閑・感・観~寄稿コーナー~
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元校閲部副部長、赤川博敏さん(85)が、歴史探偵、半藤一利さんとの近所づき合いの想い出を綴る=東京毎友会のHPから

2022.02.16

閑・感・観~寄稿コーナー~

 「大の男が、テレビ(カメラの前)で泣くなんて、みっともないですよね」。我が家のお向かいの作家で歴 史探偵の半藤一利さんが亡くなって1年になる。

 21年1月12日午後、外出先から帰宅すると、商店街の外れ、自宅に曲がる路地の角に救急車が止まってる。もしや? と、思いながら帰ると、玄関に救急隊員、お巡りさんらが、あゝやっぱり。「一応伺ったけど取り込んでいるので……」と妻。救急隊員に確認したが「プライバシーなので」と。当たり前のことだが、当方もかなり狼狽していた。

 20数年にわたる半藤さんとのお付き合いの思い出が走馬灯のように駆け巡った。25、6年前になるか、以前は一軒家だったがその前半分の土地(40坪くらいか?)で工事が始まった。先ず地下工事が、大工さんに聞くと「何でも有名な作家で、地階全体を書庫に」と、大変な蔵書だなと驚かされた。まもなく瀟洒な家が完成した。

 知り合いのきっかけは今でも記憶がない。というより日常生活の中で自然にお付き合いが始まった。多分、夏目漱石のお孫さんの末利子夫人との何気ない日常の会話が、きっかけだったと思う。ご夫婦ともとても気さくな人というのが第一印象だった。

世田谷区にある半藤一利さんの自宅

 さて冒頭の言葉だが。2001年10、11月NHK教育TV(Eテレ)「人間講座」で半藤さんの「清張さんと司馬さん」という8回連続講座があった。その最終講、松本清張の話の最中、突然絶句、目を真っ赤にして涙が。その翌朝、「講座終わりましたね」と夫人との会話のなかでの言葉である。みっともないは、ひょっとしたら「情けないですよね」だったかも(意外に言葉は結構きつい)。「ただね、主人は清張さんには特別の思い入れがあったようですよ」とも。

 講座のなかで、半藤さんはカナダ、アメリカへの取材旅行のことに触れている。旅に出て参るのは、(清張さんが)酒を飲まないこと。夕食のとき、(こっちが)楽しみにしているビールを1杯か2杯あけないうちに、さっさと食事をすませ、「さあ、今日の取材について、部屋で大いに語り合おう」とくる。いじきたない呑兵衛は閉口する。3、4日して堪忍袋の緒が切れて「清張さん!たまにはゆっくりとビールを飲ましてくれ」と。翌日カナダからアメリカに飛ぶ空港で清張さんがソフトクリームを両手に、「これでも食べて機嫌を直して……」と。

 そして最終回で1992(平成4)年4月20日、松本邸に取材に行き、翌21日3時の取材を約束した。その夜脳出血で倒れ、入院。取材は叶わなかった。清張さんのスケジュール表に「21日3時、文春」と書かれている。その話の時に、絶句となった。日頃の半藤さんは長身で度の強いメガネをかけ、いかつい感じであったが、顔を合わすと、にこやかな表情で対応してくれた。ときに、文春文士劇の半纏を着て下駄履きで、近所の古本屋に立ち寄ったりしていた。

 末利子夫人とは羨ましいほど仲がよかった。「一生幸せにするから、結婚して欲しい」と口説かれた、と夫人は述懐している。自宅の隣に5坪くらいの洋風サロンができた。半藤さん「女房の希望なのでね」とポツリ。ここは編集者との打ち合わせに使われていた。

 よく夫婦連れ立って食事にも。駅近くの居酒屋「K庵」(今はない)、蕎麦屋、創業50年近いP喫茶店(よく編集者との打ち合わせに利用していた=下写真)、下北沢の寿司屋など。時に出会う場合もあった。

 ある時寿司屋でばったり。挨拶したら夫人が「あなた、あの本を差し上げたら」と。翌朝、早速、サイン入りの著書「幕末史」(2008年刊)をいただいた。夫人のメモで「いつもご迷惑おかけして、相手が野良ですから、また迷惑を……」と。実は当時付近に野良猫がかなり多く、夫人が野良猫数匹に時折餌をやっていて、いついてしまった。

 さすが「吾輩は猫である」のお孫さんだな、と変な感心をした。ある深夜、ブザーがなった。こんな夜更けに、と出るとご夫妻が心配顔で。「実は猫がいなくなって」と半藤さん。もしやガレージかも、と開けると猫が飛び出した。その時の半藤さんのホッとした表情は忘れられない。

