先輩後輩
SALON

創刊150年記念寄稿 150周年以後への期待(中)(今吉 賢一郎)

2022.02.23

先輩後輩

◇新聞が開く新天地

 【広大な視野を持つ巨体】『東京日日新聞』第 30 号(1872 年 3 月 22 日)は「品川沖でとれた異形なる魚」についてイラスト付きで報道した。5 日後に「横浜・岸田銀治からの書」を掲載した。「和名はウキへ、奥州でときどきとれる。イギリスではソンヒシ」と説明されていた。ソンヒシとは sun fish、現在の一般的名称は「マンボウ」である。

東京日日新聞1872年3月22日付け

 その後もたびたび岸田から郵便が届いた。いつも興味深い話であり、読者の評判もいいので。日報社ではたびたび掲載した。

 岸田は美作国の出身、最初は郷里や江戸の塾で儒学を学んだ。やがて三河挙母ころも藩の儒官となった。しかし藩政に関する進言が受け入れられなかったため挙母藩を去った。その後はじつにさまざまな職業を転々とした。江戸では芸妓の箱持ち、湯屋の三助など何でもやった。

 一説には「気ままにくらす」という意味で「ままよのぎんじ」、あるいは「銀次」「銀治」と名乗り、人からは「ギンコウ」と呼ばれた。のちに「ギンコウ」に「吟香」の文字を当てたという。

 1863 年、眼病治療のため横浜の宣教師・医師ヘボン(J.C.ヘップバーン)の治療を受けた。その後、ヘボンが編纂中の辞書『和英語林集成』の仕事を助けた。これを上海で出版するさいも同行した。帰国後、1868 年にはオランダ系米国人ヴァン・リードと『横浜新報もしほ草』を発行した。同じ年、友人たちと横浜・江戸間に小型蒸気船を定時運航し、客に読ませるための『渡航新聞のりあひはなし』なども発行した。しかし、横浜・新橋間の鉄道工事(全線開通は 1872 年 10 月 14 日)が進んでいるのを見て、小型蒸気船の事業の客は減ると判断した。そのため早めに事業を止め「暇を持て余す」ようになった。関西方面へ旅行もした。日報社に郵便を送り続けたのはそんなときだった。どこでも目にしたことをすばやく自在に書いた。1873 年 9 月、日報社は岸田を主筆として迎えた。

台湾従軍お岸田吟香(東京日日韻文第736号1874年

 岸田は『東京日日新聞』に関係する以前にじつに多くの職業を経験し、多くの人々に会っていた。だれとでもすぐに「旧知の間柄」のように親しくできた。特異な才能の持ち主だったといえる。大きな体で視野の広い人物だった。

 1874 年 4 月、岸田は台湾出兵の従軍取材を提案し、自ら台湾に向かった。5 月 20 日台湾に上陸、原稿を送り続けた。戦況を伝えるというより、むしろ台湾の自然、人々の風俗、暮らしなどの報道に力を入れた。そして「この島に来てみれば、国の欲や人の欲ではなく、どうでもよいから、一島の開けるを待つ」と書いた。台湾出兵に関係する国(日本と清国)の欲の問題よりも、両国権力者など人の欲の問題よりも、「ともかくこの島全体が早く開けるようにと願う」というである。それが岸田の目がとらえた現実だった。

 岸田はつねに文章をわかりやすく読みやすくすることに努めた。基本的には文語調から日常的な言葉や表現をしだいに増やした。

 岸田の台湾関連記事の人気は高く部数も伸びた。岸田が主筆となったころの部数は 4500部ほどで、岸田の台湾関連記事掲載中は 14000 から-15000 部に達したという。

 

