閑・感・観~寄稿コーナー~
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「あしなが育英会」の玉井義臣さんと毎日新聞(山崎 一夫)

2025.07.31

閑・感・観~寄稿コーナー~

玉井義臣さん(あしなが育英会のホームページから)

 誰しも、忘れえぬ人はいる。私の場合はその一人が「あしなが育英会」の創設者、玉井義臣さんだった。2025年7月5日敗血症性ショックのため亡くなった。享年90歳。

 その60年以上も前、大阪・北摂の小さな街である大阪府池田市に生まれ育った同郷の大先輩だと気づいた時、玉井さんは既にテレビのワイドショーの有名人だった。

◇テレビのワイドショーと共に歩んだ交通事故防止キャンペーン

 テレビ勃興期の1970年代、どこにチャネルを合わせてもテレビは長時間の情報・生活・ニュース番組であるワイドショーが多かった。今で言えばテレビ朝日系の「羽鳥慎一モーニングショー」、NHK「あさイチ」などの先駆けの一つが、1966年1月末から1985年10月末まで続いた「桂小金治アフタヌーンショー」(当時は日本教育テレビ、現テレビ朝日)だった。始まった当初は、まだモノクロ放送だった。

 のちになって小金治さんは「怒りの小金治」「泣きの小金治」と言われるようになるが、番組のスタート前、家族で房総半島にドライブに行っての帰りに、交通事故に遭遇。「番組を始めるなら、交通事故防止キャンペーンにひときわ、力を入れよう」と決め、当時、大学を出たあと若手の経済評論家として売り出し中の玉井さんの起用が決まったようだ。

 おそらく小金治さんと波長が合ったのだろう。玉井さんも、母親を交通事故で亡くし、交通事故の被害者救済活動に取り組む「交通評論家」としての活動に軸足を移していった。そうした経緯で交通遺児育英会が設立されたのは1969年のことだった。玉井さんは育英会の専務理事になり、会長は、初代は財界リーダーの一人だった永野重雄さん。その後も会長には経済界の大物を出したり、官僚OBが就任したりしていた。

◇有能な人物の発掘能力のあった玉井さん

 玉井さんは、テレビ出演に並行して交通事故に遭った家庭の困窮、貧困化対策に目を向けその救済活動に力を注いでいった。そのための街頭募金運動でもあった。有望な若手の人材をみる目もあり、スポンサーになってくれそうな経済界要職の人物とつきあう術も持っていたのは間違いない。

 大学新卒で、のちに国会議員になる山本たかし、藤村修のおふたりを採用したのも、1970年代初めからだった。

 山本さんは5歳の時、小学2年生だった3歳年上の兄を交通事故で亡くした。学生時代から交通遺児育英会とは別の交通遺児救済キャンペーン活動に参画し、72年に卒業してそのまま学生時代から手伝っていた育英会に加わった。一方、藤村さんは、大学で体育会自動車部活動をしていて運転技術をみがく一方で社会貢献として交通遺児への募金活動をしていた。自ら決めたコンピュータ関係の就職先を報告するために交通遺児育英会に玉井さんを73年に訪ねたが、その場で育英会に就職するよう求められた、と政界引退後の2014年に毎日新聞社から出版された「民主党を見つめ直すーー元官房長官藤村修回想録」で、藤村さんは、いきさつを明かしている。

◇「ユックリズム」のスローガンも生んだ

 玉井さんは、交通事故遺児だけでなく災害や病気で親を亡くした子供たちの支援に運動を広げようとして、阪神・淡路大震災(1995年)では、震災遺児のケアハウスを神戸市内に設立した。

 「災害遺児の高校進学をすすめる会」を任意団体で作ってそれを拡大していく過程にあった。これがやがて「あしなが育英会」の内実になっていく。玉井さんが書いた「ゆっくり歩こう日本 くるまが地球を滅ぼす」というタイトルの本が「ユックリズム」という流行語にもなった。

