先輩後輩
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創刊150年記念寄稿 150周年以後への期待(下)(今吉 賢一郎)

2022.02.23

先輩後輩

◇「御用新聞」は誤解、時論に媚びない新聞だった!

 【福地の真意】福地源一郎は 1874 年の入社以来、「言論の自由」とどう取り組んだのか?漸進主義で「言論の自由」をこの国に定着させようとした、それは一貫しているのではあるまいか。最後に立憲帝政党で政府側に立ったのはいかにもぶれたようにも見える。しかし、立憲帝政党の綱領には「言論の自由」「シビリアンコントロー ル」などが含まれていた。政府と折り合いながら「言論の自由」定着を模索し続けたと見るのが自然であろう。

 福地時代の『東京日日新聞』について「政府の御用新聞で、政府べったりだった」という説がある。これはやや誤解に基づく見方だろう。
 1874 年 10 月、『東京日日新聞』は、福地の入社と同時に「太政官記事印行御用」となった。当時、政府には今日の『官報』に当たるものがなかった。福地は政府発信の情報をきちんと『東京日日新聞』に掲載しようというアイデアを政府に提案し、認められたのである。このような情報が必要な人々もいるから当然部数は増え、この「太政官記事印行御用」のタイトルは他紙からも羨ましがられたという。
 ところが新聞間の論争が激しくなると、対立紙が「『東京日日新聞』は御用新聞で政府べったり」と非難することもあった。
 そのため福地は 1881 年、「御用」のタイトルは返上、社説でこう宣言した。「日日新聞は政府新聞にも非ず長州の新聞にも非ず……漸進主義を確立し、……時論にも媚びざる新聞紙なり」

 「御用新聞」といわれたのは、官報の機能の一部を果たそうとした時期の「御用」という文字に起因するようである(政府の『官報』発行は 1883 年になってからである)。
 福地が新聞の立場を放棄し、「政府べったり」を志向したことはない。」

 

 ◇◇◇「吾曹」先生・福地はいま何というだろうか?「吾曹は一言『現実を見よ』といおう。吾曹は 1868 年、『江湖新聞』を発行したころ、『新政府ができても、幕府に変わって薩長が第二の幕府になるだけなら意味が無い』と考えた。新政府の格好だけつけても中に何が入るか、その現実こそ見なくてはならぬ。『江湖新聞』にもそう書いて弾圧された。それから 20 年以上を経て国会が開設された。しかし、内閣は「超然主義で政党など何をいおうと関係ない」という立場をとったではないか。国会の外装は整っても中に何がある? その現実を見よ。大急ぎで恰好だけ付けても何の役にも立たぬ。だから現実を見ながら漸進することこそ大事である。吾曹はそういい続けたのである。もしも吾曹の述べた通り、やや時間がかかったとしても内閣が無視できぬような政党ができ、「言論の自由」や「シビリアンコントロール」が定着していたら、その後の混乱は……いや、歴史に『もしも』はあり得ない。これ以上は語るまい。ただ急進派の新聞と論戦したころは、理論に走り過ぎたる感、無きにしもあらず。論争に熱中するうちに読者が半減するとは。そそれもまた現実である。その『もう一つの現実』にも目を向けるべきだった」◇◇◇

 

◇新聞乱戦下で日本一

 【拡大路線の連続】『東京日日新聞』を創業した条野、落合、西田、広岡のその後を概括しよう。4人のうち最初に別の事業に取り組み始めたのは落合芳幾だった。1875(明治8年)、日報社在籍のまま『平仮名絵入新聞』(後に『東京絵入新聞』)を創刊。創刊号から第 3 号までを『東京日日新聞』の全読者に無料進呈した。日報社は芳幾の事業を全面的に応援し、印刷を請け負った。

