閑・感・観~寄稿コーナー~
SALON

気ままに山を漫遊、歴史を散歩(斎藤 清明)

2019.12.09

閑・感・観~寄稿コーナー~

 毎日新聞33年と大学研究所6年の勤めを2009年末に終え、フリーになってまる10年。気ままに過ごしており、旅や山歩きを楽しんでます。今年を振りかえってみると。

◇2月、ミャンマー旅行。
 ベンガル湾側にある古都ミャウーをめざし、バンコック経由で10日間の一人旅。ノービザでマンダレーから入国でき、旧王宮や郊外のミングォンの巨大な仏塔などを見て、二日後にミャウー行の夜行バスに乗車。アラカン山脈を越えてラカイン州に入り、16時間かかってミャウーに着いた。ミャウーは、15~18世紀にアラカン王国の都。その時代の仏教遺跡群が残り、ベンガル的な風土にヒンドゥー教の影響もみられ、独特な仏教文化が感じられた。

 現在はラカイン州(州都はシットウェー)の小さな町で、バングラディシュ国境に近く、ロヒンギャ難民問題があって、外国人はヤンゴンからシットウェーに飛んで、そこから船でのアクセスが一般的。それを、アラカン山脈を越える陸路をとれたのは運がよかったが、往復とも三か所で検問があった。私はパスポートを見せるだけだったが、ミャンマー人は身分証を車掌がまとめて集め、検問所の職員が名前を呼んで返していた。ということは、身分証のない人たち(ロヒンギャや少数民族)は通れないのだろう。帰路はヤンゴン行の夜行バス。20時間も走り続けた運転手はたいしたもので、握手して下車。15年ぶりのヤンゴンは、以前より活気を感じた。

ミャウー遺跡

 

 

◇4月、大峯奥駈を踏破
 熊野古道の小辺路(高野山~本宮)は一昨年歩いたので、残るは山伏修験道として知られる奥駈道となる。天川村川合から入山し、弥山から八経ヶ岳、釈迦ヶ岳、笠捨山へ、大峰山脈を五日間歩いた。初日は狼平避難小屋、次は深仙宿、さらに持経宿と行仙宿を使わせてもらったが、無人小屋で同宿者はなし。山道でも、すれ違ったり追い越されたりしたのは、日に数人だけ。

 静かな山旅だったが、最後の行仙宿では、管理している新宮山彦グループの作業日に遭遇した。今西錦司先生1000山(釈迦ヶ岳 1978年)や1500山(白鬚岳 1985年)で世話になった方にも再会できた(しかし、相談役の川嶋功さんは数ヵ月後に作業中に急逝された)。41年前には釈迦ヶ岳頂上の釈迦像の前で乾杯する今西先生の写真を撮って駆け下り、朝刊に間に合うように本社に急いで戻ったのだが、今やスマホで自撮りしてLINEで家族に送れる時代になった。

行仙宿で新宮山彦グループと

 

 

◇6月、台湾の最高峰、玉山(3952m)登頂
 かっては新高山(ニイタカヤマ)と呼ばれ、富士山よりも高い「日本一の山」には、鹿野忠雄『山と雲と蕃人と』(一九四一年発行)を学生時代に読んで、いつの日か登りたいとおもっていた。玉山国家公園の専用サイトで手続きし、登山小屋(排雲山荘)の外国人枠定員をゲット。関空から高雄に飛び、列車で嘉義へ(泊)。バスで阿里山を経て上東埔へ。東埔山荘に泊まる。翌朝、排雲登山サービスセンターで入山手続き。シャトル車で登山口(高度2600m)へ。排雲山荘(高度3400m)まで5時間かかって登り、宿泊。この小屋の収容人員92人が一日の入山定員になっている。

 翌午前2時半出発し、3時間かかって頂上に着いた。驚いたことに、一等三角点があった(日本が設置したもの)。三角点のすぐ後にコンクリートで玉山主峰碑が設けられて、皆さん、碑を囲んだり乗ったりして記念撮影しているが、私は三角点を撫ぜて満足した。その日のうちに下山。バスで日月潭を経て埔里へ。三泊し、蝶の観察や合歓山や清境農場、霧社を訪れた。台中を経て台北(桃園空港)から関空に帰る。

玉山頂上の一等三角点

 

 

◇8月、カムチャッカ
 昨夏はシベリア鉄道に乗ってモスクワまで行き、ロシアも変わったことを実感した。今年はE-visa(簡易電子ビザ。8日間まで滞在可能)の対象が極東連邦地域に広がり、カムチャッカ半島へ簡単に行けるようになったので、まず、関空から2時間のウラジオストクへ。マリインスキー劇場沿海州別館で国際極東音楽祭が開催中だった。ワレリー・ゲルギエフ指揮の管弦楽団と若手ソリストとの共演を聴き、翌日はオペラ「ルチア」を見た。

