先輩後輩
SALON

「二つの道」サンティアゴ巡礼路と熊野古道-元大阪本社編集委員、斎藤清明さんが京大学士山岳会誌に投稿=東京毎友会のHPから

2023.06.27

先輩後輩

齊藤さんの巡礼手帖

 本誌(京大学士山岳会会誌 )100号に、安仁屋政武さんが「サンティアゴ巡礼-フランス・ルート」を執筆している。2019年9月から10月にかけて746㎞を34日間で歩いた記録です(斎藤さんの投稿は秋の106号に掲載予定)。

 この、スペイン北西部にあるサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂(カセドラル)への巡礼路には、いろんなルートがあり、私は2023年4月、「イギリス人の道」と「地の果て」フィステラ岬までの計200㎞余を9日間で歩いた。その様子を、熊野古道との「二つの道の巡礼者」にも触れて記したい。

〇イギリス人の道

 サンティアゴ巡礼は、中世から続いており(熊野参詣も同じころから)、ヨーロッパ各地からさまざまなルートがある。有名なのが「フランス人の道」で、ピレネーを越えてスペイン北部を通っている。テレビや映画、本などで、よく紹介される。そのほか、ビスケー湾沿いの「北の道」、スペイン南部セビージャからの「銀の道」、リスボンからの「ポルトガルの道」などと。そして、かつては船でやってきたのが「イギリス人の道」である。

 イギリス、アイルランド、スカンジナビアなどから海路による巡礼者は、ビスケー湾岸に上陸し、サンティアゴ・デ・コンポステーラに向かった。12世紀ごろから始まり、カトリック教会と袂を分かって英国国教会ができる16世紀半ばまでが最盛期だったという。今日では、スペイン西北部の港町フェロールから南下していくルートが「イギリス人の道」になっている。歩く距離は約115㎞。巡礼証明書を入手できる最短コースといえる。リアス海岸沿いから内陸部へ、4~6日間の行程になる。

 私は、コロナ禍前からサンティアゴ巡礼に興味をもっていたが、「フランス人の道」は長距離なので(最後の100㎞以上を歩けば巡礼証明書をもらえるのだが)シンドイな。「イギリス人の道」なら、喜寿をすぎた身でも歩けるだろうと、気軽に考えて出かけていった。

 4月5日(水)。関西空港から出発。カタール航空でマドリッドへ。荷物は機内持ち込み7㎏に抑えた。寝袋はやめてカバーのみ、ストックは1本、予備食なしなど、と。

 マドリッド空港からサンティアゴ行バスで9時間かかって、スペイン北西部のア・コルーニャで下車。ローマ帝国時代からの「ヘラクレスの塔」(世界遺産の灯台)を見て、列車でフェロールに移動(途中、事故でバスに乗り換えた)。

 ヨットがたくさん係留している波止場の近くに観光インフォメーションがあり、そこがCamino Ingles(イギリス人の道)の起点。持参した熊野古道との共通巡礼手帳(クレデンシャル)にスタンプをもらう。列車で一緒だったスペイン人青年二人組がスマホ撮影してくれた。彼らはすぐに先行していったが、3日後の宿で再会し、一緒にサンティアゴに到着することになる。

 この日(7日)は聖金曜日で、街の広場で宗教行事が催されていた。パレードもあり、それを眺めつつ、モホン(標識)をたどった。カミーノ(巡礼路)は湾に沿って奥まで入っていくが、途中で対岸に渡る車道があった。関空を出てから休みなしで来た初日なので、大事をとって近道をとることにする。釣り人も歩いている側道で橋を渡った。そして、またモホンに出会う。さっそく、近くのバール(食堂)で生ビール。

 湾内やフェロール市街を見渡しながら、住宅地から郊外へと、緩やかな山道を越えていく。ポンテデウメの手前の橋まで来て、ホッとするが、果たしてアルベルゲ(巡礼宿)にベッドは空いているだろうか。

 午後4時45分、Albergue de peregrinos de Pontedeume着。先客はフランス人青年ひとりだけ。受付は観光案内所のインフォメーションだと、案内してくれた。このアルベルゲは波止場に面した漁業倉庫の内部を二階造りに改装したもの。20ベッド(先着順)。共用のシャワーとトイレがある。この旅で初めてのシャワーは熱かった。洗濯して外に干す。カップ麺を洗面所の熱湯を使って食べ、ひとごこちついた。ぶ厚い毛布が備えてあり、ありがたい。市営なので5ユーロ(他のガリシア州営は8ユーロだった)。夕方遅く、もう一人青年が来て、その夜は3人だけ。フェロールでは「巡礼者」を多く見かけたが、民営アルベルゲやホテル泊りが多いようだ。まだ巡礼シーズン前でもある。

