閑・感・観~寄稿コーナー~
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西宮の竜吐水(衣笠 周司) 

2023.11.25

閑・感・観~寄稿コーナー~

 『西宮の竜吐水』と題した刊行物が、いま私の手元にあります。 西宮市では竜吐水などの伝統的な消防用具を安全遺産と位置づけ、悉皆的に調査してきまし た。これを調べたのは、私も含む市民ボランティアの「西宮歴史調査団」です。拠点となった西 宮市立郷土資料館でその成果をまとめて 2023年3月に刊行されたものです。竜吐水に興味をお 持ちの方は、同資料館から取り寄せてご覧ください。

 阪神大震災で、多くの文化財を失った西宮市では、まだ登録指定されていない文化財を含めて、 地域全体で文化財を次世代へ継承するための取り組みを、市民ボランティアも参加して進めてい ます。 『西宮の竜吐水』には公的な記録が収録されていますが、それとは別に、調査活動の中で私が個 人的にまとめたレポート『竜吐水、精いっぱい働いた!』も小冊子となっています。毎友会事務 局からお尋ねがあったので、恥ずかしながら一部を抜粋して紹介します。なお、この全文と参考 文献は西宮歴史調査団のホームページに収録されています。拙著の類似レポート数点も『西宮歴 史調査団ニュース』として収録されています。

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◇竜吐水、精いっぱい働いた!(抄録)◇

 はじめに 竜吐水というのは、江戸中期から明治にかけて使われた木製の消火用ポンプのこと。いまも各 地の博物館やお寺などに現物が保存されている。だが実際にこれを使ったという人たちは 100歳前後になっているはずだから、体験を聞くことは、まずできない。 そこで竜吐水が活躍していたときと、やがて衰退していったころの実情を、当時の新聞報道な どから探ってみた。

1. 竜吐水、賊を走らす

 「表戸を破って入って来かけた泥棒の顔めがけて、竜吐水の筒先を向け、力まかせに弾くと、狙 い違わず賊の顔へ礫のように水が飛び、不意打ちに驚いた賊は、ほうほうの体でそのまま逃げ去 った」(当時の新聞記事を意訳、一部略=以下同じ)。 こんな話が大阪朝日新聞に載っている。

 明治19年(1886)10月 24日夜 12時過ぎ、大阪東 区粉川町の酒小売商店で起きた泥棒退治の話である。この記事から、当時は竜吐水が商店にも備 えられていたことがわかる。この竜吐水は、火災の消火のためではなく、臨機応変に賊退治に使 われ、それが成功したということで、面白くて痛快な記事になっている。さらにこの記事はあと に続けて 「また来るかもしれない。もし来たら、もう一度おどかしてやろうと寝もせずに待ち構えていた が、ついに来なかった。何よりの幸せ」と結んでいる。

2. 竜吐水を買い備えて

 「この節、道頓堀の各劇場に夜更けに放火しようとする曲者が、しばしばおるようだ。そのため 幾らかの金額を募って当直人を増やしたり、竜吐水を買い備えるなどして、厳重に警戒している という。こんな悪事を企てるのは実に憎むべき徒というべし」=明治13 年(1880)6月6日付 け大阪朝日新聞。 この記事によると、用心のため竜吐水をわざわざ買い求めたというのだから、明治 13年当時 では、竜吐水は“頼れる存在”だった。これにまさる消火器はまだ世には出回っていなかったのだ ろう。

 つぎは大阪朝日新聞・明治20年(1887)5月28日朝刊の記事。 「四天王寺の境内に、俗に将軍樹と呼ばれている大きな楠の老樹があって、根元の周囲は約6間 もあり、まるで岩石のようだ。洞穴のような虚(うろ)があり、聖徳太子が戦いのとき、ここに 身を潜めたと伝えられている。

 昨日午前2時過ぎ、この虚から火が出た。夜番の者が『火事よ、火 事よ』と叫んだので、寺や茶店の人たちが集まり、竜吐水などで消防に力を尽くしたが、火はま すます盛んに燃え上がる。斧で楠の朽ちたところ2カ所に穴を開け、ここから虚をめがけて竜吐 水の水を注ぎ入れ、ついに8時ごろ消し止めた」。 当時の竜吐水の消火能力がこんなものなのかと、推測できそうな記事である。

3. 竜吐水は、いつから?

