先輩後輩
SALON

創刊150年記念寄稿 150周年以後への期待(上)(今吉 賢一郎)

2022.02.19

先輩後輩

◇内ゲバ日本

 毎日新聞は、『東京日日新聞』(東京での前身)創刊から 150 周年を迎える。ここで 150年の昔を振り返ったところで、そこには何の意味も無い。後ろ向きになった新聞は、その時点で新聞ではなくなるだろう。ただ創業時の人々の考え方や行動が、今日でもなお参考になるなら目を向ければいい。少し考えてみよう。
 まず今日の日本の現状を見よう。「内ゲバだらけの閉鎖集団」である。昨年、総選挙の折、多くの候補者が『皆様方お一人お一人に寄り添いまして』といって、「金をまけ」、「金をまけ」の大合唱をした。よその国でもコロナ蔓延の中で「金が必要だ」と声を上げた政治家が多い。しかし、「金を出せ」と「財源はどうするか?」という議論を同時に進める国があった。日本国ではさような議論はなく、当然のように、いつも通りに国債発行でまかなうことになった。
 これに対して財務次官が「このままでは国家財政は破綻する」と月刊誌に寄稿した。こんな当たり前のことを書くのに自身を「心あるモノいう犬」としていた。事務次官が犬か?官僚は時には「水先案内人」を務める立場ではないか。少なくとも犬ではあるまい。ところがこの論文に対してただちに政治家側から批判の声が上がった。
 かつて池田勇人が打ち上げた所得倍増論は大蔵官僚と政治家とが三年がかりで練り上げた政策だった。田中角栄の日本列島改造論は政治家と建設省などの官僚とで四年がかりで固めたものだった。官僚も政治家も日本の進路を決める立場の人たちである。今日の両者の関係は「内ゲバ」と呼ばざるを得ない。

 さらに国会中継を見ると「攻撃のための攻撃」「議論のための議論」が多過ぎる。こんなことを重ねるだけで、どんな未来が見えて来るのか。この状況は「政治家同士の内ゲバ」と呼ぶほかはない。
 さらに、この内ゲバ状況を一段と拡散させたのが新聞ではないか? 何か不祥事を発見すると攻撃を続けた。当該組織の責任者である数人の男たち(近ごろは女も)が記者会見に現れて「申し訳ありませんでした」と頭を下げるまで、「まだミソギがすんでないぞ」などといったものだ。頭を下げればそれを写真撮影し、ご丁寧にも「何秒間頭を下げた」と伝える新聞まであった。かような新聞は「内ゲバ儀式の祭主」と呼ぶしかない。
 今日の日本は、救いようのない「内ゲバだらけの閉鎖集団」である。だれかがどこかに穴を開けて、未来が見えるようにしなくてはならない。
 それを誰がやるのか?

 かりにいま『東京日日新聞』創業時の人々が、こんな社会と新聞の状況を見たら、何というだろうか、そんなことも想像してみたい。

 

◇創業者たちが見た未来

 【250 円ずつ持ち寄って】『東京日日新聞』第 1 号(1872 年 2 月 21 日)の発行に直接かかわったのは戯作者・条野伝平、浮世絵師・落合芳幾、俳人・西田伝助。

左から条野伝平 41 歳 、落合芳幾 40 歳、 西田伝助 35 歳 、広岡幸助 44 歳

 少し遅れて地本問屋・広岡幸助が加わった。第 1 号の紙面中央には『塩湖之略図』として、アメリカ・ユタ州のソルトレイクシティの風画が掲載されている。そばに「朋友から送られてきた書簡のあらまし」という記事がある。
 この「朋友」とは福地源一郎(桜痴)のことで、風景画は福地が送って来たものだろう。福地は岩倉使節団に一等書記官として加わり、前年の 1871 年 12 月にソルトレイクシティに着いていた。それにしても創刊号のど真ん中に、当時の日本人には関係のない外国都市の絵を載せるとは奇妙ではないか? この絵にどんな意味があるのか?