 8日(土)。快晴(午後は暑かった)。パンとスープで朝食していると、フランス青年は起床してすぐ、短パン姿で出発していった(この後、会うことはなかった)。私は午前7時に出発したが、まだ暗い。4月から夏時間ということで、日の出は8時過ぎなのだ(日没もかなり遅く、午後9時ごろでも明るい)。

 街灯を頼りに、石畳の坂道を上っていき、市街地を出ると、田園地帯になった。月明かりのなかを行く。青紫の空が明けてきて、遠景も広がり、美しい。農村や、ユーカリ林、ゴルフ場を抜けて、カミーノが続いていく。車道にも沿って進んだ。9時半、この日最初のバールがあった。生ハムを挟んだパンにオレンジジュースがうまい(6ユーロ)。次々に後続がやってきたが、なんと荷物を次の宿に託送して空身で歩く連中もいる。

 湾岸沿いに進み、ミーノの食料品店でパンとバナナを買う。街路のベンチで休憩中に追い抜かれたスウェーデン人夫婦に聞くと、今日はベザンソスまでだという。こちらも、まあそんなところか。鉄道線路を越え、岸辺におりたところが自然保護区で、眺めがいい。また休憩。その間にも空身の数組が先行していった。

 ハイウェイの橋脚の下を巻いて、入り江沿いに進んだ後、山越になる。峠には、無人の記念品売り場もあった。遠くにベザンソスの町並みが見え、ピッチをあげて下った。石造りの橋を渡り、城壁の門をくぐると、教会がそびえる広場に出た。

 巡礼アプリGronzeで公営アルベルグを探し、行き着いたが、営業していない。周辺を歩き廻っているうち、目の前にアルベルグの看板があった。その民営のAlbergue Santa Maria del Azogueにする。まだ新しくてきれいだ。先客はなく、シャワーを浴び、洗濯。食料品店で缶ビール、生ハム、パン、リンゴを仕入れてきて、ひとりで乾杯。夕遅く、フランス人母娘が到着した。

 9日(日)。晴れ。6時半に宿を出たのはいいが、市街地から出たところで、モホンを見失った。車道をしばらくたどって、磁石で方向を確認。わき道に入ったところで街灯の傍にモホンを見つけ、ホッとする。その地道の坂を上がり、林に沿っていく。やがて、日の出。9時すぎにバールを見つけて朝飯。次々に後続がやってきた。

 車道に沿ったり離れたりしながら行く。民家の木々、草花が色とりどりで、気持ちがいい。次のバールでは、自転車ツーリング組が飲んでいたので、こちらも生ビール。ア・コニューラからのカミーノが合流したので、巡礼者が増えてきた(ア・コニューラからサンティアゴ間は100㎞未満で、地元民以外は巡礼証明書はもらえないはずだが)。午後2時40分、ブルマの公営アルベルゲに着いた。この日、28㎞を38,000歩で歩いた。

 近くの食堂で巡礼定食。ガリシア風野菜スープ、チキン、デザート、そしてビールで12ユーロ。別室では村人らが宴会をしていた。食後、村はずれの教会墓地のモホンで、サンティアゴまであと40㎞だと確認する。夜、また食堂でワインを飲む。

 10日(月)。霧が出て、月明かりもないが、7時出発。ポルトガル女性二人組が先を行く。明けてくるころ、十字架が立つ古風な水場を通過。聖者や恐竜(近くで骨を発掘するようだ)のオブジェが道端に並んでいた。10㎞ほど行って休んだバールで、2日前の宿で一緒のフランス人母娘に会う。カミーノ沿い民家の花樹がきれいで、シャクナゲも植わっている。菜の花畑も広がる。畑の土起こし時期なので、馬糞の臭いが漂ってくる。

 車道に沿って、逆行して来る男がいた(翌日も会う。3日後にはカセドラル前で)。地元の歩こう会のメンバーようだ。ロバを引いた老人にもあった。四国遍路の逆打ちのようで、おもしろい。パウロ村のバールで生ビール。店の前にバスが停車していた。乗れば、サンチャゴまで1時間ほどだろう。

 孫息子と祖父母など、家族連れ巡礼グループも目立ってきた。6㎞ごとに水場があるはずなので、次の休憩地にしょうとおもったら、水道はなくて水浴場だった。そこで、ポルトガル女性組に追い付いた。マルタとリタと互いに名乗りあい、一緒に行くことにする。今夜泊まるシグエイロには公営アルベルゲはないので、彼女たちが予定の民営のAlbergue Camino Realに付いていった。

 町に入って中心街のビルの一階にあり、フェロール出発時に先行していった青年二人がいた。二段ベッドだが、寝具つき。キチン・ラウンジもあった。近くのスーパーで、赤ワイン、生ハム、リンゴなど仕入れて、互いに乾杯する。明日はカセドラルだ。

