2020.12.01
先輩後輩
2年半前の2018年3月に、大阪本社編集局編集委員を最後に毎日新聞社を選択定年で退職し、1年5カ月前から介護大手が運営する東京多摩地区の有料老人ホームで介護職員として働いています。この11月に介護職員の現場リーダーとしての資格である実務者研修を修了し、当面は現場での実務経験が3年必要な国家資格である介護福祉士の取得を目指しています。
まずは初任地の八王子支局で支局長だった高尾義彦さんの勧めでこの欄に寄稿させていただくことに、感謝いたしております。
40歳の頃始めたランニングが縁で、毎日を辞めて最初に転職したのはランニング大会の運営や雑誌を発行するイベント会社でした。しかし、当初約束された編集職のポジションに就くことはなく、広告営業や大会運営など想定していなかった業務を担うことになりました。経営陣に対する不信もあり1年2ヶ月で退職し、いちから仕事を探すことになりました。
知人を頼り新聞記者として勤務した大阪や札幌への移住も検討しましたが、世田谷区の自宅近くで既に保育士として働いていた妻に、にべもなく却下され、都内での就職に方針転換して複数の就職サイトに登録して情報収集しました。当初はライターの仕事も探しましたが、50代半ばを過ぎ、資格も持たない身には、さしたる誘いもありません。「キャリアを生かせないばかりか、社会の何の役にも立たないのか」と悲観し始めた頃、たまたまインターネットで見た「介護職員初任者研修を無料で受講 さらに就職先を斡旋」との広告が目に止まりました。初任者研修とは介護職員の入口にあたる未経験者向けの15日間のスクーリングで、介護全般の座学と実務の基礎を学びます。
自宅近くで働けるから通勤のストレスから解放される、健康維持のため身体を動かして働ける、この歳からでもキャリアアップが目指せる、ことが決断の後押しになりました。後期高齢者が急増し、介護職員が38万人不足すると言われる2025年問題も頭の片隅にありました。幸いまだ身体が動かせるうちの仕事としては相応しい業界のようにも感じました。
ただし現場はそう甘くはありません。言うまでもなく、「きつい」「汚い」「危険」の3K職場の典型です。例えば介護の具体的な手順は個々の利用者向けに共有されてはいますが、せっかく手順を覚えても、スタッフ個々の考え方はさまざまで、ベテランのおばちゃんパートにダメ出しを食らうこともしばしばでした。
加えて現在務める事業所は平均の要介護度が3の半ばで高く、ほとんどの方が程度の違いはあれ認知症を患っています。認知症の方々の生活にこれほど濃密に接するなど、これまで考えてもみなかったことでした。
なまの人間相手の仕事であるがゆえ、決められた時間通りに仕事が進まないことは日常茶飯事で、理想の介護を胸に留めつつも、新聞記者時代とは比べようもないほどのアンガー・マネジメントと日々向かい合っています。「自分がこの職に向いているのか」「この先10年間働ける環境としてふさわしいのか」などと思い悩む日々です。
先頃修了した実務者研修でも、20~30歳代の若い受講者のなかで人一倍手順が拙い私に厳しく接してくる看護師上がりの女性講師との闘いの連続でした。ハートの持ちようが試されている、と日々感じます。
今後は現場での実務経験3年の条件をパスすれば、受験資格が得られる介護福祉士の資格取得が当面の目標となります。さらに、そこで5年の経験を積めば、介護保険利用者のケアプランを策定するケアマネージャーの受験資格を得ることができます。
現在56歳の私がそこまで到達できるとすれば63歳。ただ私を採用してくれた事業所の女性上司は「ケアマネは70歳過ぎても働ける」などと励ましてくれます。現在、小学校4年の長男が大学まで進めば、卒業するのは私が68歳のとき。腰痛のリスクや体力の衰えと向き合いながら、そこまではあらゆる可能性を視野にキャリアアップを目指すことになりそうです。
(元編集局・北村 弘一)
※北村弘一さんは1964年滋賀県生まれ。関西大社会学部卒業後、生命保険会社などを経て1988年毎日新聞社入社。社会部八王子支局、浦和支局、編集総センターを経て東京運動部。2002年サッカーワールドカップ現場キャップ。その後、秋田支局次長、北海道報道部副部長、大阪運動部副部長、学研宇治支局長、鳥取支局長、大阪運動部長を務め、2018年に大阪編集局編集委員を最後に退職。趣味はマラソン、登山。
=東京毎友会のホームページから2020年11月18日掲載
(東京毎友会→元気で~す)