 条野らは元幕臣で新政府に出仕している福地や福地の友人・杉浦譲と知り合いだった。福地との関係は? すでに 4 年前の 1868 年閏 4 月、福地(当時幕臣)が『江湖新聞』を創刊したとき、これに協力したのである。しかし、『江湖新聞』は新政府から「空説や虚聞を流した」として弾圧され福地は投獄された。明治時代最初の言論弾圧といれる事件だが、しばらくして釈放された。

 杉浦のほうは新政府の前島密のもとで郵便制度創設の準備を進めていた。郵便制度開始の 1871 年 3 月 1 日は渡英中の前島に代わり、杉浦(のちに駅逓正)がその責任者だった。杉浦にとっては極めて多忙な時期だが、福地の留守中、条野らが何かと相談したのが杉浦だった。

 福地や杉浦がよく条野と接したのは、それぞれ幕臣時代に渡欧した際、パリやロンドンで新聞を知り、新聞に関する知識をたっぷり仕入れて帰国したためだった。

 幕末から明治にかけて多くの新聞が創刊され、たちまち消えた。創刊号だけで終わったものも多い。条野らは福地や杉浦からたびたび新聞の話を聞き、新時代に絶対に必要なものだと確信していた。そこで創刊するだけでなく、永続させることも十分に考えた。

 条野らは一人 250 円(当時、銀座の土地 50 坪分?)ずつ持ち寄って「日報社」という組織をつくり新聞刊行を始めたのである。そんな経緯を考えると創刊号中央の「塩湖之略図」には次のようなメッセージを込めたと想像できる。

 「われわれは岩倉使節団の行く手にこそ、未来が開けるものと信じる」
 「その新時代には新聞が必要だと確信します」
 「われわれは新聞を発行し続けます」

 【最新の印刷技術を目指す】条野、芳幾、西田、広岡は、明治維新前には「三題話の会」「興画会」などの集まりの常連だった、江戸市中では「通人」と呼ばれた。いつも八十人くらいが集まった。例えば「興画会」なら画題を決めて、各自がそれを粋な絵で表現した。絵は自分で描いてもいいが、芳幾にアイデアを伝えて描いてもらってもよかった。会合の当日は、みんなでそれぞれの絵を「採点」し、一番粋な絵を選んだ。「新奇」なアイデアの
絵が高得点を得た。会合の費用一切を提供したのは銀座役人年寄(筆頭者)の辻伝右衛門だった。

 辻伝右衛門は条野らの新聞発行計画を聞いてはいたが、直接に手は出さなかった。条野らの持ち寄った金はたちまち尽きた。それを知った辻伝右衛門は初めて協力する意思を示し、最先端の印刷機を買い入れた。また活字は伝右衛門の子・安次郎が中心になり、『和玉篇わ ご く へ ん』に当たって一字ごとに好ましい書体を決めて木に彫った。結局 10 万個の木製活字を作った。当時、最先端の印刷技術を目指したといえる。初期の日報社は、本拠を辻家に移し、そこで印刷をした時期があった。

 

 ☆☆☆【新聞の力を信じろ】条野、落合、西田、広岡の四人は現在の「内ゲバ閉鎖集団」と新聞を見たら何というだろうか?「閉鎖集団に穴を開けるのは誰か? それこそ新聞の仕事ではないか」。「新聞は『魁』だ。真っ先に好ましい未来を提示するのが仕事だ。それをしないで批判だけしているようじゃ、新聞ではない」「近ごろ『新聞はもう終わりだ』なんぞという人がいるそうな。そりゃ間違いだ、世の中を変える力があります。創刊号は1千枚くらい売れましたかな。いまの部数は存じませぬが、何百倍もありましょう、それで世の中を変えられぬはずがない」、「前を向け。未来を見よ。そして新聞の力を信じろ、信じたら紙面を大切にせよ」、「まことにその通り、ネチネチ、ウジウジ、メソメソ、グチグチ、そんな記事、価値ありませんなあ」「どうして本日の紙面に載せるのか、それがわからんような、かったるく、水っぽいのもいけませぬ」☆☆☆

(以下の文中でも随時、☆☆☆印の後に、創業時の人々の声を入れる。もちろん筆者の創作だが、なるべく資料に当たり、いかにもその人のいいそうなことを記す。ただ資料の乏しい人もいるから、筆者の想像のみで作った声もある)

 

 【経済の激動を見よ】創業者は前述の条野、落合、西田、広岡とする「四人説」が定説である。しかし、「六人説」もある。1987 年、筆者は草創期の人々について毎日新聞に連載したとき、麻生和子氏(1915~1996、吉田茂元首相の娘、麻生太郎元首相の母)からこんな話を聞いた。