 半藤さんの著書に初めて接したのは「日本のいちばん長い日」。半藤さんからは著書を何冊かいただいた。末利子夫人からも最初の著書「夏目家の糠みそ」(2000年)をはじめ、出版ごとにいただいている。「糠みそ」にはわれわれ夫婦が2度取り上げられている。

 半藤さん2019年8月、某新聞社での対談後食事をして帰宅途中自宅近くで転倒、大腿骨骨折した。それ以後亡くなるまで入退院とリハビリを繰り返した。20年9月、国勢調査の用紙を届けた時会ったのが最後になった。あの転倒はハイヤーで送ってもらったのに家まで乗りつけるのが憚られて途中で歩いての転倒。やはり半藤さんはシャイだったのだ。

 末利子夫人は「酒好きで意地汚く呑んで事故を再三起こしたのですよ。今後一切呑ませません」と。身に覚えのある私にとっては耳の痛い話だった。そんなことで、あるとき、「赤川さん、お酒いただいたけど、主人には飲ませないのでお酒もらってくれない?」と声をかけられた。お宅に行くと「宅急便の箱開けて、どうぞ」と。開けると八海山の純米酒。

 どうやら醸造元の広報誌への原稿の謝礼のようだった。半藤さんの歴史探偵の原点は45年3月10日の東京大空襲で九死に一生を得たことだと思う(「15歳の東京大空襲」筑摩書房)。そして8月15日を境に「『絶対』という言葉は絶対に使わない」きめた。あの戦争で日本国民は悲惨な体験をさせられたからである。死の前夜、半藤さんは夫人に「起きている?」と声をかけ、「日本人は悪くないんだよ」「墨子を読みなさい。2500年前の時代に戦争をしてはいけないん、と言っているんだよ。偉いだろう」(「墨子よみがえる」平凡社=右)と。これが「遺言」だったのでは、と思う。

 そして遺作ともいうべき『戦争というもの』(PHP21年5月25日刊)が出た。これは孫の北村淳子さんが初めて編集を手がけたものである。骨折で入院中に半藤さん自身が企画したもので、「太平洋戦争 記憶してほしい名言37」あるいは「孫に知ってほしい太平洋戦争の名言37」彼女が編集することが条件だった。病院のベッドで企画の主旨を滔滔と伝えた。最終的には14項目しか書かれなかった。この遺作の末尾に『戦争は、国家を豹変させる、歴史を学ぶ意味はそこにある。半藤一利』と力強い筆致で書かれている。

今、安倍、菅、岸田と続く自公政権は戦争への道を再び歩もうとしている。多少なりともあの戦争の悲惨さを経験した者として、決して許す訳にはいかない。半藤さんの願いも含めて、もうひと踏ん張りしなければ、と思う。

 最後に「サンデー毎日」2月6日号に末利子夫人の特別寄稿が載っている。それによると夫婦で熱烈なヤクルトフアンで、ヤクルトの優勝を見せてあげたかった、と。つい先日、夫人に12月にわれわれ仲間で優勝祝賀会をやったんですよ、と話すとうれしそうな笑顔を見せられた。

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 半藤一利さん没後の2021年5月10日に刊行された「墨子よみがえる」(平凡社ライブラリー)で、半藤さんは「いまの日本にいる“墨子”」について、次のように書いています。

 ここでまた余分なことながら書いておきたいことがまたまた思いつかれた。中村哲さんのことである。このあいだ、編集者のおろくにせっつかれて、現代日本でただ一人の仙人たる安野光雅画伯と、在野にありながら司馬遷の『史記』に関しては他の追随を許さない学識をもつ中村憠(すなお)さんとの座談をまとめた「『史記』と日本人」(平凡社)を上梓した。

 そのとき安野さんも中村さんも異口同音に「現代日本に墨子が存在するとすれば、それは中村哲さんをおいて他にいない」と推輓した。その中村哲さんである。まったく一面識もない人であるが、書物やテレビで知るかぎり、まさに世のため人のために奮闘努力し、われら現代人の手本ともしたい人で、わたくしもお二人の言に心から同感した。

                                (赤川 博敏)

・赤川博敏さんは1962年、大阪本社入社。大阪販売局(当時営業局)販売部(販売担当員)、77年編集局校閲部に異動、副部長。91年調査審議室編集委員。92年退社。
※福島清さん編集の機関紙「KOMOK会報第71号」から転載

=東京毎友会のホームページから2022年2月2日

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