2024.10.31
閑・感・観~寄稿コーナー~
Ⅰ.はじめに
5年前の2019年11月、山東省・曲阜・泰山と北京を毎日新聞旅行のツアー<19年11月25日付け当㏋に掲載されています>で訪れたのに続き、24年10月11日~16日、「三国志・赤壁の旅 湖北省(武漢、感寧、赤壁、荊州)と湖南省(岳陽)」に行ってきました。前回の旅の直後の20年3月、再度の中国旅行計画を立て準備していたのですが、コロナのパンデミックがあり、直前に中止になってしまいました。そのリベンジではありませんが、今回は、コロナ発生の地ともいわれた、武漢の国際空港(香港経由)に降り立ち、「悠久の中国を巡ってⅡ」となった次第です。
ツアーメンバーに中国の歴史、三国志に詳しい専門家がいて事前に講義を聞く機会がありました<<「三国志」は正史ですが、小説「三国志演義」はフィクションが入った読み物で、その講義を中心に市民講座をされている方で、その講釈がこれまた面白い!旅行中、帰国後も分からないことに丁寧に教えていただきました>>。三国志は学生時代に吉川英治の本で「おもろい!」と徹夜で読んだことがあり、米中合作の映画「レッドクリフⅠ、Ⅱ」、さらにTverで中国制作の日本語吹き替えドラマ「三国志」100話(大変面白かった)も見ていました。難関は観光ビザ取得でした。前回の旅では、ノービザでOKでしたが、昨今の日中関係の悪化で今回は、ビザを取るのに一苦労。「無職の人は、前職の社名、住所、上司の名前と電話番号など」、「配偶者がある場合は、その氏名、生年月日、本籍など」<前回は家内同行でしたが今回は諸般の事情で単身参加。残念!>を記入せよ、などなど、個人情報保護とは無縁の世界をみせつけられました。入国時には、顔写真はもちろん、10指の指紋採取と厳しい質問に時間がかかり、ツアー参加者がゲート出口前にそろうまでに時間がかかりました。が、なんとか入国して中国の大地を踏みました。
三国志の時代を簡単に振り返っておきます。
三国時代とは中国の歴史で、〈前〉漢(紀元前206~ 8年)と〈西〉晋(265~316年)の間、魏、呉、蜀の三国が並立していた時代。前漢末期に黄巾の乱で漢王朝が衰亡。混乱の中で、英雄が現れ、能力と時の運を兼ね備えた曹操と孫権、劉備の3人が、魏、呉、蜀を建国しました。この時代にはたくさんの人物が活躍し、次代の西晋の陳寿が『三国志』を執筆。この『三国志』は、正史(国家の正統を示す史書)とされますが、明代に成立した『三国志演義』は、蜀漢を正統としながらも、それまでの説話や講談など極端で荒唐無稽な逸話や歴史年代を無視した展開・要素が入っています。今回の旅では、「漢王朝の血を引く高潔な主人公劉備」と「専横を振るう曹操」が主人公ではなく、いわばわき役ともいえる孫権を中心とする中国の南に位置する呉の国と境界の
地・赤壁が主な対象。そのために、周瑜、魯粛という呉の大都督・大将軍と、蜀漢の東端を守っていた蜀の関羽が主に登場する旅となりました。
以下、旅の内容などを記します。
Ⅱ.中国は「心のふるさと」
香港を経由して降り立った湖北省の省都・武漢は、1911年10月10日、反清朝の辛亥革命が始まった地で、翌年、秦の始皇帝以来続いた皇帝政治が終焉を迎え、孫文を臨時大総統とする中華民国が樹立された地です。武漢については、米紙が長江沿いの造船所で建造中の中国最新鋭原潜が沈没、との報道があり、緊張していましたが、街は極めて平穏。で、先ずは目的地に向かってバスで出発。
1時間半ほど高速を走り途中、ツアーの重鎮で、毎日文化センター社長時代に中国の世界遺産の講座を担当し、前回中国旅行でもお世話になった胡金定甲南大教授の御縁で、湖北省仙桃市の道経寺院・永興観に到着。観長(トップ)の葉信園さんのお話などを聞いて、私自身、「日本の文化の基盤になっているインド発祥の仏教が中国を経由して日本に伝わった際、中国でその生命哲学の理論づけがされた。その際、儒家だけではなく道家の教えも加味されていた事が、あなたの説明などでよく分かった。道家・道教を含めた中国の文化に触れたことで、私は自分の心のふるさとに帰ってきたように感じました」と、彼女に伝えました。
阿倍仲麻呂や最澄など日本人留学生がはるばる中国を訪れたのも、中国の学僧が辛苦の限りを尽くしてインドに旅したのも、学問、文化を必死に摂取し、血肉にし、後代に伝えようとしたためだろうとの思いに至りました。
Ⅲ.関羽像、でかい!
