(89)
2 伊勢(三19) 宮内卿(くないきょう)
3 中務(三) 周防内侍(すおうないし67)
4 齋宮女御(三) 俊成卿女(しゅんぜいきょうむすめ)
5 右近(38) 待賢門院堀河(80)
6 右大将道綱母(中53)母 宜秋門院丹後(ぎしゅうもんいんたんご)
7 馬内侍(うまのないし中) 嘉陽門院越前(かようもんいんえちぜん)
8 赤染衛門(中59) 二條院讃岐(92)
9 和泉式部(中56) 小侍從(こじじゅう)
11 三條院女御蔵人左近(三) 後鳥羽院下野
12 紫式部(中57) 弁内侍
13 小式部内侍(60) 少将内侍
14 伊勢大輔(中61) 殷富門院大輔(90)
15 清少納言(中62) 土御門院小宰相(つちみかどいんこざいしょう)
16 大貮三位(58) 八條院高倉(はちじょういんたかくら)
17 高内侍(儀同三司母54) 後嵯峨院中納言典侍(ごさがいんちゅうなごんてんじ)
18 一宮紀伊(72) 式乾門院御匣(しきけんもんいんくしげ)
19 相模(中65) 藻璧門院少将(そうへきもんいんしょうしょう)
<中古三十六歌仙> 数字=小倉百人一首番号、女=女房三十六歌仙。
文屋康秀(22) 在原元方(ありはらもとかた) 曾禰好忠(46) 大江匡衡(おおえまさひら) 兼覧王(かねみおう) 紫式部(女57) 大江千里(23) 清原深養父(36) 菅原輔昭(すがはらすけあき) 赤染衛門(女59) 藤原公任(55) 和泉式部(女56) 在原棟梁(ありはらむねはり) 藤原定頼(64) 藤原高遠(たかとう) 藤原實方(51) 清少納言(女62) 相模(女65) 能因法師(69) 増基(ぞうき)法師
藤原長能(ながよし) 藤原義孝(50) 源道濟(みなもとのみちなり) 伊勢大輔(女61) 平貞文(たいらのさだふみ) 惠慶法師(47) 道綱御母(女53) 大江嘉言(おおえよしとき) 道命阿闍梨(どうみょうあじゃり) 藤原道雅(みちまさ)(63) 藤原忠房(ただふさ) 安法(やすぽう)(あんぽう)法師 大中臣輔親(おおなかとみすけちか) 藤原道信(52) 馬内侍(女) 上東門院中将(じょうとうもんいんちゅうじょう)
「小倉百人一首」の99番の歌人である82代後鳥羽上皇は自らも歌を良くし、隠岐に流された後も京の歌人や佐渡に流された84順徳上皇も加えた後鳥羽上皇主催の「歌合」を何度も開催し、自らが判者となり評価を楽しんだという。今のIT時代ではない1000年前後もの遠い昔に、各歌人の歌を海を越えた辺鄙な隠岐や佐渡に届け、後鳥羽上皇の判詞を持ち帰るというのは大変なことであったと思うが、西暦1239年に亡くなるまでの19年もの長い流刑年月は、この「歌合」と京の歌人たちの後鳥羽上皇の歌への情熱と尊敬がそれを支えたのであろう。
余談になるが、後鳥羽上皇はとても菊の花を好み、身の回りの物に16弁の菊の花を描き込んだといわれ、自らが打った刀剣にも花を彫り込むなど、現皇室の「菊の御紋」のルーツとされる。
3.佐竹本三十六歌仙絵
「上畳(あげたたみ)本三十六歌仙絵巻」と並び、三十六歌仙絵のうち最も古く、鎌倉時代(13世紀)に描かれた。旧出羽久保田(でわくぼた)藩主(秋田藩主)佐竹(さたけ)家に伝来。元は下鴨(しもがも)神社にあったとされる。表装は巻子装、上下2巻。絵は画家で歌人の藤原信實(のぶざね)をはじめ、その家系の複数の画人が描いたとみられる。文字は後京極攝政(ごきょうごく)九條良經(よしつね)とされ、当該歌人の略歴と代表歌が書き込まれているが、略歴では誤字脱字が多いため、実態は定かではない。
