閑・感・観~寄稿コーナー~
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日本の国字が守られた重大秘話(入口 邦孝)

2021.08.14

閑・感・観~寄稿コーナー~

 1945年(昭和20年)8月15日の太平洋戦争の敗戦で、私たちが、何の懸念もなく当たり前に使っている日本の国字が、連合国側の占領統治政策の中で廃止され、文章のローマ字化とともに公用語が英語化されようとしていました。戦前には日本が統治した外地で日本語教育が行われましたが、それと同様なことが行われようとしていたのです。

 公用語が英語化されるということは、あらゆる公的な文書がすべて英語化されることであり、学校教育も教科書とともに使われる素材は全てローマ字化、英語化されます。国内の地名や案内などあらゆる表記はすべてローマ字化されてしまいます。国字だけでなく話しことばも当面は日本語でしょうが、ごく短い間に英語化してしまうでしょう。現在でも、パソコンなどのローマ字による日本語入力を、日本人は瞬く間に身に着けたように、国民はローマ字化、公用語の英語化を短期間に達成すると思われますし、2世代も経てば漢字を読めなくなるでしょう。

 日本の2000年以上にも及ぶ単一民族としての古来から積み上げられてきた歴史と文化や伝統は、疎遠になり、漢字が読めなくなれば歴史書としての古事記や日本書紀、万葉集や古今和歌集、源氏物語や枕草子など多くの文学書を読むことが難しくなります。そのうちに、日本の古来からのあらゆる文化と途絶していくことになるのではと思われます。

 太平洋戦争の終結となる降伏調印式が行われ、まさに連合国による占領政策が始まろうとする前夜に、この日本の危機を救った、アメリカ側も予期しなかった劇的な交渉が行われました。このあらかたの動きを知り、守られたかけがえのない日本語と日本国字を、大切に後世に残していきたいものです。

 

<日本国字の英語化の危機>

 東京湾のアメリカ戦艦ミズーリ号上で降伏調印式をした昭和20年(1945年)9月2日の夕刻、当時横浜税関に置かれたGHQ(連合軍最高司令部)が外務省終戦連絡横浜事務局の鈴木局長を呼び、占領政策担当のマーシャル少将から、下記の3布告を指令第1号とし、翌3日午前6時に発令する、と通告された。(3日午前10時発令、ともいわれる)

=3布告の概略=

・公用語の英語化 → ※ローマ字化を含む

・司法含む軍政 → ※司法、立法、行政の全権

・軍票の発行 → ※日本通貨廃止、軍票B円を使用

 鈴木局長は内容に驚くとともに、一方的な発令に反対するとして、政府に連絡をとるまで布告発令を待つようにと返答した。鈴木局長からの報告を受けた東久邇宮内閣は、発令までに時間が無い中を緊急閣議を招集し、急遽終戦連絡中央事務局岡崎長官を横浜に派遣した。既に深夜となっていて横浜税関にあるGHQは閉鎖されていたが、担当官のマーシャル陸軍少将の宿泊先のホテルを突き止め、岡崎長官はマーシャル少将を起こして深夜の会談を行い、「日本政府を介さず直接公布するのはポツダム宣言に違反している」と激しく抗議して、発令を6時間遅らせた。

 

※東久邇宮内閣=8月15日の終戦日の内閣である鈴木貫太郎内閣の総辞職を受けて、8月17日東久邇宮稔彦王を首相として発足し、当面を乗り切って同年10月に総辞職した。

※ポツダム宣言中の関係要旨

第10項 日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきである。

第12項 日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。

第13項 日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。

 

 発令を遅らせた間に日本政府は緊急閣議を継続し、岡崎終戦連絡中央事務局長官に加えて降伏文書に調印した重光葵外相を横浜のGHQに派遣、連合軍総司令官マッカーサーと会談させた。マッカーサー総司令官は「日本は無条件降伏したので、占領軍の指令に従うべきである」と真っ向から相対したが、重光外相は、「ポツダム宣言は日本政府を認めている。日本政府を経ずに布告は出来ない。この布告はポツダム宣言を無視した日本国家の消滅を図るものである」として、布告の中止を求めた。重光外相のポツダム宣言が日本政府の存在を認めているとねばり強い説得に、最終的にマッカーサー総司令官は「布告は日本政府から出しても良い」と認めた。そして、予定した布告は「日本政府への命令」に変更され、遂に3布告は発令直前に撤回された。

 日本国政府を認知させ、軍政の回避とともに、日本の国字を守ったことは、日本にとっては、まさに「歴史的重大秘話」である。日本国字が守られたことは、日本の国が始まって以来、先人が築き上げてきた日本の文化・伝統が守られた瞬間でもある。こうして、重光葵外相によって、GHQの直接統治による植民地化と国字の英語化から、日本は守られた。

 

※GHQはその後間もなく東京都内の第一生命ビルに移った。

 

