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新刊紹介 全身マヒと声を失った元西部学芸課長、矢部明洋さんが映画評『平成ロードショー』を出版=東京毎友会のHPから

2022.08.24

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 西部本社の元学芸課長、矢部明洋さん(59)が、「平成ロードショー 全身マヒとなった記者の映画評1999~2014」(忘羊社)を出版した。現役時代に西部本社版に書いていた映画紹介コラムを厳選してまとめた。イラストは妻の「高倉美恵」さん。夫婦合作である。

 「矢部くんが倒れた」。2014年11月10日、報道部長だった私(松藤)に連絡が入った。脳梗塞を起こして入院したという。すぐに病院へ駆けつけた。高倉さんと子供2人は比較的落ち着いているように見えたが、病状は深刻だった――。

 同僚の矢部さんとは、年齢も近く、飲む機会も多かった。博覧強記の彼の話題の幅は広く、斜に構えた独特な見立てと関西弁に乗せた歯に衣着せぬ的確な指摘は、ユニークで憎めない。酒席では笑いが絶えない。こと映画評はたしかに群を抜いていて、私が見たこともない映画でも彼の言にかかると見てみたくなるような楽しみがあった。

 その1年前の13年11月、報道部長が聞き手として長く西部紙面で連載していた直木賞作家の故・佐木隆三さんのインタビュー企画「事件簿」が突然終了する事態に陥った。その時に助けてくれたのが矢部さんである。共通の知人でもある直木賞作家の葉室麟さんと歴史上の人物を語る案を出して、自ら対談相手を買って出た。「ニッポンの肖像」と題した月1回の対談は、黒田官兵衛に始まり、宮本武蔵、坂本龍馬、北条政子などと続いた。

 対談後、葉室さんを囲んでの酒席がなにより楽しかったこともあるだろう。時代作家の葉室さんと矢部さんは、作家論など文学のみならず、政治や国家論、メディアの在り方から、映画も含めた芸能娯楽、文学賞のウラ事情――と実に多彩で幅広い分野の話をした。まさに、矢部さんならではの仕事だった。

 そんな脂が乗り切った矢部さんを突然、病が襲った。それでも希望はあった。全身マヒに加えて声も出せなくなったが、数か月後には意識や記憶などには問題がなく、以前のままであることが分かったのだ。情報のインプットもアウトプットも、目で見て、耳で聞き、透明の文字盤を使ってできるという。退院した矢部さんを見舞うたびに、葉室さんと話したのは、なんとか矢部さん夫婦と進学を控えた子供2人を含めた家族の支援ができないかということだった。

矢部さん夫妻を見舞った葉室麟さん

 私は、矢部さんになにか書いてもらうことを提案したが、四肢は動かず声も出ない。一方で、元書店員の高倉さんは地方版にイラスト付きで「ちゃんとして母ちゃん!」というコラムを寄稿していた。そこで生まれたのが、現在も月2回のペースで続く「眼述記」である。文字盤を通じて闘病だけでなく、全身マヒの父親を抱えた家族のありのままの姿をつづっている。

 それは矢部さんの文章でありながら、眼と思いやりを通じた夫婦のコミュニケーションの実情であり、全身全霊で寄り添い続ける高倉さんの介護の記録である。この間、高倉さん自身、2度のがん宣告を受け、それを克服した。子供たちもそれぞれ大学、高校へと進み、自立へと動いた家族の物語でもある。

 葉室さんは対談の書籍化を提案してくれた。出版社の知己に連絡して「ニッポンの肖像」を「日本人の肖像」として再構成し、編集者に掛け合って著者名に「矢部明洋」のクレジットを併記してくれた。業界では異例のことだったと聞いた。

 葉室さんは、彼が地方紙記者時代に、駆け出しだった私を陰に陽に気にかけてくれた大先輩だった。この本の出版だけでなく、著者クレジットに矢部さんの名前を入れた葉室さんのご配慮は、私自身のことのように思えて、感謝しかない。

 葉室さんはこの本のまえがきの中で、こう書き記している。

 「この本の前半は、毎日新聞西部本社学芸課長でデスクの矢部明洋氏との対談の形で進められました。わたしの雑駁な話が矢部氏の力によって整合性のあるものにまとめられていったというのが実感です。わたしの意見というより、矢部氏の理解力、構成力をもとにした『対話』であるということに意味があるのではないかと思っています。矢部氏は平成二十六(二〇一四)年十一月に脳梗塞と脳出血の病に倒れました。病状の詳しい説明は避けますが、最も活動的で雄弁な新聞記者がその能力を発揮できず、闘病を続けています。矢部氏が病に伏した後、学者の方々との対談を重ねさせていただきましたが、『対話』をするという基本は矢部氏のときから引き継いだものです。闘病中の矢部氏と彼の家族は明るくたくましいことも付け加えておきます。そのことに、わたしは生きる意味を教えられました。」

 その葉室さんも2017年12月、帰らぬ人となった。享年66。いつもお見舞いにカステラを持参したとかで、子供たちは「カステラのおっちゃん」と呼んでいたという。

 19年4月、矢部さんは新聞社を退職した。コロナ禍は3年目に入り、お見舞いもままならず時が流れていく。高倉さんから「矢部が映画のことを書きたがっています」と聞いていながら私は何もできないまま退いた。それだけに、矢部さんのこだわりの一つであった映画評を、夫婦自らの力で書籍化されたことを心からうれしく思う。そして敬意を表したい。

