閑・感・観~寄稿コーナー~
SALON

今も生きる「平和の鐘」への思い(松倉 展人)

2021.11.16

閑・感・観~寄稿コーナー~

 70年前の1951年10月末。西ベルリン(当時)に立つソ連軍戦勝記念塔の前で、4人の男が記念写真に納まった。左からフレーミング・UP(現UPI)通信ベルリン支局長、警備のソ連兵、毎日新聞の渡辺善一郎・ヨーロッパ移動特派員(いずれも肩書は当時)、愛媛県宇和島市からやってきた中川千代治さん。中川さんは今も国連本部にある「平和の鐘」の生みの親だ。渡辺さんは後に「中川さんと『平和の鐘』の件は、私にとって終生忘れ得ぬ思い出になった」とつづっている。

 中川さんは太平洋戦争中の1942年、ビルマ(現ミャンマー)戦線で所属部隊がほぼ全滅した経験と、「自分だけ生き残った申し訳なさ」から、一生をかけて不戦を訴えた。戦後、日本が国連に加盟する機運を盛り上げるための財団法人「日本国連協会」代表として、51年の国連総会に自費でオブザーバー参加。さらに平和の鐘を造るため、欧州各国でコインやメダルを集めた。寄付金を集めるのでなく、趣旨に賛同してくれた人々の生活の汗がこもったコイン一つを出してくれればよい。そんな考えだった。

 そうして訪れた西ドイツ。フランクフルトで泊まったホテルで渡辺さんに出会う。渡辺さんが93年に「愛媛の文化第31号」に記した「国連『平和の鐘』初一念を貫いた無名の人 中川千代治」によると、中川さんはこう力説したという。

 「私は、だれにでも世界絶対平和の意味が具象的に理解できるよう『平和の鐘』(Peace Bell)、つまり日本の梵鐘をついて平和を祈ることを考えたのです」「第2次大戦で日本は原爆の洗礼を受けた。このおそろしい犠牲と悲劇は、英知あるはずの人類にとって最大の汚点だ。なぜ戦争を繰り返さねばならないのか。それはひいては人間の心の問題だ」「自分は世界人類を大戦争の危機から救うため人間の心に響く実像的なものをつくりたい。それは『平和の鐘』である。この鐘を国連本部に寄付して、高らかに響かせることにより世界平和への思いを呼びかけたい」

 渡辺さんは「まじめに語れば語るほど、『少しおかしいのではないか』、何か特定団体のヒモ付きか、あるいは商売に利用するのかーーそうした疑念は、当初私も感じたものだった」と明かす。フランクフルト滞在中、中川さんから「平和の鐘」について「波状攻撃をかけられた」とも。仕事で西ベルリンに飛ぶ渡辺さんに「ぜひ一緒に連れて行ってもらいたい。冷戦の焦点ベルリンこそ平和を訴える場だ」。中川さんは懇願した。

 そして冒頭の場面。「警備のソ連兵と一緒に写真もとったし、若い将校に『平和の鐘』のことも話してみた。あてはしなかったものの、そのソ連将校がポケットからカペイカ貨をさし出したのには驚いた。中川さんの喜びようは大変なものだった」

 平和の鐘は、日本の国連加盟の2年前の54年に国連本部に贈られた。鐘楼の礎石の下には被爆地・広島と長崎の土が収められている。

 中川さんは59年から宇和島市長を務め、72年、現職のまま66歳で死去した。「私の長

女の結婚披露宴に元気な姿を見せた中川さんと語り合ったのが最後となってしまった。人の出会いと別れ、人は何をすべきかを教えてくれた中川さんだった」。そう振り返った渡辺さん。毎日新聞英文毎日局長、大阪本社編集局長兼論説委員、常務取締役大阪本社代表を歴任し、2004年に88歳で旅立った。

 毎年9月21日の「国際平和デー」に際し、国連事務総長は式典で「平和の鐘」を鳴らす。中川さんの六女で、一般社団法人「国連平和の鐘を守る会」代表の高瀬聖子さん(73)によると、今年、グテレス事務総長は特に新型コロナウイルスや気候変動に触れて「私たちはこれまで以上に連帯を必要としている」と訴え、いつも以上に力強く鐘を打ち鳴らしたという。

           ◇

 私は愛媛に来るまで、平和の鐘のことを全く知らなかった。2015年、平和の鐘と素材を同じくする「姉妹鐘」を宇和島市で鳴らす催しを初めて取材し、中川さんの置き土産の大きさと広がりを知った。私財を投げ出して世界を巡り、平和の鐘を国連本部へ 贈るまでの行動力と強い意志。「波状攻撃」を受けた社の大先輩、渡辺さんがやがて中川さんに心酔していったことを、その後何度か、「平和の鐘」を記事にしたものとして うれしく思っている。

                      (今治通信部・松倉 展人)

1951年、西ベルリンのソ連軍戦勝記念塔の前に立つ4人=国連平和の鐘を守る会提供
国連本部で平和の鐘を鳴らす式典に臨み、グテレス事務総長(左端)らと記念写真に納まる高瀬聖子さん(右端)=2021年9月17日、国連撮影のビデオから、国連平和の鐘を守る会提供