 11日(火)。7時出発。五人揃って(昨夜遅く着いた若い女性客は起きてこなかった)。市街地を出て、畑地に沿って行く。霧がかかって、月明かりはなく、街灯が頼りだ。鳥の鳴き声が心地よい。ユーカリ林を抜け、地道から車道沿いになる。通勤の車も増えてきた。そうして、また市街地に入っていく。

 ずっと休まずに歩む。石畳の街路になり、カセドラルの塔が見えてきた。足取りが次第に早くなる。石造りの大きな方形建物(サン・マルティン・ピナリオ教会)前を通り、物乞いやバグパイプ吹きがたむろする門をくぐると、オブラロイド広場だった。午前11時10分に到着。大聖堂(カセドラル)が目の前にそびえている。

 写真を撮りあい、マルタが5人を自撮りする。喜びがわいてくる。広場には、抱き合って喜ぶ巡礼者がたくさんいる。観光客も多い=写真・右、自撮り

 巡礼事務所へ、リタが先導してパラドール・ホテルの前を通って行った。巡礼証明書の受付は、スマホでデータを入れる仕組み。私がまごまごしていると、係員がモニター画面でやってくれた。受付番号票を手に奥の部屋へ。撮影は禁止。クレデンシャルとパスポートを提出。フェロール出発日を確認し、宿をチェック。そのあと、名前を記入した証明書を出してくれた。縦型の巡礼証明書と横型の距離証明書(フェロールから115キロと記入)。手数料は3ユーロ。

 ここで5人は別れた。名残惜しいが、私は熊野古道との「二つの道の巡礼者」証明書を入手に、市観光局に行く。マルタとリタはすぐにポルトガルに帰るという(往路はリスボン・マドリッド・コルーニャと空路だったそうだ)。

 スペイン青年二人とはその夕、メノール神学校のアルベルゲで再会した。このアルベルゲは、古い大きな建物の内部を宿泊用に改装したもので、たくさん泊まっていた。台湾女性や韓国青年ら、カミーノで初めて東洋人を見かけた。

〇地の果て、フィステラの道

 スペインの最西端にある岬フィステラは、「地の果て」を意味している(ヨーロッパ大陸の最西端はポルトガルのロカ岬だが)。かつては、巡礼の締めくくりに海で身を清め、身に着けてきた衣類を燃やし、夕陽を眺め、自らの過去に別れを告げたという。今日でも「フィステラの道」は、人気のある巡礼路のようだ(バスでサンティアゴから数時間で行けるのだが)。

 12日(水)。曇り。午前8時、宿のメノール・アルベルゲを出て、カセドラルへ。子どもらの登校など、街はにぎわい始めていた。オブラロイド広場で、また逆打ちオジサンと出会った。フィステラに行くというと、激励された。

 カセドラルを背に、パラドール前からまっすぐ西へ、街中を抜けていく。サン・ロレンソ公園のモホンに、フィステラ89,586m、ムシア86,482mと記していた(その後は、フィステラまでの距離表示だけとなる)。郊外に出るところで、モホンに気づかずに石畳に沿って行ってしまい、地元のオジサンに声かけられて引き返す。地道をたどってから振り返ると、カセドラルが望めた。

 サンティアゴへ向かうツアーがやってきた。早朝にホテルから車で来て、歩いて帰って巡礼気分を味わうのだろう。出会ったのはこの日だけで、たいてい、フィステラやムシアから数日かけてサンティアゴに向かっていた。すれ違った米国在住のコリアン女性は、「ポルトガル人の道」を9日間で歩いたのち、バスでフィステラに行き、歩いて戻っているのだと話していった。

 緩やかなアップダウンが続き、畑や林もあり、村々を抜けていく。やっと見つけたバールで朝定食(コーヒー、卵ケーキ、パン。3.6ユーロ)にしたが、もう昼飯だ。後続も次々にやってきた。ここでも、荷物は託送して手ぶらの女性たちがいた。

 川べりの町に出て、石造りの橋を渡る。小さな滝もある。午後3時半、ネグレイラの町に入り、まずホテルのテラスで生ビール。スーパーで買物して、町はずれの公営アルベルゲへ。22ベッドあり、先着順だ。8ユーロ。この日の泊りは10人。

 13日(木)。紫明の朝もやのなか、7時半出発。カミーノは車道を外れ、林の中へと続いていく。次の村で日の出になり、雲海も望む。村々を抜けているうち、風力発電の風車が並ぶ丘陵地になった。その麓を巻くように進む。

 にわか雨になる。しかも向かい風。風力発電地帯だから、風はさらに強くなるかもしれない。対向の巡礼者もゴアテックス雨具姿だ。ビラセリオ村のバールで朝定食(6.5ユーロ)。パンケーキ2枚がボリュームがあって、夕方まで腹がもった。

