閑・感・観~寄稿コーナー~
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私と少年野球(大平 雅章)

2024.11.28

閑・感・観~寄稿コーナー~

Ⅰ 少年野球へのきっかけ

 きっかけは阪神大震災でした。

 1995年当時、私は神戸市須磨区の妻の実家から歩いて10分ほどの「味噌汁の冷めない距離」に、妻と息子2人の家族4人でマンション暮らしをしていました。1月17日の明け方、床から突き上げるような揺れが襲い、その後に横揺れがきて家の中はグチャグチャに。

 幸い家族は無事だったのですがとても住める状態ではなく、妻の実家が比較的被害が少なかったこともあって、しばし実家に避難。その後、私は、JRが復旧するまで高槻に部屋を借りそ、こから大阪本社に通いました。当時、義父も九州に単身赴任をしており義母が一人住まいで何かと不安だったため、マンションは一部損壊認定でしたが思い切って売却し、実家を2世帯に改造して同居することとなりました。

 1996年末に同じ区の北須磨団地に引っ越し同居がスタート。この年地元、オリックスブルーウエーブは日本一となり。当時小学校3年の長男、1年の次男を連れよく近くのグリーンスタジアム神戸(当時)に応援に行っていて、自然に子供たちも野球好きになっていたようです。

 翌97年春、近所で長男とキャッチボールをしていたところ、突然「一樹くん(長男の名前)のおとうさん?」と声をかけられ、「野球部にはいらへん?」といきなり誘われました。聞けば長男の同級生のお父さんとの事。その後ずっとコンビとなる福島さんとの出会いでした。新4年生の部員が9人そろわずコーチも福島氏一人で大変との話。深く考える暇もなく、あれよあれよと親子ともども「多井畑少年団野球部」4年生のチームに入らされました。これが少年野球との出会いでした。

Ⅱ 事件と野球部

 そこから、休みの日には長男と野球にいくのが日課となりました。当時はまだ震災後ということもあって、近所の公園や空き地の至るところに仮設住宅が建ち並び、練習場所がなく高速道路の下でゴロの練習をしたり、ほぼ内野程度のスペースでキャッチボールをしたり、仮設住宅にボールをぶつけては謝ったり(仮設の皆さんはみな優しくて笑顔でボールを拾ってくれました)していました。

 そんな矢先に事件が起きます。5月24日曇が深くたれこめて風のやや強い午後、いつ雨が降り出してもおかしくない天気の中、多井畑小学校グラウンドで練習をして帰宅。雨が降り出し風も強さを増していた中、夕食をとっていると、ご近所のPTAの方が訪ねてこられ「○○くんを探しているんですけど」といって、見かけたら連絡をくれるよう伝言を受けました。聞けば障害学級の6年生の生徒さんが夕方になっても行方不明との事。こんな天候の中、大変だねと話していました。

 そして翌週火曜日の朝、自宅から歩いて5分ほどの「友が丘中学校」に遺体の一部が置かれているのが見つかり、全国を揺るがす大事件となりました。いわゆる「酒鬼薔薇聖斗」と名乗る神戸少年殺傷事件です。連日、大々的な報道が行われ、多井畑小学校への送り迎えは保護者が同伴となり、当然野球部活動も様々な制限の中、コーチは必ず着帽し、門扉は施錠、しばらくは練習試合は行わず、学校の練習の行き帰りは保護者に付き添ってもらう等の取り決めをコーチ会で確認しました。

 そして事件からしばらくして練習中に、事件担当の刑事さんが4年生の子供たちに話を聞きたいと学校を訪れたのです。直接子供たちに質問しても要を得ないと思ったのか、彼らは父母コーチである私を通して事件当日の午後の話を質問してきました。何せ当日午後犯行があった通称「タンク山」は小学校と道を隔てた横であり、そこで練習をしていたのが4年生で、自宅との行き帰りに何か、誰かを目撃してないか、を黄色や橙に色分けされた住宅地図を広げ確認していきました。

 報道も過熱気味で各新聞社、TV等マスコミも連日団地取材、学校(父母会などがあったが犯人からの追加の殺人予告などもあって学校内は立ち入り禁止)の外は多くのマスコミが殺到していました。(当時本社も取材本部で連日の取材活動を行っており大変だったと思います。