この歌仙絵巻は、佐竹家が保存してきたが、明治維新で多くの武家や元武家の華族(かぞく)が家禄(かろく)を減らし没落したように、佐竹家も窮乏し、1917年(大正6年)、多くの所蔵品とともに絵巻も売却されることになり、35萬5千円(現在価格で約36億円)で実業家の山本唯三郎(たださぶろう)氏に渡った。しかし、第一次大戦後の不況で、1919年(大正8年)に再び売られることになったが、あまりの高額のために買い手がつかず、歌仙絵を一人ずつ切り離して分割して売却された。絵は上下巻とも巻頭に絵がついて計38絵があったとされるが、現存は上巻の絵が不明で、一絵当たりの価格は現価で約1億円にも相当するが、その37絵は所有者の変遷を経て、所蔵、保管実態は個人所蔵が16、美術館18、文化庁2、国立博物館1となっている。
このうち、32絵と「下巻」巻頭の景の33点が重要文化財に指定され、「齋宮女御」絵は重要美術品に、残る3絵は未指定である。昨秋(2019年10月12日~11月24日)、京都国立博物館で、凡河内躬恒、猿丸太夫、齋宮女御、藤原清正、伊勢、中務(中務以外の5絵は個人所蔵)の6絵を除く31絵が展示されたが、31絵が揃ったのは1919年に分割されて以来の100年ぶりとされる。各絵は重要文化財に指定された貴重な芸術品だけに、分割後も各絵はすばらしい表装で、良好に保存されている。
佐竹本三十六歌仙絵巻に書かれた歌の4首が小倉百人一首に採られている歌で、それ以外の歌人の歌の撰者は定かではない。
=上巻= 巻頭の景は不明。玉津姫明神(たまつひめみょうじん)、または下鴨(しもがも)神社と推定される
柿本人麻呂 ほのぼのと あかしの浦(うら)の あさぎりに 島(しま)がくれゆく
舟(ふね)をしぞおもふ(古今和歌集巻9-409)
重要文化財 東京都 出光(いでみつ)美術館
凡河内躬恒 いづくとも 春(はる)のひかりは わかなくに まだみ吉野(よしの)
の 山(やま)は雪(ゆき)ふる(後撰和歌集19)
―未指定― 個人蔵
大伴家持 さをしかの 朝(あさ)たつ小野(おの)の 秋(あき)萩(はぎ)に たまと
見(み)るまで おける白露(しらつゆ)(新古今和歌集巻4-334)
重要文化財 個人蔵
在原業平 世(よ)の中(なか)に たえて櫻の(さくら) なかりせば 春(はる)のこ
ころは のどけからまし(古今和歌集巻1-53)
重要文化財 大阪市 湯木(ゆぎ)美術館
素性法師 いま來(こ)むといひしばかりに長月(ながつき)の有明(ありあけ)の月
(つき)をまちいでつるかな
(古今和歌集巻14-691、小倉百人一首21)
重要文化財 個人蔵
猿丸大夫 をちこちの たつきもしらぬ やま中(なか)に おぼつかなくも 呼
(よ)ぶ子(こ)鳥(とり)かな(古今和歌集巻1-29)
―未指定― 個人蔵
藤原兼輔 人(ひと)の親(おや)の こころはやみに あらねども 子(こ)をおもふ
道(みち)に まよいぬるかな(後撰和歌集1102)
重要文化財 個人蔵
藤原敦忠 あひみての のちのこころに くらぶれば 昔は(むかし)ものを 思(おも)
はざりけり(拾遺和歌集710、小倉百人一首43)
重要文化財 個人蔵
源公忠 行きやらで 山路(やまじ)くらしつほととぎす いまひとこゑの 聞
(き)かまほしさに(拾遺和歌集106)
重要文化財 京都市 相国寺(しょうこくじ)承天閣美(しょうてんか
く)術館
齋宮女御 琴(こと)の音(ね)に 峯(みね)の松風(まつかぜ) かよふらし いづれ
の緒(お)より しらべそめけむ(拾遺和歌集451)
重要文化財、重要美術品 個人蔵
※下記の経歴が書かれている。ルビは歌ともに振っていない。
齋宮女御徽子(さいぐうの(にょうごきし)
二品式部卿重明(にほんしきぶきょうしげあき)親王女(むすめ)
母貞信女(さだのぶ)公女むすめ)
承平(じょうへい)六年九月成齋宮(さいぐう) 年八歳三品(さん
ぽん)
元暦三(がんりゃく)年為女御(にょうご) 御年廿三歳 仍(なお)