 芳幾は挿絵を描き、文章は元幕臣・前田健次郎や戯作者・染崎延房(二代目為永春水)。さらに岸田吟香がずっと後になってから明かしたことだが、吟香も創刊以来、芳幾にずっと協力し続けた。とくに 1 号から 100 号までは岸田が執筆もした、「だれにでもわかりやすく」を目指した新聞だった。たびたび紙面を広げたり、挿絵を増やしたりの紙面改良を重ねた。つねに拡大路線をとった。

 『清治湯の講釈 春の屋おぼろ戯稿』という原稿が郵便で編集部に届いた。屋台で薬を売るじいさんの話を書いたものだった。その話の中の「血の道」「清丹」「清湯」「清婦湯」はそれぞれ「治の道」「政談」「政党」「政府党」との掛け言葉で、結局、じいさんは当時の政治情勢をわかりやすく解説しているのだった。じつに巧みな戯文なので編集部では全文を投書欄に連載した。「春の屋おぼろ」とは坪内逍遥、そのころ 22 歳? 東大文学部の学
生だった。坪内も『東京絵入新聞』を愛読していたらしい。

 発行部数は 1876 年に第 6 位、その後毎年順位を上げて 1881 年には全国で第 1 位となった。創刊以来 7 年間、絵入新聞としては芳幾の一人天下だった。ところがまさに 1881 年、「明治 14 年の政変」が起きた後、すでに述べた通り、大半の新聞が自由党系、改進党系など政党機関紙のようになった(『東京絵入新聞』は改進党系)、各政党が「親しみやすい絵入新聞」を増やした。『東京絵入新聞』の独占的市場はどんどん浸食された。

 吉田健三は『絵入自由新聞』の挿絵の担当者として芳宗(二代目)を呼ぼうとした。芳宗は「いま芳幾と勝負できるのは芳年だけです」と自分の師匠を推薦した。吉田は芳年と交渉し、「月給 40 円(当時巡査の基本給が 6 円)、芳年の家紋入り人力車で毎日送迎」という厚遇で迎えた。また芳宗も月給 18 円で雇った。リスクがあっても果敢に行動するのが吉田のやり方である。あくまで打倒芳幾の布陣だった。芳幾・芳年は歌川芳国門下の突出し
た弟子だった。両雄の対決となった。

 『絵入自由新聞』のほうは芳年の絵を思いっ切り大きく掲載した。これに対して芳幾のほうは? 芳幾は対抗策を何も取らず、むしろ広岡幸助の栄泉社(後述)の仕事などを増やしていた。なんとも不思議な対応だが、勝手な推測が許されるなら、芳幾は絵入新聞同士の乱戦など長くは続かないと見ていたのか。実際に新聞の乱戦がやや下火になると再建に乗り出した。部数は最盛時の五、六分の一になっていたが、それでも芳幾は拡大路線で進み、おまけの付録や冊子をよく付けた。部数は急速に回復した。しかし、立て続けに三回も当局の弾圧を受け、記者が逮捕されたり、発行停止処分を受けたりした。そのうちの一つは『其昔蜘振舞(そのむかしくものふるまい)』という絵を付録で付けたことだった。師匠・国芳の作品を模写したものだった。国芳が描いたときは江戸の市民の間で「天保の改革をちゃかしたものだ」という評判が立った。そんな絵の模写だから「治安を妨害するものだ」と警視総監が発行停止処分としたのである。

  芳幾はそれでも拡大路線で発行を続けようとしたが、1890 年 3 月末以降の『東西新聞』(1889 年に『東京絵入新聞』から変更)は姿を消した。当時、記者には自由党系の人が多く「おおむね『絵入自由新聞』に移った」と『東京日日新聞』は伝えた。

 

 【自由競争時代の知恵】条野伝平は 1884 年 10 月、『東京日日新聞』在籍のまま『警察新報』を創刊した。これを 1886 年、『やまと新聞』に改めた。この時点で正式に『東京日日新聞』を離れたらしい。そのとき紙上にこんなことを書いている。

