先輩後輩
SALON

神奈川で国際化事業団体のボランティア(塩原 俊)

2022.01.12

先輩後輩

 大阪本社整理部(現・編集制作センター)記者だった時、仕事中はおろか夜勤明けには必ず「お待たせ」コールがかかる。疲れ直しするべく、堂島旧社屋の目と鼻の先の通称ぼんぼりハウスで、あれこれ語った多飯の恩義がある梶川伸デスク(当時の肩書)から原稿依頼が舞い込んだ。無論「喜んで」。今こそ長年のご恩返しをせん。

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 記者として一人の人間として人生最大の転機は1995年1月17日早朝に発生した阪神大震災だ。編集局のある西梅田(堂島から1991年に引っ越した)大阪本社から深夜タクシーで帰って寝入って1時間半過ぎた頃、夢かと思いきや現(うつつ)だ。波がうねる海に浮かぶ釣り船の乗客が感じるような、とてつもない揺れで目が覚めた。本棚から落っこちた書籍に埋もれて、十数分身動きがとれなかった。幸い「好きな本に包まれて圧死」にはならずに済んだ。間一髪「紙一重」だった。

 

神戸市の長田区から須磨区にまたがる、被害の大きかったケミカル工場地帯に隣接していたがために全焼した鷹取教会が復興の砦となり、カトリック信者の多いベトナム人や韓国人の物心両面に亘る支えになった。都市直下型地震に対する無防備、とりわけ外国人の存在を真面目に捉えていなかった行政もメディアも大いに反省し、尊い命が奪われた痛恨の思いをバネに、生き残った私たちが都市防災を根底から組み立て直すきっかけとなった。大阪本社と私の住んでいた神戸市垂水区の途中にある鷹取教会を何度か訪れた。外国人体験をしてみようとタイへ渡ったのは震災に縁起がある。

 1998年からタイの国立大学などで日本語講師を務めた。民主国家ならどこでもそうだろうが、高等教育機関である大学で学問を教えるのに教員免許は要らない。タイでも学問研究の自由がまがりなりにもあるから、能力さえ実証できれば教授ビザも労働許可証も発給されるのだ。

 勤務地の一つアユタヤでの授業は、政府開発援助(ODA)に基づき公用旅券を所持する、とある政府機関から派遣された専門家は週12時間が上限なら、私は青天井で30時間を超えるのはザラだった。県庁からタイの一村一品運動披露パーティーで日本語パンフレットが今晩要るので急遽翻訳依頼がその朝に舞い込むなどの無茶ぶりにも、上意下達のタイ社会の末端を支えている「雇われ外国人」日本語講師だから、どんな依頼にも「喜んで!」。かつての職場である横浜市役所や毎日新聞社で過労死ライン突破は覚悟の上だったが、まさかマイペンライ(播州言葉で「べっちょない」)、サバイサバイー(気持ちいい)の国で働いた経験が熱帯という環境を加味すると、半生で一番きつい現場だった。

P説=Muban Combung Rajabhat 大学で昼の校内放送を使い、学生や教職員だけでなく音が届く近所の村人にも日本語の手ほどきをしている อาจารย์ Shun Shiobara ㊥。㊨は教え子でタイ語で説明する นางสาว Sansanee Bo。㊧は同僚の英語講師 Mr. Bradley、日本のJETプログラム(外国語青年招致事業)で3年間和歌山県にある中学校に赴任した経歴を持つ。米国オハイオ大で日本語を専攻した練達の教師。標準語はおろか和歌山方言もべらべら言語感覚に優れているので、私の会話の相手を務めてもらった。

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 神奈川県内における国際化事業団体のボランティアを、2017年から務めている。その一つ、コロナ禍に抗して日本語教育をかなりうまく実現できている「公益財団法人大和市国際化協会」で、タイ語通訳のほか、日本語教授歴を生かし週1回90分の頻度で、日本滞在歴10年を超える中国湖南省出身を相手に、日本語能力試験N3を目指して1年半近くレッスンを行っている。