號(ごう)齋宮女御(さいぐうのにょうご) 又(また)號(ごう)承嘉
殿女御(じょうかでんのにょうご)
源宗干 ときはなる 松(まつ)のみどりも 春(はる)くれば いまひとしほの
色(いろ)まさりけり(古今和歌集巻1-24)
重要文化財 個人蔵
藤原敏行 秋(あき)きぬと 目(め)にはさやかに 見(み)えねども
風(かぜ)の音(おと)にぞ おどろかれぬる
重要文化財 個人蔵 (古今和歌集巻4-169)
藤原清正 子(ね)の日(ひ)して しめつる野辺(のべ)の ひめこ松(まつ)
引(ひ)かでや千代(ちよ)の かげを待(ま)たまし
(新古今和歌集巻7-709)
※「子の日」は正月の最初の「子」の日。長寿を祝う日。
―未指定― 個人蔵
藤原興風 たれをかも 知(し)るひとにせむ 高砂(たかさご)の 松(まつ)も昔
の(むかし) 友(とも)ならなくに
(古今和歌集巻17-909、小倉百人一首34)
重要文化財 小牧市 メナード美術館
坂上是則 みよしのの 山(やま)の白雪(しらゆき) つもるらし ふる里
(さと)さむく なりまさりゆく(古今和歌集巻6-325)
重要文化財 文化庁保管
小大君 岩橋(いわはし)の 夜(よる)の契(ちぎ)りも 絶(た)えぬべし
明(あ)くるわびしき 葛城(かつらぎ)の神(かみ)
(拾遺和歌集1201)
重要文化財 奈良市 大和文華(やまとぶんか)館
※女房三(にょうぼう)十六歌仙(かせん)では「三條院女御(にょ
うご)蔵人左近(くろうどさこん)」と称している。
大中臣能宣 千(ち)とせまで かぎれる松(まつ)も けふよりは きみに引(ひ)
かれて よろづよや経(へ)む(拾遺和歌集24)
要文化財 諏訪市 サンリツ服部美術館
平兼盛 かぞふれば わが身(み)に積(つも)る としつきを 送(おく)り
むかふる 何(なに)いそぐらむ(拾遺和歌集261)
重要文化財 熱海市 MOA美術館
=下巻= 景は住吉神社(和歌の神様) 重要文化財 東京 国立博物館
紀貫之 さくらちる 木(こ)の下風(したかぜ)は 寒(さむ)からで
空(そら)にしられぬ 雪(ゆき)ぞ降(ふ)りける
(拾遺和歌集巻1-64)
重要文化財 尾道市 耕三寺(こうさんじ)博物館
伊勢 三輪(みわ)の山(やま) いかに待(ま)ち見(み)む 年(とし)経(ふ)とも
たづぬる人(ひと)も あらじと思(おも)へば
(古今和歌集巻15-780)
重要文化財 個人蔵
山部赤人 わかの浦(うら)に 潮(しお)みちくれば 潟(かた)をなみ
葦辺(あしべ)をさして たづ鳴(な)きわたる(万葉集巻6-919)
―未指定― 個人蔵
僧正遍照 すゑの露(つゆ) もとのしづくや 世(よ)の中(なか)の おくれ先
(さき)だつ ためしなるらむ(新古今和歌集巻8-757)
重要文化財 東京都 出光(いでみつ)美術館
紀友則 夕(ゆう)されば 佐保(さほ)のかはらの 川(かわ)霧(ぎり)に
友(とも)まよはする 千鳥(ちどり)なくなり(拾遺和歌集228)
重要文化財 京都市 野村(のむら)美術館
小野小町 いろ見(み)えで うつろふものは 世(よ)の中(なか)の
人(ひと)のこころの はなにぞありける(古今和歌集巻15-7)
重要文化財 個人蔵(東京国立博物館)
藤原朝忠 逢(あ)ふことの 絶(た)えてしなくば なかなかに 人(ひと)をも
身(み)をも うらみざらまし
重要文化財 個人蔵 (拾遺和歌集678、小倉百人一首44)
藤原高光 かくばかり 経(へ)がたく見(み)ゆる 世(よ)の中(なか)に
うらやましくも 澄(す)める月(つき)かな(拾遺和歌集435)
重要文化財 池田市 逸翁(いつおう)美術館(阪急文化財団)
壬生忠岑 春(はる)たつと いふばかりにや みよしのの 山(やま)もかすみて