 そしてウラジオストク空港から3時間で、ペトロパブロフスク・カムチャツキーに着いた。ソ連海軍太平洋艦隊の軍港、北洋漁業の基地として外国人の立ち入り禁止の閉鎖都市は、1990年代から開放が始まり、世界遺産のカムチャツカの火山群や、自然や動植物の観光ツアー、冬のスキーを売り出している。アラスカから来るアメリカの観光客などクルーズ船の来航も増えているそうだ。だが、三日間の滞在中、ほとんど雨模様で、世界遺産「カムチャツカの火山群」のカムチャッカ富士というカリャーキ山(3456m)や町に近い活火山のアヴァチャ山(2471m)など、山々は見えなかった。日射しがなくて、寒く、午後2時で14℃というありさま。温泉ものぞいてみたが、露天でとても入れたものでなかった。それでも、ワイルドな自然を感じることができた。

カムチャツカの山

 

 

◇9月、果無山脈
 紀伊半島の真ん中に、その名のように果てしもなく連なっている山なみを想像し、憧れのような気持ちをいだいてきたが、林道が山奥まで縦横に入り込んでいることを知って、マイカー登山となった(ひとり運転はきつかったのだが)。高野龍神スカイラインから龍神温泉に下って、国道425号線の峠に車を置いて、まず牛廻山に登り、丹生ヤマセミ温泉で車中泊。

 翌朝、果無山脈の尾根筋の南側に沿って造られているスーパー林道龍神本宮線を走って、一等三角点の冷水山(1262m)に徒歩半時間で登れた。展望がよく、昨日の牛廻山が、そして護摩壇山への山系が、手に取るように見えた。上湯川の谷間には雲海がわいて、その向こうに大峰や大台ケ原への山なみが浮かんでいる。南がわには紀伊半島南部の山々や太平洋まで見えるはずだが、曇っているのが残念。

 帰路は国道168号から425号、さらに169号に出て北上。大台ケ原ドライブウェイの駐車場に車を置いて、日出ケ岳を2時間で往復。この日、二つめの一等三角点にタッチした。午後9時に帰宅。2日間の走行距離は476kmだった。

牛廻山から大峰山系を望む

 

◇低山漫遊から歴史散歩へ

 紀伊半島から帰ってほどなく、大学山岳部の後輩が鈴鹿山脈で遭難したとの連絡あった。外科医で、六六歳だった。仲間との山行のために下見に一人で出かけて、沢の巻き道を調べているうちに転落したようだ。今春、OB会の集まりで彼から声をかけられ、あいかわらず陽気だっただけに、訃報には信じられなかった。単独行はなにがおこるかわからない。私も気をつけねば。
 今年の山歩きは、ほかには京都の北山へ二度(滝谷峠と魚谷山)と奈良の葛城山だけ。いずれも同年代の友人たちと一緒で、この連中とは、ここ十年近く、年に数回は必ず出かけている。もともとは京都の大学時代の遊び仲間で、それぞれ関東や京阪神で長く勤めて、定年になって、どういうわけか京都の近辺に戻ってきた。そして、低山漫遊しようと、山歩きするようになった。もっぱら京都の近辺や琵琶湖の周辺の山を巡って、平均して年に数回ほど山行してきた。それも、なるべく標高の低い山をさがして登り、高い山は敬遠している。たまには湖北の横山岳や鈴鹿の霊仙山といった名のある山に挑んでも、潔く途中から引き返してきた。メンバーは現在四名が固定していて(小生以外はみなさん名誉教授)、酒食に目がない連中だから、下山後の反省会がもっぱらの楽しみ。つまりは、うまい酒をのむために歩くようなもの。
 そうした山歩きをしているうち、昨春の大和三山あたりから、山よりも歴史散歩といった趣に。昨秋は継体天皇の史跡巡り(樟葉宮跡、弟国宮跡、今城塚古墳)、今夏は河内古墳群巡りも。11月には、神戸の五色塚古墳を見て、その足で兵庫県立考古博物館へ。特別展「埴輪の世界」と学生時代から知っている館長の講演を拝聴。もちろん、反省会は神戸で楽しみました。

◇最後に、イタリア旅行
 女房が脊柱管狭窄症で昨秋手術し、ほぼ一年間じっとしていたので、快気祝いとして11月末にイタリアへ。ミラノのスカラ座でR・リヒャルトシュトラウスのオペラ「エジプトのヘレナ」を見たのち、没後500年のレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」や、ミケランジェロの最後の彫刻「ピエタ」も。ついでに、スイスに入って世界遺産レーティシュ鉄道ベルニナ線に乗って2253mの峠を越え、アルプスの景観を楽しみました。

ミラノ・スカラ座

 

 2020年は、干支の山として三重県の子ノ泊山(907m)に登り、故郷の古座川べりのクマノザクラを愛でたいものです。子どもころから早咲きのヤマザクラといって眺めてきたのが、昨年、100年ぶりの桜の新種として認められたのですから。
(元地方部特専門編集集員・斎藤 清明)