 我が家にも大津支局からの応援の記者さんが取材にこられました)。普段報道をする側に身をおいていましたが、はじめて「される側」の立場となり、いろいろと考えさせられる体験となりました。

 7月の容疑者逮捕、そして、その後引き続いて1年後にはタンク山に地蔵を建てる時に新聞社(毎日と神戸新聞)が取材にくるので、野球部で清掃せよとなどという雑事を団地自治会長に言われたり、事件後もしばらく野球部はすったもんだの日々を過ごしました。

Ⅲ 子供たちが卒業しても

 そんな長男が6年で卒業すると、入れ替わりにサッカーをしていた次男が新たに入部。どうも親父(私)が野球ばかりに肩入れしていて、サッカーをみてあげられなかったのが不満で悲しかったようです。その次男の野球にもコーチとして参加し5年間お世話になりました。

 これで解放かと思ったら、野球部には「御礼奉公」という慣習があると言われ、それからズルズルと休日は野球部の手伝いに行くようになったのです。2004年からの3年間の東京単身赴任期間を除いて、2015年まで少年野球と関わりました。

 思えばあの事件がなければこれほど地元野球部に思い入れはしなかったでしょう。しかし、同年、少子化の波はこの地域にもおよび部員が減少。多井畑少年団野球部も他のチームと合併することとなり、その時にコーチ会と父母との間にも若干の意見の相違があったりしたため、そろそろ潮時かと野球活動から離れたのです。

Ⅳ 活動再開

 無事毎日新聞を卒業し、その後お世話になった関西広告審査協会も2021年に満期で退会。ただ、その後も週3回程度で良いので協会を手伝ってくれないかとの要請もあり、アルバイトで働きつつ平日や土日に近所の山を歩いたりして運動不足を補っていた矢先、野球部に誘ってくれた福島氏とかつての野球部のコーチや監督仲間との飲み会がありました。

 その場で今、小学校ではかつての少年団野球部のような土日練習、父母会などといった組織だった活動ではなく、父母のお茶当番も不要で、女の子も手軽に入部可能な「少年少女野球部」の活動を行っているとの話があり、誘われるまま、休日ぶらぶらしている身として、健康維持をかねて同会にコーチとして参加することとななりました。実に7年ぶりです。

 練習に参加して、子供たちの名前を覚えるのが遅くなったことにショックを覚え、最初のノックの時は、かつて簡単に揚げられていたフライが中々あがらず、バッティングピッチャーでは投手から捕手まで16メーターの距離でコントロールがつかず、7年余りのブランクとおのれの年齢の老化を痛感。また、子供たちの中に、長男の同級生がお母さんという子供さんがいて愕然としました。

 そう言えばこの子供たちは年齢的に「孫」といってもおかしくない! それからはつとめてストレッチや歩くことなど体の手入れをして土日にノック、バッティング投手としての役割が務まるよう体をケアして練習にのぞんでいます。(ただ翌月曜日は時々近所の温泉施設でジェット風呂に浸かり、マッサージチェアのお世話になるのですが)。

 同会の決まりは「大声で怒らない」「褒める」「楽しく」がモットー。部員は男女併せて7名~8名程度でもちろん対外試合はできませんが、同じような主旨の近くの小学校の野球部と合同で練習試合をしたり、時には合同チームとして一緒に公式大会に参加したりして今日に至っています。

Ⅴ 終わりに

 少年団野球の魅力はなんと言っても子供たちと一緒に体を動かすことで、元気、パワーをもらえること。そして明るく笑ったりできることです。

 低学年の子供たちはルールもよくわからないので、時には前に走者がいても急に走り出したり、人のいないところへ投げたり、アウトになってもベンチにかえらなかったり、「3回振っておいで」というとボールでもワンバウンドでもおかまいなく3回振ってきたりーー。

 でもかの大谷さんもこうして大きくなって世界で活躍しているのかと思うと、未来の彼、彼女らの成長を楽しみに、週末ごと活動を行っています。

                   (元広告局企画推進部、大平 雅章)