 Vilar del Castroの丘(標高420m)の展望は、曇り空のなか、広々として、北方にダム湖、西には林立する風車が見えた。「イギリス人の道」で会った父娘組が先に下っていく。なかなか追いつかず、道を間違えたのかと不安になる。麓の集落のバス停で婆さんがカミーノの方向を指さしてくれ、ホッとする。

 オルベイロア村に入ると、民営アルベルゲのテラスで父娘組が手を振って迎えてくれた。公営はその先にあり、ネグレイラで同宿組はすでに到着してベッドを確保済み。管理人は午後6時半にやってきた。チェックインし、クレデンシャルにスタンプをもらう。石造り2棟で古風だが、設備は整っていた。ただ、電気暖房パネルは、シュラフカバーだけの身には寒かった。

 近くの食堂で巡礼者定食。スープ、パン、チキン、プディング、コーヒー。11ユーロ。そして生ビール(2ユーロ)。ガリシア風野菜スープに温まった。この日は、いちばんの長距離、34㎞をしのいだ。明日は、海岸に出られるはずだ。

 14日(金)。雨のなか、8時出発。雨具のズボンも穿いて白ずくめなので、お遍路さんみたいだ。1時間ほどで、オ・ロゴソ村。バールで朝定食(コーヒーと揚げパン。3.3ユーロ)。ゆっくり食べながら、今日は港町セーまでにしようと決める。

 林のなかを、緩やかにアップダウンしていき、車道にでると、ムシアとの分岐。地道をゆっくり下っていき、狼男のモニュメントには驚かされる。車道からまた草原状になり、ネべの聖母教会に寄る。スタンプを押してくれた。

 雨がやみ、海が見えてきた。セーの町に入る。広い港がある。午後2時、カミーノ沿いの民営アルベルゲに入る。先客は女性ひとり。40人収容の大部屋の隅っこのベッドにする(15ユーロ)。この日は20km歩いたから、あと16kmだ。

 15日(土)。晴れ。先客は「ブエン カミーノ」とつぶやいて出発した。こちらはゆっくりと食べ、午前8時すぎに出発。車道からカミーノに入ると、民家のホタテ貝の装飾が歓迎してくれた。地道をたどって、11時すぎ、海辺に出た。フィステラの街や先端の岬も見える。目の前には、大西洋が広がる。

 カミーノは海岸に沿って、遊歩道のように続く。夏は海水浴客で賑わうのだろう。海岸から車道に上がって、フィステラへの街に入る。中心部にあるインフォメーション兼公営アルベルゲに行ったが、閉まっている。近くのバールに、PAZ(平和の意味)と名のアルベルゲの看板があったので、そこに決める。2泊で30ユーロ。港を眺めながら、生ビール。宿のオーナーが一杯おごってくれた。

 夕方、岬に向かった。海岸を見下ろしながら、ゆっくりと坂道をたどってフィステラ岬に着いた。0m表示になったモホンのところで、サンティアゴの宿で同室だったイタリアのオジサン3人組に会い、スマホ撮影してくれた。さらに、灯台よりも先端にある十字架まで下ってみた。まさに、地の果て。ついに、来た。(一部略)

 16日(日)。快晴。早朝からカモメが鳴いている。8時過ぎ、海辺に出て日の出をみる。今日はもう歩かなくてもいい。9日間で200㎞余り、よく歩いたものだ。

 明朝のバス乗り場を確認し、インフォメーションに行く。歩いてフィステラにきた証明書をもらう(無料)。浜辺に行って、ホタテ貝を拾い、大西洋の広がりを実感する。そうして、カモメの鳴き声につつまれた海辺の町で、のんびり過ごした。

 17日(月)。晴れ。バスで2時間余り、サンティアゴに戻った。駅近くの民営アルベルゲに荷物を置いて、カセドラルへ急いだ。

 正午からの巡礼者ミサに間に合った。椅子席はいっぱい。観光客も多い。1時間余り続いた最後に、ポタフメイロ。高い天井から吊り下げた大きな香炉が、燻されて振り回される。オルガン演奏付き。これは、見ものだった。半地下に安置されている聖ヤコブの棺を拝む。その後、パラドールのテラスで、まばゆい陽を浴びながら生ビール。到着する巡礼者を眺めながら。そう、喜んで座り込む光景はいいものだ。

 18日(火)。晴れ。特急列車でマドリッドへ。中心部のホステルにチェックイン。午後6時から無料のプラド美術館で名画に再会した。

 19日(水)。早朝、王宮の近くにある、サンティアゴ巡礼「マドリッドの道」起点のサンティアゴ教会に参る。そして、空港へ。20日夜、関空に着いた。

〇熊野古道(略)

                  (元大阪本社編集委員、斎藤 清明)

東京毎友会のHPから2023年6月21日

(トップページ→元気で~す)

https://www.maiyukai.com/genki.php#20230621