☆荊州古城 湖北省荊州市は魏・呉・蜀の三国の境界の地。三国時代、蜀の武将の関羽の居城で、呉と対峙して守っていました。何人もの武将が争奪戦を繰り広げた要衝で、延長約10kmの城壁が残っていて、城郭内部は古い町並みが保存されていました。
☆関帝廟 本殿には中央に関羽、右に実子関平、左に配下の周倉が祀られていました。関羽は、信義や義侠心に厚い武将として神格化されていたようです。
☆荊州関羽祠 駐車場には青龍偃月刀を持った巨大な関羽像と愛馬、赤兎馬の像が鎮座。後で紹介する赤壁古戦場にも同様のものがありましたが、劉備・関羽・張飛の三人が義兄弟の契りをび、生死を共にする宣言を行った「桃園の誓い」の場面なども再現されていました。
☆関羽点将台 荊州市郊外にあるとされ、関羽が樊城(はんじょう)攻略の前に閲兵点将を行った、とのことでした。バスで近くまで行きましたが、見当たりません。中国人ガイドさんが探し当てるのに苦戦し、それらしいところまで行って、道端でハスの実を打っている露店の売り子とやり取りしてようやく目星を付け、付近にいくと住民たちは「このあたりだ」と言っているとのこと。かつては建っていたという碑などもなく、一帯では高速道路の工事中。さらにガイドさんが、歩いている人に片っ端から話しを聞きまくっているのを見ながら、ふとバスの窓越しに外を見ると、なんと「点将台レストラン」との看板が目に入りました。バスが停まっていたのは同レストランの駐車場だったのです。と、いうウソのような本当の話が「落ち」となりました。まあ、この近くの丘で、関羽が、最後の戦となった樊城を攻撃する前に駐屯し、兵を指揮した場所だったのだ、ということで納得して夕食に向かいました。
Ⅳ.いよいよ、目的地の赤壁!
☆三国赤壁古戦場 208年、中国統一を果たすため曹操軍数十万は(実数諸説ありですが、20万としても北方出身の兵の大半は、実際には水が合わず寄生虫などでかなり疲弊していた、とガイドさん)、赤壁で孫権と劉備の連合軍に大敗を喫しました。その結果、魏、蜀、呉の三国に分立することに。三国赤壁古戦場はその戦いの舞台となった場所とされますが、現状は、三国志の世界を再現した広大なテーマパークになっていました。
古城を再現したゲートに大書された「三国赤壁古戦場」の文字は、故江沢民元国家主席筆でした。劉備と関羽、張飛が義兄弟となった「桃園の誓い」のコーナーには桃の花が、一年中、咲いている設定(造花)です。劉備軍の諸葛亮が曹操軍を欺いて10万本の矢を入手した「草船借箭」の故事や、諸葛亮が呉軍をかく乱するために敷いた「八卦陣」と名付けられた迷路もありました。呉の周瑜が指揮をとったとされる翼江亭では、参加メンバーが次々と周瑜になり切って記念写真撮影。後記する孔明が東南の風を吹かせたという拝風台も一見の価値ありでした。
☆赤壁摩岩石刻 呉の周瑜が曹操を倒した後、勢いのあまり石で(もしくは剣で)「赤壁」の2文字を書いて刻んだ、との説がありますが、字体を検証したところ、唐代の人が書いたもののようです。
さて赤壁の戦い。孫権・劉備連合軍が、「諸葛孔明の『奇門遁甲』の術で東南の大風を吹かせ<この「拝風台」の話しは三国志演義によるフィクション>」、曹操軍を火攻めで一気に撃破。燃え上がる炎で岸壁が真っ赤に染まり「赤壁」と名付けられたという「現場」で私たち一行は記念撮影。
ちなみに、「赤壁の戦い」の古戦場として有名になった赤壁は、湖北省には二カ所あります。一つは今回訪れた蒲圻(旧名、ほき、現赤壁市)の赤壁で、実際の戦場とされています。もう一つは宋代の詩人蘇軾(東坡)の「赤壁の賦」で有名な黄州(湖北省黄岡県)赤壁です。ガイドさんによると、黄州赤壁は「文の赤壁(詩文の赤壁)」と呼ばれ、今回の我々が訪れた蒲圻(赤壁市)赤壁は「武の赤壁(戦いのあった赤壁)」と呼ばれているそうです。
☆周瑜像 26個の花崗岩で作られた巨大な像で、周瑜が鎧を身につけ、マントを羽織って、手に持っている剣で曹操の軍の方向を指している、とされる姿を表しています。
☆岳陽楼(湖南省岳陽市) 洞庭湖の東北岸に建つ高さ20.35メートルの三層の木造建築。「江南の三大名楼」の一つで、眼下に広大な洞庭湖を見下ろし、長江を臨む雄大な景観で知られているそうです。赤壁の戦いの後、呉の周瑜の後継者、魯粛が水軍を訓練する際の閲兵台として築いたのが始まりとされます。魯粛が、劉備と手を組む同盟策を孫権に提唱したとされます。
Ⅴ.浩然の気を養う
訪れた感寧市の竹子博物館では、腐らない竹を紙の代わりにして古代中国の文化を伝えた様子や素晴らしい竹細工が展示されていました。同じく、桂花博物館(日本流にいうとキンモクセイの博物館)で、展示品の中に、中国が月に打ち上げた宇宙船「嫦娥」の名前がありました。月には、「嫦娥」という仙女が夫の呉剛、ウサギの玉兎と暮らしていたという伝説があり、呉剛はキンモクセイを切り倒すのが仕事、というつながり、のようです。かぐや姫と秋の月見の話がごちゃになったようにも思いますが……。
武漢市の湖北科学技術学院(大学)では、鄂南(湖南の旧称)文化研究センター主任の何岳球教授がシルクロードの交易について面白い話をしていただきました。写真の「川の字」が浮かぶ置物のようなものは、実は、中国産のお茶を固めたもの。レンガのようにして、武漢からシルクロードを通して西洋に運ばれた、と話されていました。実際写真のように、感寧市からいただいたお茶のお土産は、レンガのように固めた中国茶でした。
「江南の三大名楼」の一つ黄鶴楼では、李白の詩「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」を情感を込めて中国語で朗々と胡教授にうたっていただき、孟浩然を送る李白の気分を味わい、文字通り、浩然の気を養わさせていただきました。感謝です!
来年もぜひ、中国に行こう、と思っています!
(元編集局、 中島 章雄)