先輩後輩
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ライフワークは災害ボランティア(村瀬 達男)

2022.05.30

先輩後輩

 1990年入社の村瀬達男です。名張、高知、豊岡の3支局で支局長をして、2021年春から奈良支局で編集委員をしています。私の趣味は災害ボランティアです。

 阪神大震災(1995年)の際は大阪社会部で軟派の連載を担当。しかし、東日本大震災(2011年)では、個人的に休みを取って、震災翌月の2011年4月から東北へ。平均年2回(主にGWと夏休み)のペースで、これまでに計19回通い、岩手、宮城、福島3県の6市4町で、延べ72日間活動してきました。他にも西日本豪雨(2018年)で岡山、広島両県で泥出しをして、大阪北部地震(同)では被災した大阪府内5市の民家の屋根にブルーシートを張りました。

地震で瓦が落ちた福島県南相馬市鹿島区の民家の屋根

 ただ、私が2014年から通う福島県南相馬市には、2020年8月を最後にコロナ禍で行けませんでした。ようやく2022年のGWに職場の理解を得て6日間の休みをもらい、奈良市から片道13時間かけてマイカーで移動。5泊6日のうち1泊目と5泊目はコロナ対策で車中泊をしながらの往復1700㌔の道のりでした。その体験ルポを年5月18日付の奈良面に書いたのを大阪社会部の大先輩の梶川伸さんに見つかり、毎友会への寄稿を依頼された次第です。

 南相馬市は、北から鹿島区、原町区、小高区で構成され、大震災の地震と津波で市全域で636人が犠牲になりました。さらに、小高区と原町区の一部は福島第1原発から20㌔圏内にあり、旧避難指示解除準備区域に。避難指示は2016年7月に解除されましたが、それまでの5年間に被災者は避難先で就労・就学し、新しい人間関係もできているため、なかなか帰還しません。とりわけ、子どもがいる家庭は、放射能の長期的な影響を懸念して戻りません。芥川賞作家の柳美里さんが2018年、JR小高駅前に本屋「フルハウス」を開店し、話題となったぐらいです。同市の人口は、震災前は約7万1000人でしたが、現在は約5万8000人にとどまり、小高区に限っては約3割のみ。しかも、「先祖の墓を守りたい」「古里で死にたい」という高齢者が大半で、街づくりは進まず、復興は道半ばです。

 そんな福島県で今年3月16日、最大震度6強の地震が発生。民家の瓦が割れたため、今回のボランティアの内容にブルーシート張りが加わりました。大阪北部地震で屋根に登った経験が生きた形です。前半の4月30日~5月1日はブルーシート張りとし、後半の5月2~3日は、いつもの震災復興支援に決めました。

 具体的には、4月29日夜、長時間運転でヘトヘトになって南相馬市に到着しました。目的地のキリスト教系ボランティア支援団体「カリタス南相馬」(原町区)の宿泊所は、私は6年前から利用していますが、今年はコロナ禍で定員を減らしており、着いた夜は密になるため、私は道の駅で車中泊しました。その後は他の人が譲ってくれ、私はカリタスに2泊できました。ボランティアは1泊(2食付き)2000円以上の寄付が必要ですが、シスターたちが作ってくれる、おいしい朝食と夕食が付いています。

 カリタスには、愛知県小牧市から応援に来て、1カ月以上も寝泊まりして被災屋根のブルーシート張りをする藤野龍夫さん(70)のチームが陣取っています。藤野さんとは2016年に南相馬市ボランティア活動センター(小高区)で知り合い、大阪北部地震でも一緒にブルーシートを張りました。藤野さんの本職はへリコプターの整備士ですが、高所作業車や重機の操作、工具の修理に精通しており、まさに「プロボノ」(職業上のスキルや専門知識を生かして取り組むボランティア)です。

瓦を並べ替える筆者

 今回の現場は、南相馬市鹿島区の民家で、30日はボランティア6人で、5月1日は10人で活動しました。まず、高所作業車で屋根の状態を確認すると、頂上部の棟瓦が全て落下し、平瓦も多くが割れた状態でした。屋根に十字に命綱「親綱」を張った後、私たちが安全帯を装着し、「足袋靴」(底が茶色い生ゴム)などを履いて屋根に登り、親綱と結ぶ落下防止の「子綱」を付けて作業しました。手順は、初めに割れた瓦を降ろした後、生きた瓦を西半分に並べ替えます。瓦がなくなった残る東半分の屋根は瓦を引っ掛ける桟木(さんぎ)がむき出しになっており、インパクト(電動)ドライバーを使って、端に板を巻き込んだブルーシートと桟木をビスで固定します。さらに頂上部はテント生地で覆い、防水テープで留めました。