 玉井さんがこの活動に力を入れている時期、日本列島はクルマ社会が到来し、交通事故件数も死傷者も著しく増加した。1970年には、その20年前の4倍近い1万6765人の死者を数えた。「交通安全対策基本法」がこの年に成立し、警察は交通違反の厳罰化と取締りを強めていく。

 毎日新聞社でも当時、大阪社会部記者、津田康さん(1936年生まれ)のようにクルマ社会の問題点についてコラムに書いた人がいた。東京、大阪夕刊に週1回執筆した四百字連載は「くるまろじいー自動車と人間の狂葬曲」(六月社書房)となり1972年に出版され、74年の「新評賞」を得た。今回、玉井さんの件を書くに当たってお借りした本には「社会部全員に万年筆(パーカー)贈呈」と書き込みがあった。ちなみに私は1973年入社で大阪社会部に配属は1978年のことなので、万年筆のエピソードは知る由もない。

 津田さんは関西六大学野球の京大のエース。1977年に出した「高校野球青春論 陽は舞いおどる甲子園」では、玉井さんと「梅雨の晴れ間に青春を語り合ったのが書くきっかけになった」とある。メディアには玉井さんの仲間、応援団は、大勢いたのである。

◇裁判でも争われた交通遺児募金のこと

 時期ははっきりしないし、私が当事者でもないのだが、交通事故遺族救済運動の急激な広がりはトラブルに発展したことがある。週刊「サンデー毎日」が交通遺児育英会のカネの流れをめぐって専務理事を務めていた玉井さんの「疑惑」を書き、これを玉井さんが訴え、裁判沙汰になり、刑事告訴もおこなわれたとのことだ。

 裁判は、結局「互いに知りえたことは主張しない」という内容の和解で終わったようなのだが、この裁判をきっかけに玉井さんは、交通遺児育英会から離れて、1993年に「あしなが育英会」を発足させ、その後、30年にわたって活動を続けてきた。

 あしなが育英会の関係する彼の仕事をまとめた「玉井義臣全仕事」では「交通遺児育英会の栄光と挫折」と書かれ、一方、玉井さんの抜けた交通遺児育英会は、その「年史」で育英会活動の正当性を主張したままのようだ。

◇日本新党から出るきっかけは細川さんの街頭募金

 日本新党を作った細川護煕さんは、熊本県知事の時に災害遺児のための募金運動に立ったことがあり、あしながの前身である「すすめる会」と縁があった。

 細川さんは「1992に日本新党は参議院議員を4人当選させた。93年は都議会でも衆議院でもやりたい。ついてはすすめる会活動で苦労している人たちを推薦してほしい」と玉井さんに直接、候補者を出すよう依頼したことがこれが政界とのつながりができた、と先の回想録で藤村さんは振りかえっている。

 そして、共に大阪出身だった二人のうち藤村さんは当時の衆院選大阪三区、山本さんは大阪四区から立候補する。藤村さんは5人区でトップ、山本さんは4人区で3位当選だった。

 政界入りした山本さんは衆院議員2期、参院議員2期を経て2007年、がんで闘病していることを告白、これが超党派で「がん対策基本法」を成立させる原動力になった。

 自らは、その年の夏におこなわれた参院選に民主党全国比例区の最後の当選者になり、12月に58歳の若さで亡くなった。在職中に亡くなった議員の哀悼演説は翌2008年1月に、尾辻秀久自民党参議院議員会長(2025年に引退)が「あなたは参議院の誇りであり、社会保障の良心でした」と述べた。山本さんの14年の活動は「山本たかし いのちのバトン」として今も妻のゆきさんによっておこなわれているようだ。

   一方、藤村さんは、衆院議員6期、野田佳彦首相(現立憲民主党代表)が率いる民主党内閣の官房長官として2011年9月から482日(1年3ヶ月)の激務を務めあげた。官房長官が政治家としては最後の仕事となり12年12月の総選挙で落選。13年に引退を表明し、あしなが育英会副会長に一旦戻った後、現在は活動の一線からは手を引いたようである。

