閑・感・観~寄稿コーナー~
SALON

盲人と大学(高橋 實)

2020.12.20

閑・感・観~寄稿コーナー~

高橋實さん

◇大学の抜粋と私事

 毎日新聞社発行の『点字毎日』(以下「点毎」と略)がさる2020年7月26日記念すべき5000号を迎え、企画「対談5000号に思う」に私も参加させて頂き、思い出と期待を楽しく熱く語らせてもらいました。

 私はこの「点毎」に1960年4月~1986年7月まで「盲人記者」として思う存分働かせてもらいました。私のモットーは「ハンディキャップを補う為には知恵を出す」でしたから、自分の企画でも随分苦労もしました。定年後は「飛んで火にいる夏の虫」でしたが、気力と努力が強いられ、また、退任後は頼まれもしない仕事を作り出して、最後は今年にずれ込みましたが、なんとか皆様の支えでやり果せたと満足しております。

 「終わりよければ全てよし」ではありませんが、去る11月1日には思いもしなかった第57回点字毎日文化賞を丸山昌宏社長から頂くことができ、感謝しております。嬉しさのあまり賞の内容を紹介します。

 

 あなたは長年にわたり視覚障害者福祉の向上に関わってこられました

 なかでも後進のため学習環境の向上職域の拡大を願い多様な活動で多くの成果を残されました

 点字毎日記者として昭和時代の紙面の充実にも貢献されました

 その功績をたたえ第五十七回点字毎日文化賞を贈ります

 

 恵まれたことに、これまでに10ヶ所ほどから賞を頂き、皆様に喜んで頂きましたが、今回は旭川盲(小)、札幌盲(中)、岩手盲(高)の先輩や後輩からもお祝いの手紙や電話を頂き、中には「機会をつくって、あなたの顔(肖像盾)を触らせてほしい」という楽しい声もあり、「これで2021年7月21日の卒寿を元気で迎えられれば」と願っている私です。

 今春、毎友会のハガキに「『盲人と大学-門戸開放70周年記念誌』の監修を終えてホッとしています」と一言書き添えましたら、「その内容についてでも他のことでも紹介欄があるのでぜひ」というご丁寧なお手紙を頂きました。しかし、雑用と体調がもう一つでご好意に応えられずにおりました。しかし、年を越すことは心苦しいので、本書の抜粋と私事を書かせていただき、読んでいただければ幸いです。私はインターネットは使っていません。

 

◇点毎時代を振り返って

 1972年「点毎創刊50年記念」で『激動の半世紀-日本盲人の歩み』の連載と単行本化では、50年間の点毎2600週分を半年かけて一人読みしてA4版800頁(1頁は450字前後)にまとめあげた時には、出版事業本部長賞を頂いたのも感激でしたが、毎夜飲み歩きを自粛して北門付けのタクシーで帰宅していたことも忘れられない思い出です。

 今では、ITの目覚しい発展で驚くことではありませんが、1970年代東京のNHK出版が出していた月刊誌『きょうの料理』の点字版を同時出版したいと考え、同社の協力で実現したことです。NHKで責了になったゲラを航空便で送ってもらい、それを私の秘書の井下直美さんが梅田の営業所まで取りに行き、持ち帰り、彼女が点訳して校正・印刷・製本・発送までをクリアしたことです。3年ほど続けましたが、読者から歓迎され私は有頂天でしたが、スタッフはどれほど大変だったかは想像以上だったと思います。

 パソコン点訳が普及する頃までは「点字本は墨字本より半年以上は遅れて出るのが当たり前」の時代でしたが、それを徹底的に短縮して話題の本を希望者に届けることをモットーに、本社や他社から出ている図書を秘書らに点訳してもらい、出版して喜ばれたものです。ご承知のように点字は表音文字ですから、人名など固有名詞は読み方を必ず確認します。当時、朝日新聞論説委員だった大熊由紀子さんの本を点訳・出版した折、何の手違いか名前の読み方を確認しなかったのか、大熊さちこ著と点字は書いてしまい、出版してから間違いに気付き、文書で本人にお詫びしました。「名前なんてどうでもいいのよ。読んでもらえれば・・・」と許して頂きました。それがご縁で定年後の私の活動に積極的に協力してもらいました。