              ◇

 8月10日、北九州市小倉北区の旦過市場が今年2度目の大火に見舞われ、創業83年の老舗映画館「小倉昭和館」が焼け落ちた。3代目館主の樋口智巳さんは「ここに来れば、いつでもお会いできますよ、と自分で話していた場所がなくなった。これからどうすればいいのか」と肩を落としていた。かける言葉も見つからず、「平成ロードショー」を1冊渡した。「火事の前にいただいて持っていたけど、焼けちゃったの。うれしい。ありがとうございます」。樋口さんは笑顔で受け取った。

                     (元西部本社編集局長 松藤 幸之輔)

           

            ◆    ◆

「見終わって涙がとまらない」映画への愛を綴った『平成ロードショー』

 「どんなものを食べているかを言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言い当ててみせよう」。19世紀フランスの政治家、ブリア・サバランはこう語ったそうです。「どんなものを食べているか」は、「どんな映画を観ているか」に置き換えられる。本を読んで、そんな印象を持ちました。

 本書は、矢部さんが倒れるまで西部本社福岡総局の学芸課長として書き続けた映画評「週末シネマ」の署名記事を中心に、映画愛が伝わるコラムなども加えた約150本を再構成したものです。

 紹介される作品の多くは、いわゆる「メジャー路線」ではありません。巨額の予算を投じた話題作とか、SFX満載の血湧き肉躍る冒険映画とか、「全米が泣いた」系のヒューマンドラマは登場しません。その点においては「偏っている」とも言えましょう。

 それでもこの本をお薦めする理由は、ラインナップに矢部さんの揺るぎない選択眼を感じるからです。

 大作より小品、勧善懲悪の物語よりモヤモヤ路線、シネコンよりミニシアター、とでも言いましょうか。

 もちろん、メジャーな作品にも心を寄せています。ハリウッドで矢部さんが高く評価する監督は、「グラン・トリノ」(2008年)を撮ったクリント・イーストウッドです。そのわけを、本書でこう評しています。

 「米国社会が原罪のごとく抱え持つ人種対立や横行する暴力に対し目をそむけない。ヒーローを安易に美化したりもしない。娯楽映画の体裁をとりながらも、アメリカン・ドリームの空々しさを常に視野に入れている」

 矢部さんの思いを代弁するならこうです。映画は娯楽であると同時に、世相や社会を色濃く映します。いい映画は、観る者の心に余韻を残し、新たな視点を提供したり、感情を強く揺さぶったりします。

 スクリーンに展開されるのは、人間の弱さや残酷さ、馬鹿馬鹿しいほどひたむきな、時に愚かな行いかもしれません。それでも、根底に弱い人や寄る辺ない人々への共感のまなざしがある。彼らを踏みつける社会や権力への怒りがある。

 そういう佳作を、矢部さんは「便所泣き映画」と評しています。見終わった後、感情が高ぶって涙が止まらず、便所の個室にこもって気持ちを鎮めるほどの作品、という意味です。

 京都で生まれた矢部さんは高校時代、学校よりも一乗寺にある映画館「京一会館」にいる時間が長かったそうで、「ここでビスコンティも小津もロマンポルノもピンクも知った」と振り返っています。妻でライターの高倉美恵さんが紹介する、矢部さんの思い出話を引用します。

 「実家には『太秦ですが』と言って、古い家具がないかと訪ねてくる人たちがいて、それは東映京都撮影所のスタッフなのだが、映画に使える小道具を探していたのだとか。『太秦ですが』で通用するんだ、と妙なところに感心をするのは小倉生まれの私だ。夫は『地場産業やからな。千葉真一が近所で撮影していたときは、消防車がきて雨を降らしてたぞ』なんて言う」(2022年8月3日福岡版『眼述記 80』)

 矢部さんが自宅で就寝中に脳梗塞を起こしたのは、名優・高倉健が亡くなったのと同じ、2014年11月10日未明でした。7カ月の入院を経て自宅に戻ったものの、全身にまひが残りました。

 込み入った話は、透明な文字盤を目で追う様子を高倉さんが読み取ることで成立します。本書のあとがきも、こうして書かれました。

 ライフワークの映画鑑賞は続いています。車椅子に乗って夫婦2人、映画館に出かけることもあるそうです。

 映画をスマホで観たり、中には「ネタバレ」サイトを読んでから早送りで観たりする人も増えている昨今ですが、映画館やレンタルビデオ屋に足を運ばずとも、旧作をオンラインで比較的容易に鑑賞できるようになった時代を、前向きに受け止めたいと思います。

 この本で、未知の名作に出合う機会を得られたことは大きいです。「便所泣き」を含め、いつか観ようと思ったページに付箋を貼ったら、まるで全盛期のプレスリーの衣裳みたいになりました。

                   (論説副委員長 元村 有希子)

 「平成ロードショー 全身マヒになった記者の映画評1999~2014」は忘羊社刊。1800円(税別)。

=東京毎友会のホームぺージから2022年8月23日

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https://www.maiyukai.com/book#20220823