2022.02.25
先輩後輩
創刊第5号を発行した2月26日、「銀座大火」があった。出火は午後3時。火元は和田倉門内の旧会津藩邸とあるから、今の皇居外苑である。火は強風にあおられて外堀を越え、大名小路(現在の東条駅八重洲口付近)、京橋、銀座、築地まで広がった。幕末1868(慶応4)年に開業した日本最初の本格的ホテル「築地ホテル館」も焼け落ちた。被災は4879戸、焼失面積は28万8000 坪(95万 0400㎡)にのぼった。
鎮火は10時ごろ、とある。
それを翌日の「東京日日新聞」第6号に掲載したのである。新聞の日付は2 2月26日(水)である。現在のように配達日の日付ではなかった。
創刊号は木版だったが、2号からは活字を使った。しかし、活字が不足していたのか、本来漢字を使うところがカタカナになっている。
この第6号紙面の最後に「当社新聞活字未ダ全クソロワズ…」とお詫びを載せている。それにしても、大変な速報である。現場で取材して、日報社の置かれた「浅草茅町(かやちょう)1丁目 24番地」、創刊3人組の 11人、戯作者・条野伝平(1832~1902山々亭有人)の自宅に戻り、原稿を書き、活字を拾って、印刷する。創刊号は1千部発行したといわれるので、徹夜作業だったに違いない。
今吉賢一郎著『毎日新聞の源流』(毎日新聞社1988年刊)に、「東京日日新聞」創刊の地の地図が載っている。
火事の取材を終えて、銀座から現在の JR 総武線浅草橋駅近くの「日報社」条野宅に戻るのだから、新聞の活字が組み上がったのは、翌27日未明であろう。
さらに明治6年2月25日付から浅草河原町16番地に変わった。地図にある江戸通りの交差点の角地だ。
日報社は、1874(明治7)年5月11日銀座2丁目3番地(メルサ銀座 2丁目店のあるところ)→22年後の1876(明治9)年1231日尾張町1丁目1番地(現在銀座5丁目、名鉄ニューメルサ)に移転した。
「銀座大火」で不燃都市東京を目指し、銀座は洋風建築の「赤レンガ街」となった。銀座通りの幅もその時の
都市計画で決まった。幅15間(27.3m)、両側に幅3間半(6.376m)の歩道をとり、車道は8間(14.56m)となった。この道幅は、現在も変わっていない。
尾張町への移転は、レンガ街最大の建物呉服商「恵比寿屋」が倒産、その後に入った。創業5年で「銀座の顔」になったわけだ。
(堤 哲)
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