 1970年代後半、アメリカから墨字が読めるというオプタコン(漢字触読機)が輸入され、国立特殊教育研究所(現:国立特別支援教育総合研究所)などが中心になって、盲教育界での活用に力を入れ始めました。点毎でも「盲人にも漢字の知識を」というテーマで、漢字のかたち、読み、意味などを読み物風に書いてもらいました。「今更、盲人に漢字を押し付けてどうなる。紙面の無駄遣いだ」と最初は随分叩かれました。幸い、ワープロやパソコンの普及で連載は好評に転じ、点毎創刊60周年記念『盲人のための漢字学習辞典』(全18巻)として、全国の盲学校や希望者に寄贈し、喜ばれました。また、『盲人のための漢字入門-かな文字から点字の漢字まで』を連載し、単行本化しました。

 

◇3校目でやっと進路決まる

 そもそも私の点毎記者という進路が決まったのは1951年春、岩手盲の大堂校長のアドバイスでした。

 農家の7人兄弟の5番目で産まれながらの失明でしたが、母はそれを認められず2~3年はあらゆる所で治療や祈りをしていたようです。しかし、だめとわかってからは「見えないから出来ない子だと人様から言われたくない。子供がしたい放題の事をさせる」として、我がまま勝手なことをさせ、教育とか躾などといったことは一切しなかったものですから馬に乗ったり、豚に乗ったり、三輪車に乗ったりして村中を駆け巡っていました。裸馬に乗って滑り落ちたり、三輪車で欄干のない橋から川に落ちたり、豚は馬のようにたてがみを掴んだり、手綱がありませんから後ろ向きに乗り、尻尾を掴んで嫌がって走り回るのを喜んだりの生活でした。家族が出かけるときはほとんど連れ出し「この子は見えなくても何でもできる」と宝物のように自慢していたようです。

 旭川盲から就学通知を受けたときも「この子は近くの学校に通わせる」と言って断り、兄弟と一緒に通っていました。学校では校長先生の奥さんと遊んでいました。その母は2月盲腸の手遅れで一夜にして亡くなりました。

 父は早速旭川盲寄宿舎への手続きをして、一年遅れで4月、1年生に入学しました。当時は適齢児で入学する子供はほとんどなく、私のクラスも2つか3つ年上の通学の女子と2人でした。寮も小さいということで担任で舎館長のいる女子室でした。

 初等部は5年間で卒業したのですが、3年くらいまでは「カラスが鳴かない日があっても實さんの立たされていない日はない」といった悪がき(本人は全くそう思っていない)でした。私もみんながみんなそうであったように、三療(按摩・鍼・灸)教育一辺倒の中等部に進みました。医学と実習で、医学はまだ丸暗記すれば理解できなくてもついていけましたが、実習は肩や足を揉まれたり揉んだり、鍼も枕やバンドに刺す練習でした。興味が沸かないまま2年の夏休みを迎え、帰省していました。

 終戦で私の耳に一番先に飛び込んできたのが「職業選択の自由」でした。盲人=三療は僕の選択ではなく、押し付けではないかと気がつくと、わからずに丸暗記していた医学も、先生や仲間に触ったり触られたりの実習の嫌さから家族や先生、仲間に「選択の自由」を訴えましたが「じゃあ、何がしたいの?」と聞かれると全く答えは出ませんでしたから「それは實さんのわがまま」としか取られませんでした。2年の3学期は授業に出ず、学校の配慮で2年で退学として、その後3年余引きこもりでした。46年に甥が生まれましたので、そのお付き合いで機を紛らわしていたのかもしれません。