 「封建時代の枠が撤廃されて、いまは自由競争の時代となった。そのとき一家の富貴安寧、一国の富強隆盛を進めるものは何か? 知恵である。日本人が西洋の赤ヒゲと商売をして利を制せられるのは、知恵の毛が三本足りないためである。知恵はいかにして得るか?ナポレオンの兵書を読むか、太平の世に兵書は向かない。スミスの経済書を読むか? それは高尚にして難解である。さあどうする。新聞を熟読するしかない」

 自由競争時代に生き抜く人を読者に想定したようである。やや吉田健三のいうところと一致している。条野自身は西洋文学の翻案小説などを連載した後、一冊の書物にまとめて販売した。『東京日日新聞』は離れたが、福地との関係は維持した。西洋の小説を読んでもらい、あらすじを聞いて日本流に書き替えた。たとえば連載小説『美人の勲功(いさおし)』は「アレキサンドル・シュマー(デュマ)」の翻訳と断り、原作中のルイ 16 世が由井内府、マリーアントワネットが鞠尾夫人、王子ルーイスが路寿丸、王女エリサベットが百合咲姫だと説明がある。『やまと新聞』は 1889 年、日本一の部数を達成した。

 「だれにでもわかりやすく」は、福地が最初から考えた新聞の姿だった。その福地が漸進論を掲げて急進派との論争に多忙であったとき、『東京日日新聞』創業者のうち二人は、自身の考える形の新聞で日本一を達成したことになる。

 芳幾の『東京絵入新聞』も『やまと新聞』も、最初は『東京日日新聞』が紙面で紹介し、販売、印刷面でも協力した。両紙とも『東京日日新聞』の姉妹紙といえる。

 

 【客観性の価値】西田伝助の明治 10 年代は? 西田伝助は 1891 年まで『東京日日新聞』に在籍した。条野の『やまと新聞』には創業時からずっと協力した。西田は蔵前の札差の家に生まれた。札差は旗本御家人の代理として家禄の米を受け取って売却し、手数料を得るほか、旗本御家人に米穀を担保に金銭の貸し付けもした。札差の家には独特の豊かな暮らしのスタイルがあったという。ところが 1841 年からの天保の改革で、旗本御家人の借金は無利息の上、二十年賦で返せばいいことになった。さらに 1855 年の安政大地震のため家族 5 人や使用人が亡くなった。このため西田伝助 22 歳のとき、札差の株(株仲間の会員のみが持つ独占的権利)を他人に譲った。

 西田は十代のころから俳句を詠み続けた。狂歌や戯文も書いた。滝沢馬琴の『里見八犬伝』の名場面はすべて暗記していて、友人たちを驚かせた。自分の句を集めた『妙伝集』にはこんな記述がある。

 「御蔵前札差組合の人名表をくりかへし見て、盛衰栄枯は、人の世の常とはいへど、さすがに昔のしのばれて、涙とどめがたし 何事も昔と火桶引きよせぬ」

 心底には深い悲しみを抱え続けた人である。

 『東京日日新聞』創刊時の人々のうち、結局、最後まで残っていたのは西田ということになる。だいぶ後になってからだが『東京日日新聞』時代の西田について報知新聞にはこんな記事が載った。

 「桜痴翁は表面に彩華を放てる人。西田翁は幕裏にあって実権を握れる人」

 

 ☆☆☆西田本人の声。「わたしらのころは、記事は冷静に書くもんでした。もちろん特別の欄は別ですが、雑報記事などに個人の感情は交えぬものだった。どうしても感情を込めて書きたいときは、偽名で書きまして、よその新聞の投書欄に郵便で送ったもんです。これ、私だけじゃない、多くの記者がそんなことをしてましたよ。いまの記事には記者が「私は……」「私は……」と己を前面に出したものが随分ありますなあ。これ、どうなんであり
ましょうか。聞くところによれば、いまの世の中、だれが何を書いても載せてくれる便利な仕掛けがあるそうで、インチキを書いたってインチキとわかるまで、その話が広まるとか。そんな時代であるならば、なおさら冷静な、客観的な、といいますか、そういう記事が必要なんじゃありませんか。『客観的』なんてもんは存在しないと言い張る人もいるそう ですが、
そうはいわずに、新聞記事の客観性について、ご再考いただきたいもんだ。え? 私が用いた偽名? いや、そんなことまで、ほじくらんでくだされ」☆☆☆

