先輩後輩
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「大毎精神」って、現役記者の大阪紙面連載から考える=東京毎友会のHPから

2024.05.25

先輩後輩

 「先日亡くなった近藤勝重さん(69入社)、コンちゃんを毎日新聞HPで検索したら、現役の松井宏員さん(86 入社)が夕刊に連載した「微聞積聞」に《事件記者であると同時に、「膝打つ名文ものする先輩」だった》と書いていた。

 《「笑売繁盛」。吉本興業のお笑い戦略を恐らく初めてメディアが正面から取り上げた画期的な連載だった。遊軍記者かくあるべし、という仕事だった》

 『笑売繁盛 よしもと王国』(毎日新聞社①988年刊)として出版された。

 《近藤勝重さんは内勤の遊軍キャップ時代、夜中の2時まで飲んで会社のソファで仮眠して、朝9時には席に着いていたという。「飲んでアイデアが浮かんだ」とは同感。企画は夜、生まれる》とも「微聞積聞」にある。

 吉本連載の前は、「編集局遊軍」キャップ。調査報道に専心した。『偽装—調査報道・ミドリ十字事件』(晩聲者1983  年刊)に詳しい。

 62入社佐倉達三さん(2008年没69歳)が、この本の中で「調査報道と編集局遊軍」を解説している。編集局遊軍の発足は77 年3月で、佐倉さんが初代キャップだった。

 コンちゃんは、93年7月「サンデー毎日」編集長。この人材を大阪本社から引っ張ったのは、当時出版局長の田中正延さん(64入社)だった。大阪社会部デスク時代に、近藤さんの面白がり屋精神と筆力を熟知していた。

 97年11月夕刊特集版編集長。その時の活躍ぶりは、鈴木琢磨さん(82入社)が毎友会HP追悼録に書いている。

 「特集ワイド②5年 初代編集長・近藤勝重さんと語らう 記者よ!驚きの奥を掘れ」

 https://mainichi.jp/articles/20221121/dde/012/040/007000c

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 松井宏員さんの「微聞積聞」には、名文記者が何人も登場する。

 須佐美誠一さん(60入社)。《アフリカのシュバイツァー病院やインターフェロンなどを取材した遊軍記者。真骨頂は酒のコラムにあった。「あまから手帖」に連載した「黄金のグラス」は、旅先の外国でグラスを傾けていると、必ず美女が現れる。「女を書かせたらオレの右に出る者はおらん」と豪語していただけのことはあって、さもありなんと読ませるのだ。作家の小松左京氏が「黄金のグラス」を読んで、「会いたい」と訪ねてきたのは、出張先のカナダで亡くなった後だった》

 1987(昭和62)年10月5日取材先のカナダ・ケベック市で急逝、51歳。

 《亡くなった後、北新地なんかの店にツケが残ったけど、どの店も『香典に』とチャラにしたと聞いた》

 https://maiyukai.com/memorial/20200929.php

 私(堤)が毎友会HPに書いた追悼録もご参考までに。

 岡本嗣郎さん(71入社)。学芸面「女と男の交差点」《「和服姿のおねえさんと鍋を挟んで差しつ差されつ。そのうち、おねえさんが頰を染めて『わたし、酔っちゃったわ』。これが男の理想」。新聞でこんなん書いてええんか! 新聞のイメージがガラリと変わった。なんでも書いてええんや、と》

 入社して大阪社会部街頭班(サツ回り)。そこで私(堤)と一緒だった。いつ退社したのか知らないが、『男前—山本集の激闘流儀』(講談社文庫1995年刊)、『9四歩の謎—孤高の棋士・坂田三吉伝』(集英社97年刊)に続いて『歌舞伎を救った男—マッカーサーの副官フォービアン・バワーズ』(集英社98年刊)。「小泉首相から呼び出しがあり、首相官邸へ行くんだ」と電話で話したのが最後だった。2003年8月6日没57 歳。

 もうひとり。《「離婚はいつの世も悲劇である」との電話送稿に、「悲劇ですか、喜劇ですか」と聞き返して「バカもん、離婚がなんで喜劇や」と怒鳴られた、てな話も残っている。聞き返した記者はのちに寿屋(サントリー)の宣伝部に行ったというから、離婚を悲劇と決めつけないセンスは新聞社の枠にはまらなかったのかもしれない》

 多分、この人は矢島文雄さん(54入社)。私が大阪社会部に転勤になった年、『大毎社会部70年史』を中心になって編集していた。2002年に刊行した『記者たちの森—大毎社会部100年史』の物故者のページに「1984年没」とある。50歳代で逝去されたか。

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 「微聞積聞」に、こんなイラストが連載に載っていた。2021年11月6日付夕刊「行け行けドンドン大毎太鼓」。

 《大阪本社には「大毎精神」というのが精神注入棒のごとくあった。大毎とは大阪毎日のことで、良くも悪くも大阪本社の代名詞だった》

 松井宏員さんは、『記者たちの森—大毎社会部100 年史』(非売品)の取材・編集を担当した。《大阪社会部は日本最初の「社会部」だそうで、1901年に誕生したから2001年に100年を迎えた》

 その記念のパーティーに《鳥越俊太郎さん(65  入社)に、出席を電話で頼んだ。「Fさんは来るの? Kさんは?」と聞かれた。FさんもKさんも社会部出身で編集局長を務めた方々だが、お二方とも欠席だった》

 大毎社会部は、ことし123年を迎えたが、その後社会部OB会は開かれていない。

                            (堤  哲)  

 =東京毎友会のホームページから2024年5月20日

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 https://www.maiyukai.com/essay/20240520