閑・感・観~寄稿コーナー~
SALON

人生山あり・谷あり 傘寿を迎えて(田居 哲夫)

2021.11.03

閑・感・観~寄稿コーナー~

 私は昭和16年12月29日大阪市十三済生会中津病院で誕生、戦時中は母の実家淡路島のお寺に疎開。戦後、十三の家は焼失(父は十三では阪急百貨店の誂え紳士服の縫製の下請け)父は尼崎の6軒長屋の1軒に転居(何故父がこの家に住んだかは不明)。母と私は疎開先の淡路から尼崎の家へ小学生、中学生、高校は兵庫県立尼崎工業高校電気科入学、この尼崎時代の生活が楽しく80才を迎える今も鮮明に思い浮かびます。尼工電気科卒業44名で同期会”尼工会”を作り毎年飲み会、又は同期会を楽しんでおります。

 高校卒業後昭和35年4月1日、日東電工(日東電気工業株式会社)に大卒20名、高卒60名(女子20名)・当時従業員1800名程の中企業、今では株価8000円程の超優良企業、品質管理部配属全社員の半分以上が女性で毎日が楽しい職場でした。その後大阪営業所(私の希望)に転勤、営業所での生活が乱れてきて、考えなければと思っていた矢先購読していた毎日新聞で昭和39年4月1日付入社のオリンピック要員として社員を募集している事を知り受験合格したので、日東電工を退職。3年余りしか勤務してない日東電工昭和35年入社の同期会”三五会”の集まりには必ず招待を受け、毎回参加して懐かしい思い出に花を咲かせております。

 昭和39年4月1日毎日新聞社に4年遅れ22才で入社。印刷部輪転課に配属、今まで経験のした事のない輪転機の音にビックリ!しながら10月10日の第18回東京オリンピック印刷要員の1人として間に合うように研修を受ける。

 大阪本社ではオリンピック報道の為初めてのカラー印刷が始まりました。前年度は名神高速道路(西宮IC~小牧IC)が開通、又東海道新幹線もオリンピック開催の直前の10月1日に開通、私なりに日本は益々発展毎日新聞社も発展する事と思っておりました。(後年、存続の為別会社創立など思ってもなかった。)

 2交代勤務で昼勤は午前11時出勤、18時又は高知版印刷後19時退勤。夜勤は19時出勤の大阪市内版印刷終了後午前4時退勤。北門の前で営業していた屋台のラーメンと缶ビールを飲んで仮眠用のベットで就寝、又はそのまま寝ずに麻雀をして翌日の昼勤の勤務をする人、昼勤後は梅田の飲み屋街をウロウロ飲み歩き、会社のベットで眠り翌日昼勤の勤務。今の時代考える事が出来ない様な自由な(勿論会社的には認めていないが?)時代でした。

 昭和44年10月7日結婚、私27才、妻24才。尼崎で親と別居2軒続きの文化住宅を借り2年間生活。同期の飲み友達が急に家を買うとの話を聞き、それじゃ私もと高槻市の建売住宅マッチ箱を2つ重ねた3DK(会社で300万円の住宅資金を借り)の2階建ての小さな家。私は二人で住むつもりが両親がついてくると言う誤算がありましたが!

 転居して半年後、胃から吐血胃の2/3切除手術一か月の入院。その後2ケ月間の自宅療養、合計3ケ月の病気欠勤。会社の温かい配慮に感謝。

 3年間子供に恵まれなかったのが急に昭和48年1月長男誕生、49年10月長女誕生と2人の子供に恵まれ、三世代6人が住むには家が狭くなり、高槻周辺で家を探すが手頃な家が見つからず(お金さえ出せばいくらでも有るが?)、京都滋賀方面まで足をのばし探すが手頃な物件が見つからず、妻の姉夫婦が住んでいる近江八幡の住宅地の1画60坪の土地(妻の母が所有)に建てる事になり、土地代は高槻の家売却後支払う事で新築する事になり、昭和51年11月20日(社休日)に引っ越し。私だけ大阪までの通勤60分を我慢すれば、家族はゆったりとした生活が出来ると!私達夫婦、長男3才、長女1才、両親の6人での近江八幡での生活がスタートしました。