 当初は協会事務所に出向いての対面授業だったが、新型コロナウイルス感染拡大に伴い、リモート授業に移行した。双方とも夜間の時間帯が有効活用できるし、教材は添付ファイルで送れるのでほとんど痛痒(つうよう)を感じない。対面ならではの五感を駆使した活動には及ばないが、活字も音声も利用できるし、スマホ持たない私だって慣れればなんてことない。

 学ぶ喜びは学習者だけのものじゃない、日本語の言い回しを理解してもらおうと、より分かりやすい教え方を求めてもがき苦しむ過程で、実は教えているつもりの先生役が新たに発見することがちょいちょいある。だから地域の日本語教育を担う人は誰もそう思っているだろうが、身銭を切って奉仕するのは時に辛くもあるが、少しでも外国人の日本語学習者が満足してくれたらそれだけで嬉しい。教師冥利(みょうり)に尽きる。

P説=2017年11月にさがみはら国際交流ラウンジで開いたカンボジア支援団体座談会。NPO法人「愛の素(もと)」代表で、現地のCPCSO(カンボジアの貧しい子どもたちを支援する会と連携して孤児院を支援している北原啓子さん<写真㊧端から2人目>∇カンボジアの今を伝える、日本語無料情報紙として最も歴史と定評のある「NyoNyum」(2003年創刊。クメール語で笑顔、微笑みを意味する。14年にはクメール語版も創刊)https://www.facebook.com/cambodianyonyum/ を発行するなど幅広く両国の架け橋事業を展開している「カンボジア情報サービス」日本事務所の宮川江里さん<写真㊧端から3人目>∇社会福祉法人県央福祉会の非常勤職員で、神奈川県央で社会的養護支援を行う任意団体「もざいくハウス」の代表林文子さん<写真(㊧端)、2020年逝去>▽㊨端で座談を記録している塩原俊(しおばら・しゅん)— กับ Keiko Kitahara และ Shiobara Shun ที่ さがみはら国際交流ラウンジ

 コロナ禍によって最も深刻な経済的打撃を受け困っている外国人に対し、いろいろな制約はあるけれどもなんとか工夫して必要な支援が実現できなければならない。「開いててよかった」精神のコンビニが社会インフラとして完全に定着した。しかも都心部では外国人のアルバイトが主力になり、皆がお世話になっている。ボランティアは常に「喜んで」「お待たせ」の気持ちで、今日も張り切っていこう。

                 (元整理部・鳥取支局、塩原 俊)

<略歴> 公益財団法人大和市国際化協会登録ボランティア

 1962年生まれ。神奈川県立横浜翠嵐高等学校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒。東京外国語大学インドシナ語科タイ語専攻中退。1985年横浜市役所入庁。1987年毎日新聞社入社。大阪本社神戸支局、豊岡支局、校閲部、整理部、鳥取支局で勤務。1997年渡タイ。ムーバーンチョンブンおよびアユタヤのラチャパット大学、ワライラック大学などで日本語講師を務める。2005年帰国後、日本農業新聞などのメディアで紙面編集に携わる。泰日経済技術振興協会「日タイ口語辞典」ISBN974-8326-19-5の日本語校閲を担当する。

P説=2019年3月に開かれた「継承語日本語教育を考えるセミナー」に参加(写真㊧上)。
主催はタイにおける母語・継承語としての日本語教育研究会- Japanese Mother tongue and Heritage language Education and Research Association of Thailand (JMHERAT) https://jmherat2006.wixsite.com/jmherat/about
Community of Japanese Language Teacher, Southern Thailand 南部タイ日本語教師会のセミナーの後、船に乗って潮風に吹かれる หลังจากการสัมมนาผู้เข้าร่วมจะลงเรือและถูกลมทะเลพัด
ワライラック大看護学部の学生に日本語を教える