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「社会部」が大阪で生まれて120年=東京毎友会のHPから

2021.02.25

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 「大阪毎日新聞」(大毎、現毎日新聞)に1901(明治34)年2月25日、社会部が誕生した。20世紀最初の年である。ことし創部120年となる。

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菊池幽芳(「毎日」の3世紀から)

「はじめて社会部の名称をウッ建てたのは、東西を通じてわが社が真っ先であった」

 これは東京社会部の初代部長となった松内則信(冷洋)が「大毎50年」の本紙連載(1932年3月)に書いている。松内は社会部発足の前年、1900(明治33)年入社。東京の「萬朝報」からで、それまで東京・大阪の新聞社に「社会部」はなかったというのだ。

 日本の新聞学の開拓者で、東大新聞研究所の初代所長・小野秀雄は、松内社会部長から誘われて「東京日日新聞」社会部員となる。

 「東日」がもっぱら名論卓説をぶちあげる「木鐸記者」であったのに、事件があればとにかく現場に駆けつける「大毎」社会部記者。《「頭の記者よりも足の記者が尊い」といわれたのは、この時からである》(小野秀雄著『新聞五十年』)。

 欧米の新聞社に「社会部」はない。日本独自のネーミングだが、《「社会部」が素直に定着していったところに、その後の日本の新聞を性格づける基礎があったといえるのではないだろうか。それは同時に反骨とか、野党的とか、反体制とかの精神が新聞活動の真骨頂であると認められることとも通じると思う》と、16代大毎社会部長、のちの編集主幹斎藤栄一が記している(『社会部記者 大毎社会部70年史』)。

 「問題意識の視点から取組む」社会部の誕生は、近代ジャーナリズムの幕開けとなったのである。

 「大毎」が追いつけ追い越せとライバル視していた「大阪朝日新聞」(大朝)が編集局に「社会係」を置くのが1904(明治37)年12月、と朝日新聞社史にある。東京の朝日新聞に「社会部長渋川柳次郎(玄耳)」が生まれるのが1910(明治43)年4月である。

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 以下に現在までの大阪と東京の社会部長一覧を掲載する。

 初代部長・菊池清30歳。文芸部主任からで、幽芳のペンネームで「己が罪」「乳姉妹」を連載。「家庭小説」の分野を開いた。「小説だけでなく、書も、歌も、菊づくりまで楽しむ趣味人だった」と部長紹介にある。

 第2代角田勤一郎・浩々歌客は、慶應義塾創立50年(1907年)に先立ち、1904(明治37)年3月に制定した旧塾歌の作詞者。

 第3代福良虎雄・竹亭は、東西の社会部長を務めている。他には第10代平川清風、第20代稲野治兵衛、第22代ヒゲの畑山博の計4人。

 第6代奥村信太郎・不染と、東京の初代松内則信・冷洋は、日露戦争で従軍記者として活躍。2人は1905(明治38)年と翌06(明治39)年の2回、鉄道早回り競争の選手として最初は10日間でどれだけ乗れるか、翌年は5000マイルを何日で踏破できるか競った。

 鉄道が国有化される時期で、連日紙面で大々的に扱った。2人ともスター記者だった。

 奥村は1920(大正9)年の大毎野球団結成にもかかわり、25(大正14)年のアメリカ遠征では総監督として、ホワイトハウスでカルビン・クーリッジ第30代大統領と面会している。遠征メンバーに野球殿堂入りが3人いた。キャプテン腰本寿、投手の小野三千麿、遊撃手の桐原真二である。

 奥村はのちに社長となるが、戦後パージを受け、表舞台から消えた。

 第9代阿部真之助。のちにNHKの会長になるが、社史『「毎日」の3世紀』には《反骨のペン貫いた》と、その業績に4㌻も割いている。

 東京の学芸部長時代、菊池寛、久米正雄、横光利一、吉屋信子、大宅壮一、高田保、木村毅らを社友・顧問として迎え、学芸面の充実を図った。

 一覧表の阿部真之助の右側、東京社会部第4代島崎新太郎は、都市対抗野球大会をつくった。1925(大正14)年夏、明治神宮外苑に4万人が入る野球場を新設するので寄付の要請があった。「最高峰を行く野球大会を」と、当時の運動課長弓館小鰐(第1回早慶戦のときの早大マネジャー)と相談。大阪朝日新聞から大正日日新聞に移っていた橋戸頑鉄(第1回早慶戦のときの早大キャプテン)をスカウト、1927(昭和2)年に第1回大会を開いた。

 第11代徳光伊助・衣城は、大阪北浜の料亭「花外楼」のボンボン。城戸元亮編集主幹にスカウトされ、聯合通信社(現在の共同通信)からいきなり社会部長となった。読売新聞社会部から「文章のうまい遊軍記者」としてスカウトしたのが、のちの読売新聞1面「編集手帳」の高木健夫だ。

 「読者の目を射すような社会面づくりだった」と紹介されている。

 高木は、徳光の俳句を紹介している。
   外套を肩に新聞記者帰る
 格好いいね、決まってる。

 32(昭和7)年12月本山彦一社長が逝去、会長となった城戸が翌33(昭和8)年10月に会長職を追われるお家騒動があり、徳光とともに「聯合艦隊」と呼ばれた記者47人が一斉に辞めてしまった。高木も一緒だった。

 第13代本田親男は、城戸時代に長崎通信部に飛ばされた。1930年の大風水害の原稿をローマ字で海底電信に載せ、長崎―上海―マニラ―小笠原―東京と渡って、惨状を伝えた。

 49歳で社長となったが、「本田天皇」と呼ばれ、社長時代の評判は必ずしもよくない。

 第14代の大阪小林信司と東京村田忠一の在任中の1943(昭和18)年1月1日、題字を「毎日新聞」に一本化した。

 大阪の第15代浅井良任と東京の第17代森正蔵から戦後だ。

 森は45(昭和20)年12月に『旋風二十年』を刊行する。戦時中の昭和裏面史を嶌信正ら7人の記者が書いたもので、発売と同時に売り切れが続出、大ベストセラーとなった。

 東京第25代三原信一。51歳での部長就任だった。《まず断行したのは「新旧交代」「信賞必罰」を旗印にした大幅な人事異動だった》《3年間で53人を入れ替え、54人目に三原さんが去ったときの社会部の平均年齢は32.1歳》。

 1957年3月第5回菊池寛賞。社会面キャンペーン「白い手・黄色い手」「官僚にっぽん」。
     10月第1回日本新聞協会賞。社会面キャンペーン「暴力新地図」「官僚にっぽん」「税金にっぽん」。

 「50歳を超えて社会部長になったのは、三原さんに続いて2人目」と東京第34代牧内節男(95歳)。毎日新聞社会部編『毎日新聞ロッキード取材全行動』(講談社1977年刊)がすべてを物語っている。

 東京第44代朝比奈豊。2008年社長、11年グループホールディングス社長。2020年にGH会長を退任するまで長期政権だった。

 最後に2017年4月に女性として初の社会部長となった磯崎由美。ことしの日本新聞協会賞「にほんでいきる」外国籍の子どもたちの学ぶ権利を問うキャンペーン報道。社会部長の時からキャンペーン報道に噛み、編集局次長として毎日新聞の編集部門受賞、32回目を達成した。=敬称略

                                 (堤 哲)

=東京毎友会のホームページから2021年2月22日

(東京毎友会トップページ→随筆集)

https://www.maiyukai.com/essay#20210222