2025.05.03
閑・感・観~寄稿コーナー~
40年前の1985年春、神戸支局に赴任した時はキャップ、中堅、若手の3人で泊まり勤務をしていました。グリコ・森永事件、暴力団山口組対一和会の抗争、豊田商事事件などがあったにしろ、手厚い「当直」態勢だったと思います。
時代は大きくさかのぼり、大正から昭和にかけて大毎で活躍した村嶋帰之記者が1961(昭和36)年10月25日付の「民俗雑志」という奇妙な名前の雑誌に、次のような書き出しの思い出話を載せています。
≪今から42年前、毎日新聞本社から神戸支局へ転勤した私がまず当惑したのは「当直」でした。殺しだ、強盗だという情報が入るとすぐ飛び起きて駈けつけねばならぬからです≫
「へえ、1962年から42年前といったら1920(大正9)年。その時も私たちと似たような泊まり勤務があったのか」と思いました。
で、その一文は何を書いているかというと、「駈けだし記者時代の平野零児」というタイトルでこう続きます。
≪処がその心配は無用でした。代理当直一手引受人が居たからです。当時二十二、三歳の平野零児君がその人。私は事件記者のような事をせずに助かりましたが、平野引受人は寝床が確保された上なにがしの当直料も入ってその夜の飲みしろにありつけたのですから、一石二鳥でした。彼の敬愛する先輩安部真之助氏は「平野が毎日に入社したのは家の門口にウロチョロしている仔犬がいつかずるずると毎日記者になった」と書いていましたが、それはこの万年当直を誤り聞いたのだと思います≫
おお、ここで大物が登場しましたね。阿部真之助と言えば、ジャイアンツ監督と一字違いですが、大毎社会部長、東京日日新聞主筆やNHK会長を務め、菊池寛賞も受賞している大物ジャーナリストです。そんな古き良き時代の神戸支局の雰囲気が伝わる回顧録の主役たる平野記者は泊まり専門家にとどまらず、名文家にして筆が早かった敏腕記者としても描かれています。
≪日独休戦祝賀仮装舞踏会がオリエンタルホテルで催された時、一頁十段ほどの紙面のうち八段を彼はひとりで書き、舞踏会の記事で全面を埋めました。書く奴も書く奴、それを許した支局長も支局長≫
その平野記者は当直引受人から四十余年にどうなったでしょう。村嶋はこう結びます。
≪彼は作家生活に入って中国を放浪したりして苦難の道を辿り、ライちゃんの綽名(あだな)の示す如くライオンの立て髪のようだった黒髪も不毛の地と化しアッ!という間にあの世へ行ってしまいました。京都新聞の「西陣太平記」のあとの神戸新聞の「学校太平記」もとうとう未完のままにして――≫
この「民俗雑志」という資料を引き合いに出したのは、ひょんなことから村嶋先輩が遺した資料の整理、寄贈先探しに関わり、その遺品から見つけた一片だったからです。村嶋は1891(明治24)年生まれで、社会運動家の賀川豊彦や民主社会党(民社党)を創った初代委員長の西尾末広の盟友として知られ、全五巻の分厚い著作選集が出ています。遺されたのは労働運動や遊郭や心中など興味深い資料の山々です。それらを遺族のもとに通って目を通しながら、関西の大学などに寄贈の可否を打診してきました。話がなかなかまとまらなかったのですが、数年間の悪戦苦闘の末、ついに今年3月、賀川と村嶋が創設した学校法人「平和学園」(神奈川県茅ケ崎市)に寄贈されたのです。
その顛末証明書というわけではないですが、毎日新聞の大阪面(4月19日)と神奈川面(同25日)に愚生の書いた「寄贈」の記事を掲載していただきました。神戸支局、大阪社会部の後輩として安堵したのは言うまでもありません。
(元神戸支局、城島 徹)