閑・感・観~寄稿コーナー~
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しぐれてゆくか(高松 道信)

2023.12.07

閑・感・観~寄稿コーナー~

 初冬の一日、福井・永平寺を訪れた。道元禅師によって開かれた座禅道場で、曹洞宗の大本山。学生時代に一泊二日で参禅体験をした事がある。その折は、入浴は終始無言の「無言の行」、食事は最後に椀にさゆを注ぎ入れ洗って飲み干すことなどを体験した。座禅のまね事もした。半世紀後の永平寺も屋根瓦が吹き替えられた以外、さほど変わっていない印象だった。相変わらず、参拝客は多かった。

 天候には恵まれなかった。朝から、灰色の雲が厚く垂れ籠め、暗く寒く、雨が降ったり止んだりした。時雨だった。10年前に俳句の門をたたくまで、恥ずかしながら、「時雨」を「しぐれ」とスッと読めなかった。広辞苑にあるように「秋の末から冬の初めころに降ったり止んだりする雨」で、初冬の梅雨のようなものと、理解していた。

 時雨の永平寺の参拝は、寒く特に足下が冷たかった。僧堂に足早に向かう若い修行僧を目撃したり、法堂の縁に腰を下ろして庭の薄紅葉を眺め入ったりした。雨は結構、降っていたが、寺を出る時、止んでいた。さらに雲が切れ、青空がのぞき、それまでの陰鬱な空が一変、冬の日差しがキラキラ輝いていた。しばらくするとまた元の灰色の雲に雨。福井市内に戻ってからも陰鬱な雲と雨の合間に、日差しキラキラが続いた。歳時記にあるように「晴れていても急に雨雲が生じて、しばらく降ったかと思うとすぐに止み、また降り出す…」という“本物”の時雨だった。

  うしろすがたのしぐれてゆくか  種田山頭火

 山頭火の自由律俳句、前書きに「自嘲」とあり、行乞の旅に出る自分を嘲って詠んだという。時雨が“初冬の梅雨”のようなものなら、定めなき、陰鬱で寒々としただけの自嘲だが、永平寺で体験した“本物”なら、合間にキラキラ輝くものがあり、俳句の印象が随分と違ったモノになる。自らを嘲りながらも達観した明るさを感じさせる。自己愛(ナルシズム)と評する俳人もいるわけだ。時雨を季語にした俳句は多い。古くは「旅人と我が名呼ばれん初時雨 芭蕉」「世にふるもさらに時雨の宿りかな 宗祇」、現代でも「しぐるるや駅に西口東口 安住 敦」「道あるがごとくにしぐれ去りにけり 鷹羽狩行」。これらの句も本物の時雨を体験してみると、前とは違った印象になる。

 俳句は一般的には季語の本意(本来の情趣)を軸にした短詩。無季の自由律もあるが、季語の本意に思いを託す。問題はその本意。「本物」か「のようなもの」か。神羅万象ことごとく本物を知る(見る、体験する)なんて、とても出来ないし、あり得ない―と、俳句の駆け出し(と言ってももう十年になるが)は悩んでしまう。想像力の泉も水量が乏しく、涸れ気味で、悩みは深い。

  しぐるるや寺内小走りの修行僧  童芯

                          (元編集局。高松 道信)

永平寺正門で(石柱は道元禅師の故事に因んだ漢詩「杓底一残水 汲流千憶人」=自分が使わずに柄杓の水も、その水を流れに戻せばまた多くの人が使うことができる)=の後半部分)