 『消防団百二十年史』によると、竜吐水は宝暦年間(1751〜1763)にオランダから渡来したも のとも、長崎でオランダ人の指導で作られたものとも言われている。「雲龍水」というものもある が、竜吐水を改良したものだといわれたり、両者には明確な区別はないといわれたりする(本稿 では区別していない)。いずれにしても桶で水を運んで本体に給水し、ホースがなくて筒先だけな ので、放水してもせいぜい15 m くらいだったという。

 東京では、明治17年(1884)に竜吐水に代わって、消防本署に蒸気ポンプを配備し、各消防 分署にはドイツ製腕用ポンプが備えられた。「腕用ポンプ」は吸管とホースが装備され、27m く らいまで放水できる。明治3年(1870)に英国から蒸気ポンプとともに輸入されたが、当時は高 額であり、ポンプ操作に慣れず十分利用できなかった、と同書は記している。

4. 出初式からは姿を消したが

 明治 23年(1890)1月5日の東京日日新聞は、前日に行われた消防の出初式の模様を伝えて いる。 「各消防組は午前7時に打ち出した総出の半鐘で所轄分署に集まり…上野公園不忍池畔に…整 列、儀式」ののち「『掛け水』…『始め』のラッパで…地上に向け九十余台のポンプが、いっとき に水勢激しく放水」と報じている。この時の消防ポンプは「蒸気ポンプ及び腕力ポンプ」と明記、 竜吐水は姿を消している。

 ところが、明治 31年(1898)3月31日付の東京朝日新聞には「竜吐水」が記事の中に出て くる。「昨日午前 11時35分、京橋区佃島東町の鮮魚店から出火。…消防具は古風の竜吐水ぐら いなので、みるみる延焼。…そのうち警視庁の蒸気ポンプがいち早く」駆けつけ「追い追い集ま った各署の普通ポンプおよび消防組の…ポンプ10 台余」が尽力したので、たちまち下火になっ たという。 ここでは「古風の竜吐水ぐらい」ではダメ、という書き方になっている。でも明治 17 年の新 機種投入からから 14 年も経っているのに、東京でも竜吐水がまだ使われていたことが、これで わかる。

5. 大阪・京都での竜吐水は

 『消防の歴史四百年』によると「すでに宝暦4年(1754)に大阪で竜吐水が発明され普及され て行った」ことになっている。『大阪消防の歴史』をひもとくと安永8年(1779)ごろの項目に 「竜吐水」の文字が散見できる。そして寛政12 年(1800)ごろには平野屋藤兵衛らが「万竜水」 売り出しを願い出たり、別人からも「龍起水」「鮮竜水双竜水」などの売り出しを願い出たりして いる。

 『大阪市史』には明治5年(1872)の消防法改正のとき、喞筒(ポンプ)掛を8人置いたこと が出てくる。「当時は未だ手押喞筒のみが用いられたが、17年…英国製蒸気喞筒1台を購入」し たと記されている。

 京都では天明7年(1787)の「火事場道具」のお達しの中に「一町に竜吐水5」を備え付ける よう命じている。明治 22年(1889)3月に「新京極大火」があったが、33戸を全焼し約2時間 で消し止めた。「鎮火に至る約2時間という速さは、明治17 年末にそれまで消火に使用していた 竜吐水から、輸入ポンプをモデルにした国産製ポンプが使われるようになったことも関わってい ると考えられ」るという岡彩子さんの論文が『京都歴史災害研究』に掲載されている。