 47年に按摩等法の改正で、経過措置として学校の証明さえあれば三療の資格が取れるチャンスもあり、学校は薦めてくれましたが、それも断りましたが、仲間達は職業自立していくのにと幾分焦りを感じていました。

 そんな時、49年から盲ろうの義務化で、札幌に新生の盲学校が出来るというラジオのニュースを聞き、藁をも掴む思いで新中学1年生に入学しました。

 旭川同様、父が寄宿舎まで送ってくれました。車中「見えない人は安心と喜ばれる仕事だと言って三療を勉強しているのに、お前は嫌だと言う。それじゃあ何がしたいかと聞けば、わからんと言う。家族は手伝いのしようがない。これからはお前の好きな仕事を探し出す勉強をして、嫁さんも自分で探して自立できるまで借金してでも仕送りはするから、二度と世間様に迷惑をかけないようにしてくれ。」とポツリポツリと私に言った父の言葉は今も忘れることができません。

 その札幌盲は、旭川盲と違って、私が最年長でみんな中1らしく明るく楽しそうでした。教職員も新任が多く、相談できる雰囲気ではありませんでした。私は今もそうなのですが、緑茶が好きでそれを口実に夜舎館長室に行き、お茶をご馳走になりながら私の思いを話しました。舎館長は中年の女性で、小学部の家庭科の教師で厳しいということで生徒の評判は悪かったですが、私の相談には真剣に乗ってくれ、困っているようでした。

 年末になって「君の思いに寄り添ってくれるのは、岩手盲の大堂校長しかいない。晴眼で若いけれど、一度手紙を出してみては」と上書きした封筒をくれました。

 「本校は君が不得手だという三療の伝統校だ。その中で目指す目的に向かって行くという気力があるのなら、学校を挙げて応援しよう」という返事で、新年度に岩手盲の中3に転校しました。

 岩手盲では「1年かけて君と私、教頭、担任らで可能性など考えていこう」という事で始まりました。

 年末の会で校長は「君は話し上手で聞き上手だ。君も知っているだろうが、毎日新聞が発行している点字毎日は唯一の点字新聞だ。点毎の初代も今の2代目も編集長は盲人だ。君の努力次第ではなれる素質がある。点毎の記者を目指してはどうか。そのためには大学も行かなければならない。本校も普通科を設置して学習環境を作る」と話され、他の先生もエールを送ってくれました。

 

◇大学進学でも壁

 51年4月、新設された高等部普通科に進み、夜は近くの盛岡1高定時制の聴講生で学び、大学を目指しました。進学は日大法学部の夜間で、盲人が卒業していましたので躊躇なく願書は日大法学部に出しました。なんとそれが不受理で戻ってきました。びっくりしてその日の夜行で校長と一緒に上京して、地元出身の代議士と3人で法学部を訪ね、受理するよう懇願しましたが「無理」の一点張りでした。「夜間部の学生は既に理療の免許を持ち、教師として赴任先も決まっているとかで心配はなかった。君の場合、目的は理解できるが六法全書など点字も無い状況下では責任のある教育はできない。」とのことでした。

 たまたまその場を通りかかった文学部の渡辺教授が険悪な空気を読み取ったのか「文学部社会学科に願書を出し直してはどうか。社会学科の主任教授は私の後輩だから、受理するように話しておく。大学は入りさえすれば好きな講義は取れる。」という助け舟を出してくれ、私達は了解しました。入学して知ったのですが、同教授は軍事保護院で失明軍人と関わったり、点字の「進学適性検査」にも関係していました。

 当時、点字で入試をやっているところは、日大の他、同志社大と東京教育大程度でしたが、学習環境は同志社大以外は皆無で、私はドイツ語だけ会を通して有料で点訳してもらっただけです。その有料点訳者も全国で3人しかおらず、優先順位があったほどです。あとは休まず授業に出てノートを取ったり、RS(今の対面朗読)で女子学習院短大、東洋英和短大、お茶の水女子大、日本女子大の学生や、裕福な家庭の主婦らにテキストやプリントを読んでもらい、書き写す程度でした。ただ、私が恵まれていたのは、同期生で岩手盲時代、1年一緒だった中矢幸子さんがいたことです。彼女は心理学科でしたが、教養科目は相談して同じ授業を受けましたので、ノート取りなどで随分助けられました。私が進学する頃までは「大学へ進むなら、当時の東京教育大付属か京都、大阪府、名古屋から」と言われていましたので、彼女は付属盲の高等部を受験していました。私は正直、付属盲の入試をクリアできる自信もありませんでした。

