閑・感・観~寄稿コーナー~
SALON

戦時に「大毎野鳥の会」を立ち上げた事業部長が再び脚光を浴びる(藤田 修二)

2023.12.01

閑・感・観~寄稿コーナー~

 2023年は、少しオーバーに言えば植物学の牧野富太郎に比肩される民間の鳥類学者、榎本佳樹(1873-1945)生誕150年で、在住した大阪の日本野鳥の会大阪支部が、会報の発行、足跡を残した一部での探鳥会開催といった記念事業のほか、11月19日には大阪市立自然史博物館で納家仁・同大阪支部長が「野外識別の草分け 榎本佳樹をめぐる人々」と題して講演を行った。

 紹介された「めぐる人々」の中に元大阪毎日新聞事業部長、山口勝一(1943年没、43歳)の名があった。山口は戦雲ただならぬ中に「大毎野鳥の会」を立ち上げ、「野鳥の会とタイアップした探鳥会などを企画実施。大阪支部のため側面から尽力された」(納家氏)人である。私は、大毎野鳥の会については、2013年の「元気なあゆみ」(毎日労組大阪支部OB会報)に紹介しているので、多少ダブることを許していただいて、山口のことを改めて紹介したい。

 山口は岡山市出身。慶応大学卒業後見習い生として大阪毎日に入社、社会部、神戸支局、長崎支局長などを経て1937年事業部副部長になっている。元来鳥好きだったようで、野鳥の会に入会するとともに事業部に異動してすぐに大毎野鳥の会の開催に走るのである。大毎野鳥の会といっても社内の同好会ではなく、一般向けの大規模な探鳥会開催が主目的である。第1回がなんと日中戦争がはじまった盧溝橋事件の直後、1937年の7月18日、岩湧山(大阪府河内長野市)で、難波駅から特別列車「探鳥号」を仕立て200余人が参加した。岩湧寺で山口の司会の下、榎本や東京から馳せ参じた日本野鳥の会創設者中西悟堂らの講演を聴いた後、周辺で探鳥した。これを毎日新聞は2段見出し3本、写真2枚を使って紹介している。

 中西とは肝胆相照らす中になり、東京と関西のお互いの家をよく行き来していたようだ。知り合った頃の山口について中西は「山口氏の闊達(かったつ)でオープンリーな人柄の中に、アナトール・フランスの、バルザックの、ゲーテの、恐らくは機会が刺激したら幾らでも出て来るであろうアンテルナショナールの人文の流れを透かし見ることができた」と述べている。山口は、箕面山、比叡山、高野山、生駒山、六甲山、愛宕山、淀川と続いた大毎野鳥の会開催だけでなく、榎本の著書『野鳥便覧』出版記念会の世話や野鳥の会大阪支部観察会への参加、会報への執筆など、日本野鳥の会の活動にも深くかかわっていった。

 1941年には事業部長に昇進したが、43年4月大腸がんで死去した。山口の発病、死とともに大毎野鳥の会の活動は衰滅していった。時局の影もあっただろう。阪大病院での臨終の枕頭には事業部員全員が立った。西宮市甲子園の自宅で執り行われた告別式には、中西ほか大勢の日本野鳥の会関係者が参列したという。

 同会発行の『野鳥』誌は、同年6月号を山口追悼の特集号とし、その中で榎本は箕面の山地でのやりとりの中で「山口氏は例の快活な口調で『左はヤブサメ右はヒヨドリ』と唱えてニコニコしている。次に何を言うのかと待っていると『中をとりもつヒカリヌス』と付け加えて、愉快そうに笑っておられる。私の頭の髪が少なくなって光っていることから思いつかれた一句で」などと回想している。二人の気の置けない関係がうかがえる一コマだ。

 大毎野鳥の会の活動は山口なくしてはあり得なかっただろうが、山口の活動を許容する大毎の土壌には、今でいうメセナが趣味とまで言われた本山彦一社長が亡くなってまださほど経っておらず、本山精神が社の中にまだ脈打っていたのではないか。それが証拠に野鳥の会中京支部結成(1939年)の中心になったのは当時の名古屋総局長ら大毎のメンバーだった。

 写真は納家・野鳥の会大阪支部長の講演で使われたパワーポイント資料から許可を得て引用した。

                          (元社会部 藤田 修二)