6 . 竜吐水を実際に見た人、操作した人

 『尼崎消防のあゆみ(1986年刊)』によると佐川吉太郎さん(当時87歳)は、10歳のとき工 場大火に遭遇、「消防はその竜吐水を荷車に積んで火事場まで引っ張って走って行ったもので、現 場に辿りつくまでに30 分も40分もかかりました。竜吐水は放水量、放水距離ともに少なく、消 火するよりも燃えつきてしまったという感じ」だったと思い出を語っている。

 昭和14年(1939)6月27日付け東京朝日新聞の記事では、消防功労者として6月26 日に表 彰された3人が、竜吐水時代にも勤務しており、そのころを偲んで、こんなふうに話している。 小川幸吉さん(当時75歳)は「17歳から 56年間消防にいます。…竜吐水といわれたものを 使った頃から吉原や神田猿楽町の大火では随分活躍したもんです」と話す。

 榊太郎吉さん(当時69歳)は「51年と8カ月の長い消防生活でした。ポンプも竜吐水から手 押しや、蒸気ポンプの時代を経て、今日のガソリンポンプになったので、いざ火事だというと石 炭をカマドへ叩き込み、それをガラガラと馬が曳いて駆け付けたこともありました」と話してい る。

 平井亀吉さん(当時75歳)は「私が初めて消防になったのは18歳のときで、あの頃は機械ら しい物はなにもなく、ただ体だけを水にぬらして、あとは腕と体力で揉み消したものです」と語 っている。

7. 戦争で竜吐水が復活

 最後に、昭和14年(1939)7月21日付け東京朝日新聞の防空演習の記事を読んでいただき たい。

 「〝スワ空襲!〟帝都の護りもいよいよ高潮に達した防空訓練第3日目の20日午後4時30分 −−突如唸りだした空襲警報のサイレンを合図に山の手屋敷町の奥様連で組織された〝女ばかり の消防隊〟が…猛火を相手に、銃後女性の頼もしさを展開し、この日の防空訓練を華々しく彩っ た」との出だしで「…御自慢のポンプ隊も部署に着いた。もうもうたる煙を衝いて梯子隊が屋根 にかけのぼる。『オイッチ、ニッ、オイッチ、ニッ』ソプラノとアルトのかけ声も勇ましく、放射 する竜吐水の飛沫が美しい虹を描く」。

 この当時までに、「竜吐水」はごく初期の消防器具で、ほとんど消火には適していないというこ とが示され、機種交代も終わっているはず。それが突然この性能の悪い竜吐水を引っ張り出して きて、奥さま消防隊に「これで空襲に備えろ」という。こんなところにも戦時中の理不尽さが読 み取れそうに思える。

8 . 竜吐水を評価すれば…

 竜吐水は、江戸中期からの当時としては唯一の消火用の機械であった。だが操作性も機動性も 乏しいものだった。したがってその評価が低いことがわかる。

 『消防団百二十年史』では「ぼや程度の火災には役立ったとは言え…消火能力はほとんどなく」 と記述されている。そして「竜吐水の位置から直接見える所しか狙って放水できないので、注水 による直接消火にはあまり役立たなかったが…鳶たちの刺子に水をかけるのに有効な援護注水 で、火消したちの士気を大いに鼓舞したと言われている」と効用を記している。

 また防災博物館のウェブサイトによると竜吐水は「燃えている家並みの反対に水を向け、屋根 の上にいる纏持達に水をかけ、これによって焼き残すという寸法で」竜吐水を使っていたことを 錦絵から読み取っている。

 しかし『町火消たちの近代』によると、文久3年(1863)に江戸城西の丸炎上の際は、20台 以上の竜吐水を運び込み消火した。破壊消防ができないときに頼りになるのは、何といっても竜 吐水で、それが威力を発揮したという。

 このように、竜吐水は性能不足と言われても、当時はこれしかなく「最新鋭」のものであった。 庶民の知恵も加わって、いろいろ活躍をしていたことが、本稿で明らかになったのが、なによりと思われる。竜吐水が精いっぱい活動した実情を、ここでは記録として書きとどめておきたい。

                      (元編集局、衣笠 周司)

 

西宮市立郷土資料館に収蔵されている「竜吐水」
竜吐水を調査中の市民ボランティア