 

  【いつでも「その先へ」】広岡幸助は江戸時代にベストセラーの長編『 白縫譚しらぬいものがたり』の刊行を続け、すでに有名な地本問屋だった。1881 年、芳幾と同じく『東京日日新聞』を離れ、出版・印刷の榮泉社を始めた。同社には『東京絵入新聞』で多忙な芳幾も協力した。

 1886 年 10 月 24 日、イギリス船籍のノルマントン号が、紀州沖で沈没した。船長以下乗組員(イギリス人、ドイツ人など)26 人は全員救命ボートで脱出し、日本人乗客 25 人は全員死亡した。英国神戸領事による海難審判では船長の「日本人にもボートに移るよう勧めたが、言葉が通じず船室にこもったままだった」という話が認められ、無罪とされた(後に横浜領事館での刑事責任を問う裁判では有罪、禁錮 3 か月)。このため、日本国内には不
平等条約撤廃への運動が盛り上がった。

 広岡はさっそくこの事件と取り組み、12 月には『英国ノルマントン号沈没始末』を緊急出版した。これには神戸領事館での船長の陳述までが克明に収録されている。当時としては驚くほどの早業である。

 その後広岡はカラー印刷に取り組んだ。さらに新開発の技術を生かして、小学校の修身の掛け図を作った。次から次へ、いつも新しいことと取り組んだ。

 印刷物が「売れるか、売れないか」については、つねに厳しい判断をした。「売れそうもない」と感じると「白紙しらかみの方がまだましだった。インクでこんなに汚してしまっては使い道がない」といった。

 広岡は「魁」の文字を好んだ。榮泉社では物日に一同が「魁」の文字を染め抜いた半纏
を着用した。広岡には新聞も書物も「先頭に立って新しい時代を開くもの」だった。

 ☆☆☆広岡の声。「昔、『興画会』で仲間(条野、芳幾、西田)と遊んだころ、そう、だれの絵の趣向がおもしろいかを競うわけですが、だれもが『新奇』を求めたもんです。西洋のものが入り始め、世の中、大きく変わり始めていましたよ、近ごろは変わり方が一段と激しいようで。新聞社が「一番先を走ってる」つもりでも、じつは一番遅れてるかもしれません。もし一番遅れてるもんがモノを知らずに批判記事なんぞを書いたら、そりゃ、お笑いでして。一周遅れの記事なんぞで白紙を汚してはなりません。世の中、専門化も進んでいるようですから、新聞に関わる人は、あらゆる分野に関心を持ち、『新奇』を追わねばならん、先へ、そのまた先へと。こりゃ大変だけど、それが新聞というもんでしょう、あ、こりゃ、勝手なことを申しました」☆☆☆

             ◇    ◇    ◇
 新聞はいま新聞史に残る激動の季節であるらしい。
 現役の人たちは大変だ。しかし、考えようによってはこれほどエキサイティングでスリリングな時期はない。筆者は「大変な時期」といいなから、稀有な時期に遭遇した人たちをうらやましくも思う。
 明治初期、どういうわけか、ウナギの消費量がウナギ登り上りだったという。『東京日日新聞』にもウナギ好きの人が多く昼食によく食べた。みんなでウナギでも食って 150 年目から先の策を練って、……、部数がウナギ上りになって、……と。
 皆様の御健闘をお祈り申し上げます。
(文中でいちいち断りませんでしたが処々で、『毎日の三世紀』を参照しました。これは単なる社史ではなく、新聞史としても立派な書物であります)

                                 (今吉 賢一郎)