2022.02.26
閑・感・観~寄稿コーナー~
2002年11月4日の余禄は、大阪在勤の論説委員だった私が担当した。新しく見つかった小惑星の名前に、20もの関西にちなむ名前がついたという内容。経済などで地盤沈下が進む関西を元気づける狙いだった。
名前の中に「学天則(かくてんそく)」があった。西村真琴((1883~1956)が大阪毎日新聞の学芸部記者だった時、「日本初のロボット」を作り、その名前が学天則だった。
西村の業績は多岐る。毎日新聞創刊130年にあたって「毎日の3世紀」が発刊され、西村の記事を書いた縁で、亡き先輩とのかかわりがいくつもでき、誇らしく感じた。いくつか紹介する。混沌とした今の世界で、西村の思想が生かされるべきだと思うからだ。
西村は北海道帝国大学の教授だったが、本山彦一社長に請われて1927年、記者に転身した。28年に大礼記念京都大博覧会が開かれ、大毎は西村が製作した人造人間「学天則」を出品した。
空気を動力とし、音楽が流れると半身像が光を発しながら動き、観客を驚かせた。チェコのカレル・チャペックが戯曲「R.U.R」でロボットを登場させて、わずか8年後だった。
学天則は行方不明になったが、88年によみがえる。学天則が悪の超能力者と戦う映画「帝都物語」が封切られた。原作は荒俣宏のSF小説。映画では西村の役を、水戸黄門役でおなじみの長男・西村晃が演じた。
映画で使った学天則は、大阪市立科学館が引き取り、エントランスに展示した。「大阪の科学史のエポック」と位置付けたからだ。小惑星の名前は命名権を譲り受けた科学館がつけた。星となった大先輩の足跡を、はるか後輩が記事化する不思議さを喜んだ。
西村は大阪毎日新聞社会事業団に移る。上海事変の最中、中国の文豪、魯迅との間に、ハトを介した友情が生まれた。
西村は事変後の32年2月6日、負傷した人たちを治療する医療団を率いて上海に行った。市郊外の三義里で飛べなくなったハトを見つけ、「三義」と名づけ、日本に持ち帰った。
ハトは死んだが、西村は魯迅に手紙を書いた。「三義に二世が生まれたら、日中友好のあかしとして送るつもりだった」とし、歌を添えた。「西東国こそ異(ちが)へ小鳩等らは親善(したしみ)あへり一つ巣箱に」
魯迅は感激し、七言律詩を返す、最後の2行が名高い。「度盡劫波兄弟在 相逢一笑泯恩讐」(荒波を渡って行けば兄弟がいる。会って笑えば恩讐は消える)。「戦火の中の友情は」は教科書にも載った。
上海事変から70年を経た2002年、大阪府豊中市立公民館の敷地に、この七言律詩の石碑が建立された。西村は豊中市に住み、大毎を退職後は豊中市議となった。豊中市日中友好協会が西村を顕彰する活動に乗り出し、石碑もその一環だった。石碑の除幕式の記事は、私が書くことになった。
日中戦争の最中の1939年、西村は中国に渡る。戦争で親を失った中国の子どもたちを養育するためだった、68人を日本に連れ帰り、四天王寺悲田院で養育してもらった。太平洋戦争開戦前には子どもたちを中国に返した。これだけでも誇るべき話だが、豊中市議会の議事録に後日談が残っている。
ある市議が復員軍人から聞いたエピソードを披露した。軍人が終戦後、中国・葫蘆(ころ)島から引き揚げる際、青年が一生懸命手伝ってくれた。礼を言うと青年は「お礼は西村真琴先生に」と答えたという。68人の戦争孤児の1人だった。
西村は保育にも力を入れ、「日本のフレーベル」と呼ばれた。全日本保育連盟を結成し、社会事業団に事務局を置いた。37年に月刊誌「保育」を創刊し、41年12月の56号で幕を閉じた。月刊誌は毎日新聞に残っていたが痛みがひどく、大阪府立図書館に修復をお願いした。この役目も私が担当し、目を通す機会を得たが、子どもに託して命の尊さをうたい、戦時色を感じさせない内容に感じいった。
2014年に豊中市で、「西村真琴と魯迅」と題した展覧会とシンポジウムが開かれた。中国・上海魯迅記念館、大阪府日中友好協会などが主催した。ただ、開催までに約10年かかった。
記念館の学芸員が西村の調査で来日し、毎日新聞大阪本社も訪れ、その成果をもとに上海の記念館で展覧会を企画した。ところが日中の間に荒波が立って、開催直前に中止になった。数年後、今度は日本での開催が決まったが、再び荒波に押し流された。豊中での催しは、3度目の正直だった。
シンポでは中国から王錫栄・記念館館長や魯迅の孫、日本側から西村の孫がパネリストとして加わった。司会は私が頼まれた。最後は王館長が七言律詩を中国語で区切りながら読み、会場を埋めた人が声を合わせ、それを追いかけた。
今も日中の間で波が立っている。だからこそ、西村の業績は意味を持つ。中国では律詩の最後の2行が語り継がれている。毎日新聞で後に続く者にとって、学ぶことが多いのではないか。世界のいたる所で波は荒れている。
(元地方部 梶川伸)