先輩後輩
SALON

「思い出の京都支局」を、元支局長、磯貝喜兵衛さんが綴る=東京毎友会のHPから

2021.09.25

先輩後輩

 

和2年24日「大阪毎日新聞社報」

先日、東京本社社長室の鈴木泰広氏から、旧京都支局(中京区三条御幸町)について、問い合わ せがあり、貴重な写真や資料を参考に送ってもらいました。昭和3(1928)年に新築落成した京都支局(地上3階、地下1階)は、今もアールデコ風の「1928ビル」(京都市登録有形文化財)として市民に親しまれています。創建当時は京大教授、武田五一博士の設計で、平屋・木造の多い京都の都心に威容を誇り、1999年に京都御所近くの新支局に移るまでは、我が国最古の新聞社支局として、長い歴史を刻んできました。

 初代支局長は当時、京都の有名人でもあった岩井武俊氏(大阪毎日新聞取締役)。戦後15人目の支局長として私が在任したのは1979年秋から2年間でした。1階は玄関、車庫、事務室、2階は編集室、3階講堂、屋上には創建当時、市民に天気予報を伝えた測候所跡まで残っていました。

京都支局2015年撮影

 昭和3年は昭和天皇の即位の礼が行われた記念の年で、(添付の)新聞、社内報に残っている通り、盛大な披露の催しがあったようです。今も音楽や芝居のホールとして利用されている3階講堂にはグランドピアノがあり、私がいたころは市民コーラスの練習や講演にも利用されていました。地下には古都らしく、井戸水を汲み上げ利用していたポンプ室や、琺瑯びきの浴槽を備えた風呂場、食堂などがありました。

 五山の送り火の夜は、近所の方たちに屋上を解放し、ご馳走までふるまったというので、私も一度、復活したことがありました。仕事の方は、朝日新聞に百人一首の選者、藤原定家の「時雨亭文庫」関連の特ダネを抜かれた仕返しに、十年間続いた「東本願寺紛争・解決へ」の特報をはじめ、編集局長賞受賞7本を支局員が連発してくれた思い出も忘れられません。

 数代前の支局長が改装したという屋上・測候所跡の宿泊所で、ウイークデーは私も2年間起居しました。朝早くに御所方面から来るのか、鶯の鳴き声がしたり、托鉢に町を回る雲水の読経の声が聞こえたり、古都ならではの風情も残っていました。屋上の一角には、作家、水上勉が寄贈してくれたという桜の苗木の箱植えもありましたが、近所の火事の火の粉が飛んできて焼けてしまったと聞きました。

窓から顔を出す磯貝さん

 三条通りは、昔は京のメイン・ストリートで、日銀支店や呉服、香料、扇子などの老舗、料理屋などが並んでいました。今も祇園、錦市場などと並ぶ、京の古い顔であることには変わりありません。コロナが収まって、京都旅行の折には、ぜひ「1928ビル」をお訪ね下さい。

          (磯貝 喜兵衛)                    

※磯貝さんは元毎日映画社代表取締役社長、元毎日新聞社編集局次長。92歳で、隅田川河口の中央区湊1丁目に住み、出身の慶応大学三田キャンパスや隅田川沿いにある勝海舟像を訪ねたり、永井荷風「断腸亭日乗」を読み返すなど元気です。磯貝さんが京都支局長だった当時、支局次長だった木戸湊さんは季刊同人誌「人生八聲」13巻(2018年1月、新年号)で当時を振り返って以下の文(抜粋)を寄せています。併せて紹介します。

 

《修羅場の京都  木戸  湊》

 犯罪史上最も凶悪とされた梅川昭美の三菱銀行北畠支店襲撃事件の取材で毎日新聞の圧勝後間もなく、私は大阪府警キャップから京都支局次長に異動――その初日に、朝日新聞に京都・冷泉家秘蔵文書の全容を大スクープされるハメになった。

 その日の夕刻、私は緊急支局会を開き「夜討ち朝駆けを重ねて特ダネを書け!一か月、特ダネのない記者は内勤にするよ」とハッパをかけた。宿直メンバーたちのチェックもあって、週三回は支局で泊まることにした。

 そんな出だしの苦いつまづきを忘れさせてくれたのが、学術・文化担当の斎藤清明記者(「人生八聲」同人)だった。「次長、必ず朝日の冷泉家をしのぐスクープを書きますから!」と宣言した。約一年後、斎藤記者は後小松天皇直筆の「伊勢物語」や雪舟の掛け軸「釈迦絵」など国宝、重文級六〇点を含む京都・曼殊院の超秘蔵品を、ばっちり撮った写真とともに出稿―朝刊一、二面や社会面トップを飾る大スクープとなった。