<GHQ布告撤回後のGHQの対応>

 その後も、GHQ内では日本語のローマ字化の論議が続いたが、昭和20年12月、マッカーサーにより論議は一時中断した。しかし、GHQの民間情報教育局では諦めることなく、次の考え方により、検討が続けられた。

・日本国民が軍国主義を受け入れた原因は、教育不足にある。

・教育不足の原因は、言語がひらがな、カタカナ、漢字混じりの複雑さにあり、言語習得が非常に困難である。

・ローマ字化すれば言語習得が容易となり、教育レベルが向上する。

 昭和21年(1946年)3月31日、アメリカ教育使節団が来日し、言語改革報告書をGHQに提出し、学校教育の漢字の弊害とローマ字の利便性を指摘した。内容はわからないが、これを見たマッカーサー総司令官は「あまりにも遠大で、今後の研究や教育への指針に過ぎない」と評した、という。

 

<ローマ字化に対する日本政府の対応>

 GHQのローマ字化の動きに対し、日本政府は、直ちに漢字制限を推進する方向で対応を始めた。これはGHQを刺激しないように、暗にローマ字化を避けようとした、といわれる。

・昭和20年(1945年)11月27日、文部省国語審議会は漢字主査委員会を設置。標準漢字表の再検討開始。(動植物名は仮名に、固有名詞は別途策定など)  

・昭和21年(1946年)11月16日、内閣告示として「当用漢字表」を制定し文字数を1850字とした。

 

※「当用」とは、GHQに配慮しローマ字化を前提としながら、当面使用を制限する意。

 

・昭和23年(1948年)2月16日、内閣告示として、更に「当用漢字音訓表」と「当用漢字別表」を制定した。

・昭和23年(1948年)8月10日、GHQ民間情報教育局がローマ字化資料とするための調査を指示。文部省は「日本人の読み書き能力調査」を実施した。  

=調査結果=

・1948年(昭和23年)8月8日~26日

    ・15歳~64歳、16,820人(男女半数)=物資配給台帳からランダム抽出。

    ・平均点 78.3点(20歳~24歳 86.3点)=90点満点。

    ・識字率 97.9%  ※識字率の算定は15歳以上の総人口比(ユネスコによる)。

 その結果、世界的にも高い識字率に、GHQは日本語のローマ字化を撤回し、終戦以来の一連のローマ字化問題に終止符を打った。

・当用漢字の「当用」については、昭和56年(1981年)10月1日、内閣告示で「常用漢字表」と名称をあらため1,945字を制定し、「当用」の表現も廃止した。

 

<国内新聞社や文人の反応>

・読売新聞=昭20.11.12社説 漢字廃止論。漢字廃止は民主主義の一翼。

・日経新聞=昭21.4.9社説 漢字学習の負担軽減とローマ字化は別問題。

・毎日新聞=昭21.4.16社説 伝統に執着しては文化国家として向上なし。

・志賀直哉=昭21.4 「改造」4月号での「国語問題」の中で、日本語を廃止し、世界で最も美しいと言われるフランス語を採用するべき、と主張した。

 上記は直接確認したわけではないが、明治維新後、諸外国の文化に触れるにあたって、文学者だけでなく明治政府初代文部大臣森有禮(ありのり)ら政界要人の中にも、日本語の見直し論者が居たようで、志賀直哉もその影響を受けたものと思われる。

 

 以上が「日本国字が守られた重大秘話」のあらましと、その後の動きです。

 

 終戦時の昭和20年(1945年)8月は、私は国民学校4年生で、縁故疎開して和歌山県粉河町に居ました。当時の国民学校の運動場は一面芋畑で、私ら生徒のすることは、学校の便所からし尿を汲んで運動場の芋畑に撒いたり、防空壕を造るために山で切り出した材木をロープで括って山道を曳いて帰ったりで、勉強をした記憶はあまりありません。

 ある時は畑でグラマン戦闘機の機銃掃射を受け、伏せたすぐ横を銃弾が土煙をあげて走った恐ろしい経験もありますし、戦闘機は紀の川に沿って上がってくるらしく大きな燃料の補助タンクが降ってきたこともありました。終戦の放送を聞いた8月15日は、雲一つ無い抜けるような青空に日本の飛行機が1機飛んでいたのを鮮やかに覚えています。

 今は、戦争を経験しない戦後の1世代2世代の人たちがほとんどで、日本語や国字のことなどは当たり前のことであり、またそれで良いのです。私が上記の「重大秘話」を知ったのは成人してからですが、その後は、毎年8月の終戦記念日が来るたびに、降伏調印した敗戦と占領の異常な状況の中で、重光外相と終戦連絡事務局の二人が必死の思いで占領軍に臆することなく日本の言語や国字を守り切ったことを思い、戦時や終戦時のことを少し経験しているだけに、「重大秘話」による今の日本があることに、いつもその感慨と感謝の念が沸くのを覚えるのです。ご存じの方があれば、とても嬉しいです。

                             (元印刷局・入口 邦孝)

毎日新聞社「戦後50年」の1945年のページの一部