 子供達は幼小中高と県内の学校へ、長男は中学時代手塚治の漫画”ブラック・ジャック”を読んで医学部志望して受験不合格、その後京都の予備校へ入学1年後の進路相談で講師より今の成績では医学部受験は無理の判定。息子は2浪させて欲しいと、親としては2浪はしても良いが、1年間予備校に通ったので1校位受験合格してから2浪の話。地方の国立福井大学受験合格、次の予備校がなかなか決まらないので、入学手続最終日に入学金を納付して休学手続きをしに福井大へ息子もついて来て学内見学すると急に入学すると言い出し、食事付きのアパートを紹介して頂き契約して自宅へ帰宅!

 大学では柔道部・ワンダーフォーゲル部に入部して学生生活を楽しんでいる様で安心。学生生活も落着いてきたので、運転免許を取得、事故が心配では有るが中古のクレスタ(私がマークⅡ)を買い与える。3回生、4回生時センター試験を受けに帰宅、医学部を受験するがいずれも不合格。福井大工学部電子工学科卒業して就職せず帰宅。再び京都の駿台予備校に入学、再び医学部入学を目指してチャレンジする息子に親としてエールを送りたい。

一年後平成9年3月福井医科大医学部合格通知、家族全員で祝杯をあげる。これから6年間又福井での大学生活が始まる。目標のスタートに立つことが出来た事本当に良かったと思う。

 2学年下の娘は中学生の時から看護師になりたいとの希望があり、高卒後、近江八幡に帰って来る事を条件に東京都立看護専門学校に入学。学校の寮に入寮してのびののびと東京での学生生活を楽しんだようです。

 卒業後地元で就職するか心配になり、卒業半年前にトヨタのスポーツカー”セリカ”を購入冬休みに帰宅時練習運転。平成7年5月正看護師の免許取得。近江八幡市民病院に就職、親としてひと安心。その後滋賀医科大学付属病院に転職、平成13年結婚、平成15年1月長男誕生元気に成長、次男平成17年4月誕生。生後5日目に心臓に異常が見つかり、救急車で京都府立医科大学小児医療センターに搬送。生後5日から2才迄での間に3回の心臓の手術(延べ250日の入院)。その結果左手、左足と脳に軽い障害が残る、本当に悔しく残念な思いでいっぱいです。障害が残ったと言え孫の心臓の手術はこれで終わったと思ったが、後年生死を分ける心臓の手術を施術しなければならないとは夢にも思わなかった。

 娘夫婦は今後祖父母の手助けが必要と実家の近くに家を新築転居。(おじぃ、おばぁ)は毎日2人の孫の世話(私は平成15年3月31日高速オフを退職済)。障害者教育に熱い学区外の幼稚園、小学校に入園入学、毎日誰かが車で送迎(娘夫婦は共働きで変則勤務の為)。先生方にも恵まれ元気よく通園、通学。

 平成23年5月20日に三男坊が誕生、次男坊の暁くんも弟の誕生に喜んでいた矢先、小学3年生平成26年5月27日、京都府立医科大学小児医療センターに4度目の入院。12時間に及ぶ心臓手術で意識不明の状態でPICUで治療、意識不明昏睡状態が20日程続き、PICU室で午前、午後各20分の面会で目が少し開いた、手の指が少し動いた、今日も生きている、生きる為に闘っている孫!、

 術後30日でPICU室からHCU集中治療室に移る意識は少し回復したが人口呼吸器、胃ろう、腸ろうは着けたまま、入院102日目で滋賀守山小児医療センターに転院、59日間入院して退院。手術して5ケ月半の入院生活本当に”暁君”よく頑張ったね、

 両親も小6の”兄貴響君” 三男坊の”慧”くん”も頑張ったね。障害は残っても生きていれば! 暁が生まれて9年間お世話になった京都府立医科大学小児医療センター、県立守山医療センター、済生会病院、八幡医療センターの医師、看護師の皆様に感謝の気持ちでいっぱいです。幼、小学校の園長、校長各先生方の励ましのお見舞いありがとうございました。 家族にとって人生最大の谷を乗り越えた、此れからは山に向かって!