 斎藤記者の曼殊院取材は、朝日の冷泉家スクープの直後から始まっていた。「京大文学部の某研究室をマークしてみたら」とある人からヒントを与えられたが、学者たちはひたすら沈黙。かえって〝獲物〟の大きさを感じた斎藤君は、年二回だけの秘蔵品蔵出しをじっと待って〝大魚〟を突き止め、見事に捕まえた。

 斎藤君はこのほか、フィンランド国立研究所が研究用に無料で日本に提供してくれた「ガンの夢の新薬」といわれたインターフェロン(IF)を患者七人に投与して、約三千万円を荒稼ぎしていた兵庫県宝塚市の民間病院を突き止めて大スクープ。

 「フィンランドに了解を取ってある」とシラを切る病院長に怒り心頭の斎藤君は「元特派員だから英語ができるはず。フィンランドの研究所に確認して!」と私に催促する。

 慣れない医学用語に大汗をかきながら、カンテル同研究所長と国際電話で一五分――。

 カンテル氏は「IFは無料投与で臨床例を集めるのが目的で日本にも送った。高額の報酬を受け取るなんて言語道断!臨床報告も全く届いていない」とカンカン。厚生省からも厳重注意された民間病院はノックダウン……閑古鳥が鳴いたといわれる。

◇     ◇     ◇

 真宗大谷派(東本願寺)は宗祖・親鸞の末裔の「大谷家」(同寺住職)と末寺グループで組織された「内局」が、教団運営をめぐって長らく対立していた。私の京都時代は、まさにこの対立が燃え上がる寸前だった。大谷家は国の名勝「枳殻(きこく)邸」を借金の担保に売り払おうとし、内局側は大谷家を背任罪で京都府警に告訴していた。

 宗祖以来八百年、門信徒数七百万のマンモス教団。しかも法主(大谷光暢師)の智子裏方(妻)は昭和皇后の妹だった。京都宗教記者会メンバーだった田原由紀雄記者は法主、内局双方にシンパを作って特ダネを連発、検察担当の村山治記者(後に朝日新聞に)と組んで、近づく枳殻邸捜査に備えていた。

 捜査のポイントは天皇の親戚の法主一族を起訴できるのか?事件の成り行きを聴き、天皇は激しく身震いされたという。間もなく〝天皇の勅使〟として秘かに京都へ現れたのが、元名古屋高裁長官のN弁護士だった。宿泊ホテルさえ極秘だったN弁護士が宗祖の大谷家に入って行ったのを見事に見届けたのが新人のW記者。二日前からN弁護士の顔写真を手元に車の中でひたすら張り番をしていたのだ。

 次にN弁護士は内局との会合へ――村山記者が忍び込み、無断で内局奥の間の襖を開けると、N弁護士と内局トップの宗務総長が密談中だった。「毎日です」とカメラを構えたら、宗務総長は「後で全てを話すから、待って」と懇願。

 後は田原、村山両記者による特ダネ・ラッシュ。「法主―内局が和解」「内局、告訴取り下げ」「京都地検、事件を不起訴に」……。

 天皇の意志で三〇年間の紛争に一応のピリオドが打たれた東本願寺事件だったが、深夜の支局でその第一報を書こうとした村山記者は興奮で手が震えて字が書けない。「力を抜いて」と田原記者に肩を叩かれ、私は大きな湯呑に日本酒を注いで、ぐいと飲ませた。

◇     ◇     ◇

 私の京都支局在任はわずか一年一〇か月だったが、この間、支局員らが勝ち取ったのは、社内最高の賞「編集局長賞」が六本。同賞に準ずる「編集局長之賞」が五本、通常一年一本で大騒ぎだった当時としては前代未聞の快挙―支局員の団結と親和が目に見えて高まった。

 これまで数々の記者体験や思い出を書いてきたが、京都時代は余りに忙しすぎて、スクラップの類はゼロ。支局ОB会の度に、「あの修羅場を是非書いてよ」とせがまれ、数人の仲間から当時のスクラップや本も送られてきた。

 懐かしい戦友たちよ、ありがとう!

                                2021年9月22日

=東京毎友会のホームページから2021年9月24日

(トップページ→随筆集)

 

https://www.maiyukai.com/essay#20210924