◇課題設定は間違ってはいなかった

 現在、交通事故死者は2663人(2024年)。1970年のピーク時の15%に減り、件数も同じように大きく減りここ数年は横ばいである。交通事故から災害、病気の遺児まで対象を拡大して日本に「救援文化」を広げようとした玉井さんの、金集めと人集めの勘は間違ってはいなかったと思うし、保護者を失った遺児への対応はこれからも絶対に必要だが、これからは、地球沸騰化にどう対処するかなどを大きな新しい政策テーマとして課題の組み直し時代に入るだろう。

 最後に、災害遺児救援との関係で書くと、2011年3月の東日本大震災のあと毎日新聞社と毎日新聞社の東京、大阪、西部の社会事業団が2012年度から始め、今も続いている「毎日希望奨学金」は、当初、外部識者に委員をお願いしてそこで審議する仕組みを取り入れた。朝比奈豊社長の発案だったが、玉井さんには、私が初代の運営委員への就任をお願いに行き、快諾してくださり、私はホッとした記憶がある。その昔、1995年1月の阪神・淡路大震災の時にも同様のお願いをして「お断り」されたことがあったからだった。

(元社会部、役員 山崎 一夫)=現登録支援機関・有料職業紹介事業(株)ユニティワーク代表取締役

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◇イタリア料理の店で「外国の学生を呼びたい」

 山崎一夫さんの原稿に「阪神・淡路大震災(1995年)では、震災遺児のケアハウスを神戸市内に設立した」とあります。大学生寮「レインボーハウス」です。私も少しだけかかわりました。

 寮は学生の勉強にも力をを入れ、その1つに読書感想文がありました。その指導をしていたのが、津田康さんでした。私は2008年から4年弱、役割を引き継ぎました。山崎さんからの要請でした。

 まず寮生に、文章の書き方の簡単な講演をしました。確かその夕方だったと思います。あしなが育英会の代表だった玉井義臣さんらと食事に行きました。寮の近くのイタリア料理の店でした。新聞記者が行くのは居酒屋ばかりなので、玉井さんはおしゃれな人だというのが、第一印象でした。

 その場で、玉井さんが力を込めて話していたことがあります。「外国からも学生を入寮させたい」ということでした。

 私にとって寮生との交流は、短い期間ながらもかけがえのないものでした。私の持論は「文章は書く人のそのままが出るので、それを添削することは意味がない」なので、最初は作文指導を断ったのです。しかし、寮の職員だった小河光治さん(現・子どもの貧困対策センター財団法人あすのば代表理事)から、「お父さん役になってくれればいい」と言われました。寮生は経済的に苦しく、その理由は父親が亡くなっているケースが多かったのです。この一言で、引き受けることを決めました。

 毎月4冊の課題図書を提示し、寮生は2冊を選び、1冊につき原稿用紙2枚の読書感想文を書きます。寮生の文章はまとめて私の自宅に送られてきて、私はその感想を原稿用紙の裏に書いて、寮に送り返しました。添削や指導とはほど遠く、交換日記のようでした。

 そのうち、寮生から「時事問題を勉強したい」という声が上り、月に1回寮に行き、食堂で夕食を一緒にしたあと、希望者が集まって、直前のニュースについて意見を述べ合いました。その集まりに寮生がつけた名前「シンブンブン」を私は大いに気に入り、ルンルン気分で寮に通いました。

寮生とのおためし遍路

 私は四国遍路を何度か経験をしていて、そのことをシンブンブンで話し、それがきっかけで4人の寮生と、、二泊三日のおためし歩き遍路に行ったこともあります。善意の小屋でざこ寝をし、ヒーヒー言いいながら札所の山を2つ登りました。

 寮生との日々は、60歳を過ぎた私に、もう1度青春を経験させてくれました。きっかけを作ってくれた玉井さん、山崎さんのおかげです。

 イタリア料理店で聞いた玉井さんの夢は、それから3年経って実現しました。アフリカから2人の学生が寮に入ったのです。私の役割の最後の年でした。2人の読書感想文は英語で書いてありました。返事も英語で書かなければなりません。英語がからっきしだめな私は、少し玉井さんをうらみました。

                   (元地方部、梶川 伸)