けさは見(み)ゆらむ(拾遺和歌集1)
重要文化財 東京都 国立博物館
大中臣頼基 筑波山(つくばやま) いとどしげきに 紅葉(もみじ)して
道(みち)みえぬまで 落(お)ちやしぬらむ(不明)
重要文化財 埼玉県比企郡川島町 遠山(とおやま)記念館
源重之 吉野山(よしのやま) 峯(みね)のしら雪(ゆき) いつ消(き)えて
けさは霞の(かすみ) たちかはるらむ(拾遺和歌集4)
重要文化財 個人蔵
源信明 こひしさは 同(おな)じこころに あらずとも 今宵(こよい)の
月(つき)を きみみざらめや(拾遺和歌集787)
重要文化財 京都市 泉屋博古館
戀(こい)しさは 同じこころに あらずとも 今宵の月を
君(きみ)見(み)ざらめや
源順 水(みず)のおもに 照(て)る月(つき)なみを かぞふれば
今宵(こよい)ぞ秋(あき)の もなかなりける(拾遺和歌集171)
重要文化財 東京都 サントリー美術館
清原元輔 秋(あき)の野(の)の 萩(はぎ)の錦を(にしき) ふるさとに
鹿(しか)の音(ね)ながら うつしてしがな
重要文化財 東京都 五島(ごとう)美術館
藤原元眞 年(とし)ごとの 春(はる)のわかれを あはれとも 人(ひと)にお
くるる 人(ひと)ぞしるらむ
重要文化財 文化庁保管
藤原仲文 ありあけの 月(つき)のひかりを 待(ま)つほどに わがよのいたく
ふけにけるかな(拾遺和歌集436)
重要文化財 京都市 北村(きたむら)美術館
壬生忠視 焼(や)かずとも 草(くさ)はもえなむ 春日(かすが)野(の)を
ただ春(はる)の日(ひ)に まかせたらなむ
重要文化財 個人蔵 (新古今和歌集巻1-78)
中務 うぐひすの 聲(こえ)なかりせば 雪(ゆき)消(き)えぬ 山里(や
まざと)いかで 春(はる)を知(し)らまし(拾遺和歌集10)
重要文化財 諏訪市 サンリツ服部(はっとり)美術館
「佐竹本三十六歌仙絵」は非常に人気が高く模写や贋作が出回る中で、下記の「模写本」が残されている。
谷文晃(たにふみあきら)模写 江戸時代の南画家。住吉明神の紙背に「谷文晃之
写 書明忠(あきただ)写也」の書入れがある。齋田(さいた)記念
館所蔵。
喜多武清(きたのたけきよ)模写 江戸時代後期の南画家。上下2巻。個人蔵。
田中訥言(とつげん)模写、中山養福模写 いずれも江戸時代後期の絵師。各上下2
巻。各個人蔵。
土屋秀禾(しゅうか)木版本 明治~大正の画家。佐竹義生侯爵が製作させた。
彫刻は佐藤竹次郎。明治31年~34年、数十部製作された。巻
子装上下2巻。秋田県立図書館蔵。大正6年に再版、木版本。
関東地方の豪族で鎌倉幕府が一目置いたとされる関東武士の宇都宮頼綱(よりつな)が、政争を避けて出家後に「實信房蓮生」として建てたとする山荘は、その場所は定かではないが、藤原定家が、自らが所有していた京都嵐山に近い小倉山の麓にあった山荘の敷地の一部を蓮生に譲り、その地に蓮生が「中院山荘」を建てた。
その後、藤原定家の山荘は「小倉山荘」とも「時雨亭(しぐれてい)」とも呼ばれながら、やがて共に荒廃していったが、江戸時代に入り、定家の山荘は定家の子孫の冷泉家(れいぜいけ)が修復し、112代靈元(れいげん)天皇が「厭離庵(えんりあん)」の寺号を授け、臨済(りんざい)宗の白隠(はくいん)禅師が開山して、臨済宗天龍寺(てんりゅうじ)派の寺となった。
現在は尼寺で、境内には昔を偲ぶ「時雨亭」や藤原定家の塚などがあり、藤原定家が小倉百人一首を選定した跡地として知られている。先日、この寄稿文のために久しぶりに「厭離庵」を訪れたが、時期はずれにもかかわらず門が開いていて、最新の写真を撮ることが出来た。一般には秋の紅葉時期の一定期間以外は公開されていない。
(元印刷局・入口 邦孝)