 幸い盲人の大学進学は、1949年に制度として認められ、私が入学した1954年は16人、翌年は15人が入学して、門戸開放以来7年間で延べ24大学に59人が進学しました。

 

◇先人たちの足跡

 戦前も多くの先人達が、身分こそ違いましたが進学していました。「点毎の創刊を促した」という好本督氏は、1900年今の一橋大を卒業していますが当時は弱視でした。また、全盲で初めて受け入れた学校は、九州学院神学部(熊本)で1911年、石松量蔵氏が入学しています。しかし、1917年鳥居徳次郎氏が同志社大に入学受験の嘆願書を提出しながらもはがき1枚で「認めない」という通知を受けたという事実は、今もなお私達の心を傷めています。貴重な資料ですから、ここにご紹介します。

 

歎願書

同志社へ提出の下書

 謹啓 前略御免下され度く

 過日恩師鳥居嘉三郎先生を通して御依頼御相談申上げ候 私儀、貴大学部英文科入学志望に付き、重ねて茲に小生よりも委細申述べ、御考慮を煩し度くかくわ筆取り申し候次第、悪からず御海容下され度く、願くば豊かなる御同情をたれさせられ良きに御取り計らい下され度伏して懇願仕り候

 既に鳥居先生よりも御聞き及びのことと存じ候が、小生は四才にして目を失し十二才にして京都市立盲啞院に入学 在学九年にして去る大正三年三月同院全科を卒業し ひきつづき官立東京盲学校師範科鍼按科に学ぶこと二ヶ年にして昨春業を終え、爾来当地訓盲院に職を捧ぜる者に御座り身盲せりと云えども如何にしても高等教育を受け哀れなる幾万の同胞の為に自己の天職を尽くさんとの切望は既に幼時より片時も小生の脳裏を去らざりしところ幸に小生に取りては第二の故郷たる京都の地に貴大学あるを思い且つそが他大学とは異りて基督教立にして専ら人物養成に意を注がるるを知りいかにもしてその御教導御感化にあづからんとの心押さえ難く かくは入学を志願いたし候次第に之有候。

 但し英語は明治四十二年十月より大正二年末まで京都クリスト教青年会館英語夜学校にて普通人と共に学習いたし居り、後も絶えず機会ある毎に勉学いたし候。而れども盲人として有眼者に相伍して勉強するはその困難決して些小ならざるべく 従って教職員方並びに学友諸氏の特別なる御同情と御援助を仰がざるべからざることに候へども小生の英語学校に於て少しも特別教授を受けざりし経験に徴し、又西洋及び少数には候へども高等教育を受けたる日本の盲人の実例に徴すれば、必ずしも不可能事ならずと信じ申し候 只要は諸先生の御寛大と小生自身の決心努力の如何によることにて、小生は万難を排しても素志を貫徹いたし度く覚悟いたし候 幸に小生は既に妻帯いたし有力なる後援者を有し居り 妻も衷心より小生の今回の挙に対し同意を表し居り候 依って幸に入学相叶いたる節は教科書はなるべく読ませて点字にいたすべく 筆記は点字にてすれば普通字と殆んど同等のはやさにてなし得べく候 只少し問題なるは筆答に候へどもこれとても特に筆記者を許さるるか或は答案は点字にてしたためたる後、試験官の前にて小生が読むかすればさまで難事ならざるべく 且つ遠からずタイプライターも購入する考えに候えば、ローマ字にてしたたむるを許されれば頗る容易のことに候 兎二角さまで大なるお手数と御迷惑は相かけまじく候

