2020.07.25
先輩後輩
大阪大学出身の私は、毎日新聞の第一次面接試験を大阪本社で受けた。
「ほお、阪大ですか。吹田事件を僕は取材しましたよ」。そう言った老練な面接委員の言葉を、奇妙によく覚えている。
吹田事件とは朝鮮戦争2周年前夜の1952年6月24日、大阪大学待兼山キャンパスに結集したデモ隊が、阪急電車を「人民電車」に仕立てて国鉄吹田操車場に侵入し、米軍物資の朝鮮輸送を阻止しようとした「戦後の三大騒擾事件」の一つである。日本共産党と在日朝鮮人団体による暴力闘争路線そのものだが、「忘却された事件」といってよいだろう。
私は2020年4月末、『占領と引揚げの肖像 BEPPU1945―1946』を出版した。
版元は西部本社報道部長だった三原浩良氏(故人)が退社後に創設した「弦書房」(福岡市)である。国際温泉都市・別府は戦後の10年間は「被占領都市」であり、引揚者3万人以上が殺到した「引揚者都市」だったという趣旨の本だ。不思議なことに、こういった観点で書かれた別府戦後史は一冊もなかった。
「朝鮮戦争と別府」について、章を立てて詳述した。
ソウル特派員を経験した私は、朝鮮戦争が自由主義陣営と共産主義陣営の熾烈な戦争であったことを知っている。別府周辺でも朝鮮戦争当時、民団系と民戦系(北朝鮮系)の激しい闘争があった。拙著では、朝鮮半島に動員されて「戦死」した別府の日本人労働者のことを詳述した。その際、全国的な事件として「吹田事件」に言及し、札幌の白鳥警部射殺事件(共産党員によるテロ)も調べて、記述した。
さらに地元紙の大分合同新聞を調べて、驚いた。朝鮮戦争当時、大分県内にも数多くの北朝鮮スパイが潜入し、摘発された事件があったのだ。極めつけは耶馬渓で知られる下毛郡下郷村(現在の中津市)元役場書記が、4人の密航者に偽の外国人登録証を発行していた事件だ(1951年3月25日付け記事)。韓国慶尚北道慶州地区の労働委員長だった男が密航スパイ事件の主犯である。
私は1973年に毎日新聞に入社した。
山口支局―佐世保支局―西部本社報道部(小倉)を経て、1986年に東京本社外信部に転勤した。九州・山口の事情には詳しいつもりだったが、朝鮮戦争当時の九州には無知であることを思い知らされたのである。
しかし、毎日新聞の先輩たちは素晴らしい仕事を残していた。
西部本社の各県版で連載された『激動二十年』(1965)である。大分版には戦後の同県内で起きた朝鮮民族間抗争に関する詳しい記事があり、福岡版には小倉の米兵死体処理場の記事や、日本人「参戦者」へのインタビュー記事も載っていた。1950年10月12日付けの毎日新聞(全国版)は、「韓国義勇軍/悲願の猛訓練/“北鮮軍撃滅”に燃ゆ」との見出しで、大分県日出生台演習場でのルポ記事を掲載していた。これらも併せて拙著では引用し、紹介した。
朝鮮戦争は古くて新しいテーマである。
北朝鮮や在日朝鮮人学校では、史実とは真逆の「北侵説」を教えている。韓国では、いつ朝鮮戦争が始まったかも知らない世代が増えた。対北融和政策の背景にある。最近の朝日新聞には、相変わらず「朝鮮戦争の勃発」という曖昧表現が登場した。NHK報道のように「北朝鮮の南侵によって始まった朝鮮戦争」と表記するのが的確である。毎日新聞も日本人参戦の事実を報じたが、昨年夏のNHKドキュメンタリーの域を出ない後追い報道だった。
一連の朝鮮戦争70周年報道には、北朝鮮スパイの浸透が当時の暴力闘争の背景にあり、その後の在日朝鮮人帰還(北送)運動のテコであり、日本人拉致の固定装置(土台)であったとの観点は見られない。歴史の総合的検証としてはまことに不十分である。
なぜ、地域の戦後史が重要なのか。
外交史、政治経済史に偏重した東京中心の戦後史では、「個々の住民が体験した戦後」が見えないからだ。その一方、行政史中心の地域戦後史では、「大日本帝国」時代とその後の東アジア規模での人間の大移動が見えない。
朝鮮戦争は「戦後史の穴」であり、現在に続く「戦後のトリック」を生み出した。
(鹿児島生まれ―大阪大学)―山口支局―佐世保支局―小倉報道部―ソウル支局―東京本社(―ソウル―大分―東京在住)。そういう私の軌跡は「朝鮮戦争と日本」を描くのにふさわしいと自認しても良いだろう。「吹田事件」も新たな観点から書き直すことになるかもしれない。
(元ソウル支局長・論説委員 下川正晴)
【近著】『忘却の引揚史―泉靖一と二日市保養所』(弦書房、2017)、『日本統治下の朝鮮シネマ群像~戦争と近代の同時代史』(弦書房、2019)、『占領と引揚の肖像BEPPU1945-1956』(弦書房、2020)、『ポン・ジュノ 韓国映画の怪物』(毎日新聞出版、2020年6月)、『私のコリア報道』(Kindle版)
=東京毎友会のホームページから2020年7月7日
(東京毎友会→お知らせ→新刊紹介)
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