 2日目で2階は終わったものの、大きい家のため1階の屋根が途中になり、翌日の継続作業に。私は2日間、斜面に立ち続けてアキレス腱を痛めましたが、依頼主の男性から「2階が雨漏りしていたので、ありがたい」と感謝され、痛さを忘れました。

 活動3日目は、私が2014年からホームグラウンドにしている南相馬市ボランティア活動センター(小高区)に移動し、その夜は宿泊もしました。センター長は自衛隊上がりで、70歳を過ぎても、横浜から単身赴任を続ける「信念の人」です。

 今回の現場は原町区の畑(約1000平方メートル)の防風林の伐採でした。依頼主は、原発事故の避難先から帰還した70代の住民で、「もう年で世話ができないので、切ってほしい」との事でした。3日目はボランティア4人で、最終日は5人で作業し、軽トラック計6台分の丸太や枝葉を搬出し、クリーンセンターに持ち込んだり、丸太集積場に運んだりしました。私は自分のチェーンソーを持参しましたが、2日間、使い続けると、腕と肩がパンパンに張り、帰りの車の運転は「地獄」でした。

 このように東日本大震災のボランティアの内容は、初期の泥出し、がれき撤去から、仮設住宅の引っ越しやビニールハウスの解体などを経て、今は草刈りや木の伐採など、帰還した住民の住環境の整備に移っています。「草刈りが復興支援か?」と思う人もいるでしょう。しかし、帰還する住民が少ないため、昔のような集落総出の作業や自治会活動が成り立ちません。もちろん「帰らない自由」は尊重しますが、帰還した住民が生活を続けられるよう支えるのがボランティアの仕事なのです。

 

 ただ、これは放射能で汚染された街が抱える課題です。私は岩手県陸前高田市や宮城県南三陸町でも活動しましたが、両市町は津波で中心部が流され、多大な被害を受けたものの、その後、10メートル近く盛り土をして中心部を高台に再生したことで、結果的に復興は進みました。これに対し、南相馬市は私が2014年に訪れた際、3年たっても津波で流された車が国道沿いに放置されており、「建物はあるのに人がいないゴーストタウン」の状況でした。数年前、高校が統合され、再開すると、徐々に人影は増えてきましたが、復興には、ほど遠い状況です。原発事故被害者の生の声を聞けば、避難して一家離散になったり、親族が避難中に関連死したりと、悲惨な人生の痛みを、少しばかり共有できます。それなのに、安倍晋三元首相が「(原発事故は)アンダーコントロール」と言った時は本当に腹が立ちました。

 大分県在住の尾畠春夫さんが「スーパーボランティア」として有名です。尾畠さんが、重機を扱う「プロボノ」なのかは知りませんが、藤野さんのような無名のプロボノも多く知っていますし、南相馬市に毎月通う猛者もいます。彼らから見れば、「(私のような)アマチュアが何を言っているのか」と笑われそうですが、職業柄、「東日本大震災を風化させないで」と体験ルポを書くのが務めだと思ってきました。

 被災地に行けば、軽トラを運転したり、刈払い機やチェーンソーを扱ったりと「非日常の体験」ができます。所詮、ボランティアは自己満足なのは分かっていますし、記者として、ペンの力を信じていない訳でもありませんが、実際に現地で草1本を抜くことで「自分に非がないのに原発事故で幸せな人生を奪われた被災者」に、自分なりに寄り添いたいと考えています。今後も先輩ボランティアの指導を受け、微力ながら復興に役立てれば、幸せです。

南相馬市原町区で帰還住民の畑の防風林を切る筆者

 ここまで偉そうな事を書きましたが、今回は5泊6日で全く観光せず、わざわざ疲れに行くのに関西出発で車のガソリン代や高速代、滞在費などで7万円以上かかりました(コロナ前はバイクで行っていたため、1~2万円安かったですが、コロナ後は感染防止で車中泊の可能性があるため、車を使用)。家計には大きな負担です。これを10年以上、年2回のぺースで続けていますが、私の「8歳年上の姉さん女房」は文句一つ言ったことがありません。私のわがままは、家族の理解があってこそ成り立っていることを告白いたします。

                    (奈良支局編集委員・村瀬達男)