先輩後輩
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雲仙普賢岳事故・石津勉カメラマンの三十三回忌に同期12人が慰霊=東京毎友会のHPから

2023.07.04

先輩後輩

 いまから32年前の1991年6月3日、長崎県雲仙・普賢岳の大火砕流事故で、1983年同期入社の石津勉君ら会社の仲間3人が命を落とした。「三十三回忌に同期で現地に行こう」という声が出て、12人が集まった。そのことを私は本紙の連載コラム「掃苔記」で書いた。社内外から反響があった。仲間の死は悲しいけれど、死を思うことはまた多くを学ぶ機会でもあると、改めて感じさせられた。

 石津君は口数は多くないけれど、内に熱情を秘めたカメラマンだった。私は同じ現場で仕事をする機会はなかったが、西部や大阪本社の同期たちは付き合いが濃かった。彼らは事故当時も、そして年忌法要の年が訪れると集まり、遺族と交流を続け、普賢岳への慰霊登山までしたという。

 長崎県出身ではあるが、私が事故後この現場に立ったのは、地元で三十三回忌の慰霊祭が行われた、この6月3日が初めてだった。曇天だったという「あの日」とは打って変わり、胸のすくような青空が広がっていた。報道各社がカメラを構えていた「定点」と呼ばれる場所に立つ。2㍍を超す白い三角すいのモニュメントが建てられていた。山頂を見上げた。「威容」というありきたりの言葉でしか形容できない山の頂からは、いまも白い煙が立ち上っている。動いている。活きている。いまだに、仲間の命を奪った山は、まだ活動をつづけていた。

 石津君はあの日、「ちょっと上がってくるわ」と同僚に言い残し、山のふもとから制作技術部員、ドライバーとともにここに向かい、そして大火砕流に巻き込まれた。

 モニュメントの横には、災害遺構として毎日新聞ほかの被災した取材車両が並べられていた。車の形がわずかに残るのみ。「毎日新聞取材車両」というプレートがなければ、ただの赤錆びた鉄屑にしか見えない。想像を絶する熱エネルギーを、見る者に感じさせる。車両は長く、雑草の中に遺されていたという。地元の協力を得て「遺構」として整備されたと聞いた。災害の記憶には、やはり遺された人たちの意思が必要なのだろう。

 同期の1人が、石津君がこよなく愛したバーボン「フォアローゼズ」を持参していた。瓶を車両の横に供え、皆で手を合わせた。

 災害で亡くなった記者の同期が集まった、ということを聞きつけ、地元テレビ局から取材を申し込まれた。代表して、嶋谷泰典君がインタビューに応えた。こんな内容だった。

 <三十三回忌を経ても、友の死は悲しいです。しかし、あの時の報道態勢がこのような惨状を生んだのも事実です。消防団、警察の方、タクシー運転手さんなどが、犠牲に巻き込まれました。そのご遺族が、今も報道機関にわだかまりをお持ちだとききます。当たり前です。そのことを考えると、報道機関にいた人間として、複雑な思いにさいなまれます。

 亡くなった写真記者の友(石津君)は、当時から「報道のあり方」について、さまざまな側面から考えていました。普賢岳の直下で取材を続けていたことに対して、彼はどう考えていたのでしょうね。まさか、自分も、そして消防団の方々などまで犠牲になるとは、想像もしてなかったでしょうが。

 規模や犠牲者の数ではなく、自然の猛威はいつでも我々の前にもたらされます。

 災害被害、それを取材する報道の在り方、それらへの答えはありませんが、いつも考えていかないといけないことです。>

 初めて現場に立った私はただただ感傷にふけっていたのだが、ずっと石津君の死に向きあい遺族との交流も続けてきた彼は、もっと視野を広げて「災害報道」のあり方について考えを巡らせていた。頭が下がる思いがした。

 12人はその後、車に分乗して同じ雲仙市内にある小浜温泉の旅館に移動。温泉に入り、夕食時に旧交を温めた。33歳で亡くなった石津君の三十三回忌である。当然、参加者全員が還暦をすぎ、会社に残っているのは少数派だ。

 誰かが、石津君が遺作集を持ってきていたので回し見た。彼が同僚に言い残した最後の言葉をタイトルにして、事故の年の年末に非売品として出された。入社当時の集合写真を持ってきた者もいた。石津君だけがそのままで、あとはみな、年を重ねた。もう当時の面影はない。第二、第三の人生を歩み始め、自らの病と向き合ったり、親の介護の問題に直面したりしている。それらのことを、ぽつりぽつりと話す。

 この場は、もしかしたら一夜限りの「安息の場」だったろう。家族にも職場の人たちにも話せないことを、小出しにできる。人生の最終盤を迎える前に、誰しも何かしらの悩みを抱えている。それを全部ではないにしろ、ほんの少し仲間に伝えることで、つかの間の安らぎを得たか。

 「また、集まりたいね」と誰かが言う。みんな同意した。「次は五十回忌か」。そんな声には、全員が即、「無理だよ、それは!」と否定した。そんな先のことは、誰にもわからない。

 コラムを出したあと、フェイスブックにも投稿した。すると、写真部の後輩から「石津さんの思い出」がアップされたほか、大阪代表をされた迫田太さんからもメッセージをいただいた。「石津君の大阪での葬儀や夫人と箕面のお墓に納骨に行った事を思い出しました。迫田太」とあった。仲間の死は悲しいけれど、死を悼んで仲間が集まることで、たくさんの学びがあるのだと、改めて思い至った。

                    (専門編集委員・滝野 隆浩)

=東京毎友会のホームページから2023年7月3日

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