 息子も平成15年3月福井医科大卒業、(私も息子の卒業同じ平成15年3月31日高速オフセットを退職) 。付属病院で2年間研修医として勤務。その後福井日赤に勤務。平成19年3月30日退職して翌日の3月31日に結婚。翌日4月1日から福井医科大博士課程入学再び学生生活へ。生活費は県内6病院でアルバイト?で充分生活出来るので心配しなくても大丈夫との事!

 平成24年無事博士後期課程修了、福大付属病院に勤務、その後血液専門医、感染症専門医、総合内科専門医、リュウマチ専門医と各専門医の資格を取得、子供(長女、長男)にも恵まれ親とし一安心。令和2年8月頃滋賀に家を建てたいとの相談があり実家の近江八幡より草津市の方が便利。草津市内の分譲地2区画を購入し令和元年3月完成転居。親との同居20年間、福井での生活26年、本当に福井が故郷みたいで福井に感謝です。                            

 新築工事中に草津総合病院(現淡海医療センターに改称)に令和元年4月1日血液内科部長として勤務する事に決まる。2020年(令和2年)1月15日に日本で初めてコロナ感染症患者が見つかり、1月末のダイヤモンドプリンセス号て゛コロナ感染症のクラスターが発生、国中大騒ぎ。勤務した病院では理事の医師と2人で県内初めての地域外来検査センター、コロナ専用病床設置等が決まり理事の医師の指導の下感染症専門医として貴重な経験をした事と思います。親として感染しないか心配をしながら1日も早い終息を願っております。

 令和元年10月(2019年)私達夫婦は結婚50年金婚式を迎えたので、子供達から金婚式のお祝いに海外旅行をプレゼントするので(孫の送迎があるので娘婿の長期休暇がある年末年始、春休み、盆休み)等を利用しての割高旅行?息子の嫁が平成元年3月25日から4月1日(8日間)飛行機で成田~香港~シンガポールからクィン・メリー号でマレー半島周遊のコースで申し込んで、旅行代金の内金を納付。パスポート申請交付を受け、ところが1月末ツーリストより最小催行人員不足の為旅行中止の連絡がありました。

 飛行機嫌いの私が初めての海外旅行に勇気を出して挑戦しましたが”中止”や。はり私には海外旅行は縁が無いものと諦めとヤレヤレという気持ちでした。

 その後、娘から同じ様な船旅が有るので申し込むと、今度は関空発でほとんど同じコースでクルーズ。船名はクワンタム・オブ・ザ・シーズ号、168000トン、長さ348m、幅41m、乗客4100人、乗員1900人と超巨大客船。旅行費用は全額息子と娘からの金婚式へのプレゼント。お祝いを有難く頂く事にしました。

 令和元年12月27日早朝”はるか”で関空駅へ。10時30分発香港着の予定が香港は学生の民主化運動最中で急遽ベトナムのホーチミン空港着に変更。税関での入出国手続き、シンガポール航空でシンガポール着又税関で入国手続き、延べ7時間20分の飛行に耐えて市内のホテルに宿泊ヤレヤレ。1日目にして疲労気味! 