 ☆☆☆ここで岸田の声を聞こう。「いまはだれもが小さく縮んでしまったようだな、目先のことにとらわれたり、自分の立場にこだわり過ぎたり。新聞に関わる人はその逆でなくてはならん、世界中に仲間を増やし、なるべく先のことまで見すえるような、つまり時空をどっと広げなくちゃ、ままよ、おいらがここでいうまでもないか、気の利いた人はもうさっさとそうしているだろ。もう一つ、近ごろの新聞は暗いの、むやみに暗い、ネガティ
ブな話ばかりだ。そこからは何も生まれはしない。いっそ、新聞人はポジティブな話ばかりを探し、ポジティブな言葉ばかりで見出しをつくり、ポジティブ新聞つくればいいと、おいらは思う。そうすりゃ、いっぺんにドーンと
世の中、きっと変わる、ままよ、これもおいらがいうまでもない。すぐにも、そんな新聞が現れるさ」☆☆☆

 

 【独自の新天地を開く】もう一人甫喜山景雄も日報社のごく初期から関係があったらしい。甫喜山は忍おし藩(埼玉県行田市)の藩士の家に生まれ、神田明神の社家・甫喜山家の養子となった。幕府に仕えたことがあり、新政府にも短い間だが仕えた。

 『東京日日新聞』に加わる一方で「古書保存 我自刊我書屋」を興し、日本の古典の中で忘れられてしまいそうな書物を発掘して出版した。中世の『鴉鷺合戦物語』、江戸時代の風俗事典といえる『嬉遊笑覧』などである。古典の研究評論を集めて雑誌『典籍考叢』の台湾従軍の岸田吟香(東京日日新聞第736 号 1874 年発行も続けた。さらにニュースをたとえ話などでわかりやすく伝える雑誌『世 情よはなさけ日用草紙』、あるいは『コレラの用心』のような通俗的な医書、さらには『通俗支那事情』なども出版した。大変な蔵書家であり、読書家でもあった。

 甫喜山はまた幕末を代表する漢詩人・大沼枕山の門下で、幕末の激動期には師とともに沈鬱な詩をつくっていた。枕山は明治になってからも絶対にちょんまげを切らず、甫喜山も「むやみに西洋にあこがれるなよ」という立場をとった。

 日報社は『教林新報』という雑誌も刊行したが、この雑誌はすべて甫喜山が執筆したといわれる。第 3 号に「開化にあこがれた根岸村のねずみと開化の家元・横浜弁天通りのねずみ」の話が出ている。これも「むやみに開化にあこがれるなよ」という寓話であった。ヘボンとの関係で西洋への関心も深かった岸田と甫喜山とでは立場が正反対のようである。しかし、それぞれに独自の広い視野を持っていた。さらに「やさしい言葉で伝えよう」とする点、文章に日常語を入れようとする点では共通だった。

 新聞は次第に多様な分野の出来事を掲載するようになった。それは新聞に盛り込む天地を広げることだった。それを読む読者もそれぞれの天地を広げ、そこからまた新聞により広い天地を求めた。新聞としてはさらに広い視野の人物が必要だった。岸田、甫喜山はそのような時期の象徴だろう。異質ではあるが視野の広い人物が二人いて、日報社全体で見れば一段と天地が広がっていたことになる。
 なお甫喜山は、1877 年に『大阪日報』(『大阪毎日新聞』)に派遣された。これが大毎、東日の初期の人的交流といえる。

◇空前の言論弾圧

 【社説欄を常設して】 1874 年 10 月、福地桜痴が日報社に正式に入社して主筆となり、主筆だった岸田吟香は編集長となった。福地は岩倉使節団に加わって欧米をまわり、その後一行とは別コースでトルコを経て帰国、新政府の大蔵省に在籍していた。条野らとたびたび会い、役所を離れて新聞に専念しようと決めたのである。

 日報社は 1874 年 12 月、それまで 2 ページだった新聞を 4 ページに変更し、社説欄を常設した。社説欄に執筆したのは福地、岸田、甫喜山、そして若い末松謙澄(当時 19 歳)である。

 当時は民撰議院論争が盛んだった。「民撰議院(国会)を早くつくれ」という急進派に対して福地は漸進論を主張した。

 「この国では数百年の封建制が続き、各藩の政治も違い過ぎる。いきなり全国の大会議を開いてもうまくはいかない」

 「それよりまず各市、各郡で会議所を起こし、各市各郡の政治を論じ、そこから一人ないし数人の代表を各県の会議所に送る。その会議で決まったことは県法とする。また県会議所で選んだ人をもって民撰議院の議員とすればいい」

