2020.11.24
閑・感・観~寄稿コーナー~
毎日新聞社同期(1965年)入社の佐々木宏人さんが2020年11月21日、コロナ渦中に東京からわざわざ大阪に来て講演するというので、これは逃せないと聴きに出かけた。講演タイトルは「封印された殉教-『国家による弾圧』と『宗教団体の戦争協力』-を考える」。場所は大阪市北区のカトリック大阪梅田教会サクラファミリア聖堂。カトリック大阪教区・部落差別と人権を考える「信徒の会」11月の学習会として催された。広い聖堂には間合いを取って座った聴衆が約50人。私を除いて他全員がキリスト者だったと思われる。
佐々木さんは講演タイトルと同名の取材10年余に及ぶ労作『封印された殉教』上下2巻を1昨年刊行した。敗戦直後の1945年8月18日、横浜のカトリック保土ヶ谷教会で横浜教区長の戸田帯刀神父が射殺体で発見された事件を克明に追ったドキュメントだ。事件は、ほとんど知られることなくなぜか封印され、犯人憲兵説があるが今もって明らかでない。10年後に東京の教会に「私が犯人。憲兵だった。謝罪したい」と男が名乗り出てきたが、東京大司教区は男に会いもせず許しを与えた。
佐々木さんは事件の真相を追及する一方、戦前の国家による宗教弾圧にもこの本の多くのページを割いている。リベラルな戸田神父は1941年札幌教区長時代にも軍刑法違反容疑で逮捕されている。キリスト教で言えばカトリック、プロテスタント問わず、多くの聖職者が過酷な拷問を受け、獄中死した。
佐々木さんはそこにとどまらず、宗教側の自己保身、国家への忖度、すり寄りに厳しく言及している。その体質は戦後まで及ぶという。自身クリスチャン(退職後の2006年受洗)として身を置いた世界で何があったのか明らかにしたいという欲求は、やはりジャーナリストとしての矜持がもたらせた本能だったと思われる。
講演で彼が強調したのは事件の今日的意味だった。
学術会議問題で政府によって任命拒否された1人、芦名定道・京大教授はキリスト教神学の研究者。キリスト教研究は危ないという恐れが訳もなく広まる恐れがあると。同様に拒否された加藤陽子・東大教授は中道的な近現代史の研究者で上皇・上皇后の講師役。リベラル皇室への当てつけ、圧力かと。つまり戦前侵された信教・学問の自由、民主主義の1丁目1番地が今問われている、と。私は恥ずかしながら加藤さんが皇室の講師役の1人とは知らなかった。ちなみに佐々木さんの従妹末盛千枝子さんは著名な絵本編集者で美智子上皇后の友人だ。
最後にナチスドイツの強制収容所に収容されたプロテスタント神学者、マルティン・ニーメラーのよく知られた言葉を紹介して講演は終えられた。
「ナチスが最初共産産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから。
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった。私は社会民主主義者ではなかったから。彼らが労働組合員を攻撃したとき、私は声をあげなかった。私は労働組合員でなかったから。彼らがユダヤ人を連れて行ったとき、私は声をあげなかった。私はユダヤ人などではなかったから。そして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」
佐々木さんは四肢の先端の筋肉神経線維が徐々に委縮していく難病、遠位性ミオパチーの診断を2006年に受けた。全国で患者数400人という極めて珍しい病気だ。現在は歩行が困難で手先が不自由だ。それでも呼ばれれば大阪にも来る。先年は岡山まで出かけたという。頭と声はしっかりしている、性格は明るい。先に挙げたジャーナリスト、信仰者としての信念がそれを支える。
私は傘寿に手が届いたか届こうとしている多くの同期生の中で、彼が今最も輝いている一人ではないかと思っている。信仰者の先達で介助者でもある彰子夫人が確かな灯芯になっているに違いない。夫人に初めてお目にかかってそんな感じがした。
(元社会部・藤田 修二)