 翌朝28日同じツーリストでの申込者(香川県のO夫妻)と(大阪市のT夫妻)の紹介を受け旅行中は同行動する。2日目はオプションでシンガポール市内観光。国立オーチャド公園、写真TVでしか見たことのない空に浮かんでいるプール”マリーナベイサンズホテル”、口から水を飛ばしている”マーライオン”ロチェー運河の超高層ビルと古い2階建ての新旧の街並み、チャイナタウン、シンガポール最大のイスラム教寺院”サルタン・モスク”等忙しくガイドの案内後、待望の豪華巨大クルーズ船に乗船手続きをして乗船。

 私達は海側パルコニー付き客室に入室、大きなスクリーンTV、化粧鏡台、3点セット、ロッカー、ツインベット、洗面シャワー、トイレ等、部屋の広さ設備など充分満足する部屋でした。船内で利用出来る(シーパスカード)を発行して頂く。船内レストランはメインダイニングは5ヶ所。その他レストランカフェ18ヶ所バー、ラウンジが5ヶ所、シアター、15、16デッキの各種のプール。

 夕食だけはメインダイニングでルーム席次メンバー(3家族6人)が決まっていて、食事、その他軽食ソフトドリンクのほとんどが無料(アルコールは有料)で食事時間以外も営業。ディナー料理はメニューから2~3品注文(和食はなし)。後はシェフまかせ。楽しい旅にシャンパンで乾杯。それぞれ好きなお酒、私はビール(キリン、アサヒ、日本酒等ナシ)。O、T夫妻はボトルでワイン、なんだか私が田舎者の感じ。1時間30分の食事が終わり、船内の見学。

 船内の豪華巨大さにビックリ。夫人達はショプ街へ。男性はデッキ3のカジノロイヤルへ。シーパスカードで3万円分のチップを買い、T氏指導のもとルーレットを楽しむ。ブラックジャック、スロットマシン等あっという間に負けてしまう!カジノは船が航海中(船は次の目的地まで夜航海)の時だけ営業。

 翌日の目的地マレーシア・クアラルンプールに向け航海。12月29日クアラルンプール入港。バスで市内観光。一番の目玉は超高層ビル高さ452mのペトロナス・ツインタワー。1棟は日本の建設会社が建てたとの事。

 町の中はイスラム教寺院、ヒンドゥー教寺院、中国寺院など大小の寺院が建ち並んでいる。食事はスパイスの効いたマレー料理、カレーを主としたインド料理、海鮮を使った中華料理と多種多様な食事が楽しめます。

 翌30日(深夜航海して)ペナン入港。世界遺産の街ジョージタウン、ビーチ、ペナン植物園など見学。翌31日(終夜航海して)タイのプーケットへ。タイ最大の島で港へ接岸出来ないので、テンダーボート(小型船)で島へ上陸。島全体がリゾートビーチ。T夫妻はビーチで遊泳、O夫妻は象に乗ってジャングル内を散策。テンダーボートで本船へ31日の夕食は正装してのディナー。カウントダウンでハッピーニューイヤー。外人は深夜まで騒いでいた。終夜航海。

 翌2020年1月1日、終日船内のプールでの遊泳、サーフィン、ノーススター(90mのクレーン)シァターでのショー、食べ歩き等。シンガポール入港、下船手続き。再度市内観光。

 20時45分発シンガポール航空でホーチミン経由1月3日7:00関空着。最後の入国手続き。わずか8日間の海外旅行でしたが、4ヶ国訪問、船内での会話、税関手続き時の会話(英語、中国語、マレー、タイ語)。時には腹が立ったり、英語が少しでも理解出来れば(T、O氏は度胸で片言で会話)と思いました。3日の昼前八幡の自宅に帰宅。息子、娘家族9人に迎えられ、日本に帰って来た実感は、5人の孫を抱きしめて初めて湧いてきました。

 8日間初めての海外旅行で感じた事は”私は井のなかの蛙”だと言う事! でも今更生き方を変えられず!私にとっては蛙でもいい”日本が最高”だと言う事を再認識した事! これからも家族と共に!

 傘寿を迎え残された少ない人生に悔いの無いように生きたいと思います。

                  (高速オフセット出向・田居 哲夫)