 「私の家には『毎日新聞は 6 人で始めた』と伝えられていました。『6 人のうちの 1 人は吉田健三(戦後の総理大臣・吉田茂の養父)だった』と」

 吉田健三は 1866 年、英国の軍艦に水夫として乗り組んだ。鎖国時代だから場合によっては死罪にもなるような乱暴な行動である。なぜそんなことをしたのか、なぜそんなことが出来たのか、本人は一切語らなかった。中国、南洋諸島、英国を巡って 1868 年に帰国、東京で英語塾を開いた。やがてジャーデン・マセソン商会マネジャーとなり、横浜英一番館の事務所に勤めた。

 この吉田健三が『東京日日新聞』に早い時期からかかわったらしい。福地桜痴は幕臣を辞め新政府に出仕するまでの間、東京で語学塾を開いたが、吉田が塾を開いた時期とほぼ一致する。このへんに接点があったのか?

 『東京日日新聞』第 19 号に「わが社を補助する人の正しく英人より聞きたる話」として次のような記事が掲載されている。「英国ロンドンの大商人が巨万の富を遺した。亡くなる際に病院、孤児院建設、縁者への配分を決めた。人々がなぜかほどの富を得たか尋ねると、大商人は『特別のことではない。外国の新聞紙に載る相場を毎朝食事の時に見た。食後、相場に従って売買に走った。自分の富はすべて新聞紙のおかげだった』と語った」

 当時、日報社の関係者で「英人より聞きたる話」を届けられるのは吉田健三しか考えられない。『東京日日新聞』創刊第 2 号から掲載されるようになった米・大豆・小豆・塩・油などの「物価日表」も吉田の提案に基づくと見るのが自然だろう。

 ジャーデン・マセソン商会は世界的に事業を展開していた企業で、横浜では生糸の仕入れをしていた。吉田はマネジャーとして多忙だったから、それほど頻繁に日報社に来られなかった。しかし、情報を郵便で送って来たのだろう、『東京日日新聞』にはその後もたびたび海外情報が掲載された。

 吉田は横浜で回船問屋、醤油醸造などの事業を展開、さらに土地開発も手がけた。一方で 1882 年 9 月、『絵入自由新聞』を創刊した。1884 年、友人、田中平八が亡くなると一面トップで田中平八のことを連載した。田中平八は横浜で生糸取引、洋銀相場などで莫大な富を築いた特異な人物だった。

 吉田も積極的な事業展開の結果、大変な財産を遺した。それを養子の吉田茂が戦後の政治活動につぎ込んだといわれる。

 吉田の影響もあって『東京日日新聞』は経済分野の記事もよく載せた。1876 年 11 月には三井物産と提携して『中外物価新報』(『日本経済新聞』の前身、最初は毎土曜日発行)を創刊した。

 

 ☆☆☆ここでまた当人の話を聞こう。「経済は日夜、激動しているのだ。君等にはそれが見えないのか」「いまだに『投機』を『危ないこと』と嫌う人がいるが、それは間違いだ。経済の世界ではいつ何が起こるかわからんから、世界中の新聞を見て己の知識を豊かにした上で、果敢に行動を起こすのが一番いい。それが投機である。『投機は知識の錬磨所である』ともいえる」「巨利を得たら、それを世の中のために役立てる。田中平八君の場合は、横浜・新橋間の鉄道建設の際、横浜側の人間として大変な協力をしたではないか」「いま日本は閉鎖集団かい? それを打ち破るものは何か? 新聞に決まっている。……いや、待てよ。経済界は日夜激動しているから、まずはその激動の中にこそ、閉鎖状態を打ち破る動きが出るはずだ。それをただちに伝える新聞こそがいい新聞だ」「だから毎日しっかり世界の経済状況を伝える新聞がいい。『絵入自由新聞』は、自由党の政治新聞だが、経済記事を必ず掲載していたぞ」☆☆☆

                    ◇

 今吉賢一郎さん(84 歳)は、1961 年東大文学部卒、毎日新聞社入社。社会部で警視庁捜査二課を担当。サンデー毎日編集部、毎日グラフ編集長、サンデー毎日編集長を歴任。著書に『毎日新聞の源流―江戸から明治 情報革命を読む』(1988 年毎日新聞社刊)。創刊4万号(1987(昭和 62)年8月 30 日)に合わせ毎日新聞連載の「人脈―四万号 新聞事始め」をまとめた。

                                  (今吉 賢一郎)