2019.08.06
閑・感・観~寄稿コーナー~
これは1929(昭和4)年3月21日に浜松の全舷で行った「大毎」対「東日」のラグビー試合の際の記念写真である。
写真説明をなぞってみる。
「社会人になってからも久富さんはラグビーをやめなかった。大毎に入社してまもなく、久富さんは大毎、東日両社にラグビーチームを作った。そして両チームは毎年、東京大阪間のどこかの都市で試合をおこなった」
久富達夫、東大ラグビー部の第2代キャプテン。東京府立一中→一高→東大工学部→卒業後、東大法学部政治学科に再入学→1925(大正14)年3月卒業、4月大阪毎日新聞社入社。26歳だった→社会部→26(大正15)年4月アフリカに特派。「東アフリカの旅」を大毎に連載→27(昭和2)年満州・北支に出張。上海から帰国する船に、蒋介石が密かに乗船しているのを知ってインタビュー。宋美齢と婚約をしていて、特ダネの「時の人」になった→政治部兼本山彦一社長の秘書。柔道5段のボディーガード?→27(昭和2)年東京日日政治部→34(昭和9)年6月政治部長。35歳である。
政治部長時代の活躍ぶりは、牧内節男さんの「銀座一丁目新聞」2013年(平成25年)11月1日号追悼録(506) http://ginnews.whoselab.com/131101/tsuido.htm「特ダネ号外を出した久富達夫さん」を読んでいただくとして、40(昭和15)年8月に退職、内閣情報局次長となる。
総理大臣近衛文麿から「貰い」がかかり、愛国者の久富は「この時機、ピッチャーからキャッチャーにポジションが代わったようなもの。チームは同じです」と話していた。
読売新聞の「昭和史の天皇」に久富の功績が2つ紹介されている。「内閣情報局次長として、広島に落とされた新型爆弾は原爆であると閣議に報告した」(陸軍は特殊爆弾として戦争継続を主張した)ことと、敗戦の混乱を避けるため「終戦の玉音放送を進言した」こと。
戦後、公職追放されるが、1964年東京五輪の際は国立競技場の場長だった。1968(昭和43)年没、70歳。
写真を見てもらいたい。後列中央の背の高い男の左、恰幅のよいのが久富だ。背の高い男は、1922(大正11)年にラグビーの第1回早慶戦を行った時の早大マネジャー中村元一。中央気象台で過去のデータを調べて、「晴れの特異日」11月23日開催を決めた男だ。
中村の右が野球殿堂入りの元慶大の名投手・小野三千麿。もうひとり野球殿堂入りの桐原真二もいる。
「東日」には岩下秀三郎(慶大)、柳茂行(明大)らのラガーメンの他、明大の初代応援団長相馬基らが写っている。毎日新聞は人材を揃えていた。 大毎ラグビー部は1926(大正15)年1月、関西の実業団チーム第1号として創部。記念写真の2か月前、29(昭和4)年1月には、近鉄の前身大阪電気軌道(大軌)ラグビー部のファーストマッチの相手となり、6-3で勝利している。強かったのである。
「大毎」は、現在花園で開かれている全国高校ラグビー大会を1918(大正7)年に始めている。久富が入社してラグビー部創設は当然のことに思われる。
実は、この写真、8月早々に発売される『国鉄・JRラグビー物語』(交通新聞社刊、@1,800円+税)に掲載されているのだ。その第5章は「大鉄・近鉄・大毎」である。
著者は小生。書店にあったら、見てください。
(堤 哲)2019年7月28日
=東京毎友会のHPから(随筆集)