2022.03.29
閑・感・観~寄稿コーナー~
平成21年(2009年)に発行された、母校・観音寺第一高等学校(香川県)の同窓会誌を読んでいると母校の先輩・横山信二郎氏がサンデー毎日150万部発行時代に、出版部部長として深く関係していたことを知った。そこで、興味を持って同窓会誌「燧」の情報や2002年(平成14年)に発行された「毎日の3世紀 ― 新聞が見つめた激流の130年」で、その経緯を調べてみた。
サンデー毎日は「毎日の3世紀」別巻の「出版」203ページからの記事によると、最初に発行されたのが1922年(大正11年)4月2日(日曜日)創刊となっている。朝日新聞も同年4月、毎日に追随して毎日より1週間遅れで週刊朝日を発行したとある。創刊号は30万部印刷して(うち3割を無代とし)、その後、25万2000部が固まった数字となり、当時の営業局長の話では、驚くべき好成績であったとある。それ以来、サンデー毎日と週刊朝日の激烈な競争が続く中、発行部数を増やしていったようだ。
「毎日の3世紀」下巻・第5章のコラムによると、以下のような記載がある。
見出しは「サンデー毎日156万部を突破」
「日本最古の週刊誌として、週刊朝日と競り合っていたサンデー毎日は、1954年(昭和29年)の新年号で「百万部突破記念」をうたっている。1950年(昭和25年)には約30万部だったのだから、まさに破竹の勢いというべきだろう。ホンネ・ジャーナリズムとしての役割が定着しただけではなく、いくつもの要素が複合的に力を発揮して、読者をひきつけた」
1950年に始まった「ラッキー.サンデーくじ」、1950年に始まった「ラッキーサンデー·クイズ」(クロスワード)、創刊30周年記念(1951年)の「百万円懸賞小説」募集など、読者からのレスポンスを盛んにする企画もその一つだった。
連載小説の人気も部数増に貢献したし、雑誌づくりの姿勢が実用主義的になったことも影響した。野村尚吾著「週刊誌50年」(毎日新聞社刊)によると、1953年の後半からは重要な記事は編集部員が直接取材し、執筆するようになった。サンデーの記者が自分でプランを練り、狙いを絞って、事件や人物、社会現象などを取材し書いていくようになったのである。「キンゼイ報告・女性編」(1953年8月16日号)に始まる「性典もの」「性科学もの」はタブーだったセックスを正面から見据える特集で、女性からも支持された。この後に「十代もの」が続いて、学生やOLにも読者層を広げていく。
それまでは新聞社の専売特許だった週刊誌に、出版社が乗り出し始めたのもこのころである。1956年の週刊新潮に続いて、1958年に週刊大衆、週刊明星、女性自身、1959年には週刊文集、週刊現代、週刊平凡が創刊される。週刊新潮が通説を破って健闘したことが出版社を刺激し、一挙に週刊誌時代がやってきたのである。サンデー毎日は、このころ週刊朝日を抜いて、週ごとに印刷部数の記録を更新した。
1959年(昭和34年)は岩戸景気にわき「消費は美徳」という言葉が流行した。前年の11月、皇太子妃に正田美智子さんが内定と発表され、サンデー毎日は皇太子のロマンス」を毎号のように取り上げる。社会部記者の古谷糸子がスクープした清宮内親王と島津久水氏の婚約が、皇室ブームに拍車をかけた。4月19日にはご成婚特集の増大号、4月10日号のご成婚模様を伝える4月26日号はグラビヤ特集と「世界の眼このご結婚に集まる」という特集を組んだ。この号は156万7000部を発行、ついに週刊誌のトップに立った。
この数字は総合週刊誌の発行部数としては、いまだに破られていない。
以上は編集や企画面から見たサンデー毎日の150万部発行という金字塔であるようだが、当時出版部長だった先輩OBの横山信二郎氏の活躍も、金字塔に大いに貢献したようだ。その様子が観一高同窓会誌「燧」34号(平成21年発行)特集:先輩に学ぶ「鼎談」の中で、当時販売部で横山信二郎氏の部下だった、先輩OB・高橋達氏(現在96歳)が述懐している。また、この鼎談には先輩OB・故 岸井寿郎さん(元毎日新聞社政治部長)を父に持つ岸井成格氏(当時は毎日新聞社特別編集委員)が父の名代として参加されている。
先輩OBの横山信二郎氏は、1954年(昭和29年)東京本社販売第一副部長から出版業務部長に転籍され、出版局全盛時代の立役者となっている。高橋氏の述懐によると、当時の新聞社では編集と販売は憧れの職場、それが出版業務部長への配置替りになり、烈火のごとく怒っていた。この怒りをバネにして、それこそ「仕事の鬼」となって、サンデー毎日黄金時代を樹立した。昭和31年(1956年)には「週刊朝日」を抜き、週刊誌としての金字塔を建立したとある。
週刊誌は売店の目立つ所にいかに置くかで勝負が決まる。ポンコツの車で売店廻りを徹底し、売り子のオバチャンにそっと記念品を渡し、サンデーはこの角のところヘネと目立つ場所に置き替えた。そのタイミングと動作が明るく抜群なため、売店で大人気だった。これで部数を大幅に伸ばした。コンビニやスーパーでも「陳列場所が命ですからね」と言っていた。
また、販売の鬼もさることながら、企画の立案と遂行力もすさまじかった。企画力とその実行力は抜群でした。当時の文豪古川英治さんを口説きサンデー毎日の目玉として名を高め、有吉佐和子「恍惚の人」、山崎豊子「白い巨塔」などと一世を風靡し、一躍文壇のビーローとして世に出し、次々とクリーンピットさせた。
「当時としては編集や販売から外されることは、左遷であったようで恨んでいましたが、晩年になって、出版局に行って本当に良かったと述懐していた」とある。
ただ、この原稿を投稿するにあたり、メディアのデジタル化が急速に進む中、サンデー毎日の現在の発行部数が気になるところである。
横山信二郎氏(毎日新聞社社友)と高橋達氏(終身名誉職員)の経歴について調べてみた。
※横山信二郎 明治42年3月生まれ。三豊中学(現観一高)22回卒
昭和10年4月10日 営業局雇員に登用。東京本社販売部計算課
16年7月31日 臨時応召
21年9月10日 応召解除
22年8月16日 東京本社販売第一部副部長
29年12月1日 東京本社出版業務部長
35年10月1日 中部本社営業局長
41年1月21日 出版局長(東京)
43年1月22日 常勤監査役
44年1月22日 退任(毎日新聞社 社友)
平成13年3月16日 死亡
※高橋 達 大正15年7月生まれ。三豊中学(現観一高)40回卒
昭和38年2月1日 東京本社販売部
44年2月1日 東京本社販売部副部長
49年2月1日 東京本社販売第二部長
53年2月1日 東京本社販売局次長
54年2月1日 東京本社資材本部長
56年3月31日 繰り上げ定年退職(終身名誉職員、現在96歳)
(元制作局通信システム部・小野 喬啓)