 福地の漸進論はこのようなもので、これが一日も早く民撰議院を開く現実的な方法としたのである。

 さらに福地は急進派の士族に対してこう批判した。

 「日本の士族は明治維新後、過去の栄誉・権利を奪われ、所得も減った。彼らにとっての民権論は自分が政府でいいポストに就くための口実に過ぎない」

 「まず(国の)大議院をつくれ」とする新聞との間で激しい論争が続いた。

 この時期に政府は本格的に言論弾圧に乗り出した。1875 年 6 月、新聞紙条例と讒謗律を発布した。これに対して郵便報知、東京曙、朝野などの著名記者および『東京日日』の岸田、福地が集まり、対策を協議した。どんな場合に法律に触れるのか、各社がそれぞれ具体的な質問を書き、それを岸田が編集して政府に提出した。二か月以上たって内務省から東京府経由で届いた解答は、ただ質問書を突き返してきただけだった。「いちいちこんな質
問には答えない」というのが政府の態度だった。新聞社側からすれば、取り締まり側の解釈で、何をされるかわからない法律だった。新聞社はこれにひるまず書き続けたため、空前の記者受難の時代となった。1875 年から 1880 年までの 6 年間に記者が禁獄や罰金に処せられた筆禍事件が 200 件に達した。

 

日報社初代社長福地源一郎

【1881(明治 14)年の政変】

1876 年、福地は社長となった。

 1881 年は政府の開拓使官有物払下げ事件で騒然とし、これを強く批判していた大隈重信と大隈系官僚が政府を去った(明治 14 年の政変)。政府は民心を安定させるため「1890年を期して国会開設、欽定憲法制定を進める」という方針を明らかにした。

 福地は同年 11 月、『東京日日新聞』の組織を改め、自身が持つ株を増やした。新聞の福地色を一段と強め、漸進論の自説を展開しやすくした。

 やがて大半の新聞が板垣退助の自由党系、大隈重信の立憲改進党系などに別れて、論争を繰り広げるようになった。福地は同志と 1882 年 3 月、立憲帝政党を結成した。「急進」は避け、政府側に立って「漸進」を進めようとする党である。当然、『東京日日新聞』を立憲帝政党の機関紙にする構想もあったのだろう。

 ところが翌 1883 年 9 月、突然、立憲帝政党を解散した。なぜか?

 このころから政府内には「超然主義」という考え方があった。それは議会が発足しても、内閣は政党の意思に制約されず、内閣独自の方針通りに行動すればいいという考え方である。それなら政府側に立って「急進派を抑えながら漸進しよう」とする福地の政党など、何の意味も持たないことになる。

 実際には 1889 年 2 月、大日本帝国憲法発布の翌日、第 2 代総理大臣・黒田清輝が鹿鳴館日報社初代社長福地源一郎での午餐会の席上、この超然主義で進むことを明らかにした。その後、大正デモクラシーの盛り上がる中で「時代遅れ」と否定されるまで、こんな「超然主義的内閣」がたびたび樹立された。

 福地はおそらく立憲帝政党について政府内の関係者と語るうち、まだ表面には出ていないが、政府内部に漂う「超然主義」指向に気付いた。これでは『東京日日新聞』を立憲帝政党の機関紙とする構想は断念するしかないと判断したのだろう。

 やがて政府は急進派のリーダーにポストを与え政府内に取り込む策を進め、急進勢力のひところの熱気は薄れるように見えた。
 各紙が政党機関紙となって互いに激しく争っている間に、販売部数を落とす新聞が多かった。「読者不在の争いをしている」と感じた読者はどんどん流出したのである。『東京日日新聞』も例外ではなかった。福地色を一段と強くした 1881 年ごろは 12000 部ほどだったが、これが急激に減った。福地は修復につとめたが、すぐに効果は表れなかった。1888 年、社長から退いた。

                                 (今吉 賢一郎)