 なお 小生は兄弟も多く、家庭も又さまで豊かならぬことに候へば、在学中は出来得る限り今まで修め来たれる鍼按を以て生活費の一部を得つつ進みたき考へに候 この点に付いても、予め特別なる御同情を仰ぎ度く存じ候 而して幸に業成るを得ば小生は終生盲人教育研究の為に最善の努力を捧げ度く存じ居り候

 願くは小生積年の宿望を達せしめられ度く切に懇願仕り候

 されど我国にては今だ盲人高等教育の可能をすら認められず、従って盲人の為にその門戸を開きたる大学専門学校は、先に関西学院神学部・熊本神学校・早稲田大学哲学科・東京小石川神学社、その他明治・日本両大学法科等二・三を数うるのみにて その例頗る少く盲人中には空しく志を抱いてなすなき者多きことに御座り、これ誠に日本盲人の発展上遺憾至極のことと存じ候

 願くば小生の切なる衷情を御諒察下され、全日本の盲人の為にこの無理なる願いを御聞き届け下され度く、而れども本科生としては小生資格これなく候につき選科生として入学御許可相成り度く而し盲人の入学たるや学校に於ても又小生に於ても始めての試みに候へば兎二角聴講生として一学期間試験的に入学を許され、その結果によりて第二学期より選科編入を御許し下されても小生は満足に候

 右申し上げ候次第、願くは御諒察御同情下され、幾重にも御援助の程繰り返し懇願に及び候。いづれ其内鳥居先生よりも又々御相談下さることと存じ候へども右に付き先生の御考も承るを得ば誠によろこばしく存じ候

 右謹んでお願い申し上げ候

   大正六年二月二十七日       鳥居篤治郎

 原田先生

 

 鳥居先生は、1970年に76歳で亡くなられたのですが、当時の日本盲人会連合(現:日本視覚障害者団体連合会 以下『日盲連』と略)・京都盲の副校長・京都市の名誉市民・京都ライトハウスの創設者でした。

 多分、点毎創刊号からの愛読者ではないでしょうか。1965年東京本社が有楽町から竹橋に新築移転の折に「点毎の東京移転問題」が組合から聞かされ、私以外のスタッフ10数人は関西ですから「反対」でした。私は正直「総論反対、内心賛成」でしたが、印刷がヘレンケラー協会の入っている早稲田別館で、編集営業も社内で場所が二転三転していましたので、将来に不安は残っていました。いつの間にか「移転」が決まり、私の住処も決めてくれ、見にも行きました。

 最初から点毎に好意的な知識人は反対を表明していましたが、ある日、鳥居先生から呼ばれ「高橋さんには酷な事だけれど」と断りを入れ「点毎の東京移転は将来に禍根を残す。社の本心はわからないが、点毎は大阪に生まれ、点毎文化は大阪で継承されていくもので、東京では育たない。高橋さんは辛いだろうけどダメ元でいいから再検討するように努力してもらえんか」と言われ、翌日上京してさる人に「鳥居先生の言葉」として伝えました。偶然かどうかはわかりませんが、しばらくして「点毎東京移転は永遠になし」という発表がありました。

 話は横道に逸れましたが、1918年には東京女子大が斉藤百合氏の入学を認めています。彼女は入学後、本科英文学科→高等学部→大学部英文学科と進学し、5年間余り在学しました。彼女の入学当時の様子を「光に向かって咲け-斉藤百合の生涯」(粟津キヨ著、岩波新書)に次のように述べられています。

 

 「当時はまだ盲青年の大学入学もほとんど認められていなかった。まして百合は盲女子であり、その上主婦であり、大正5年8月に長女久美が生まれていたから、幼児を持つ母でもあった。年も28歳になっていた。経済的にも決して裕福とはいえない。そのような不利な条件ばかりそろった中で、“盲婦人の地位向上”という熱情だけをただ一つ振りかざしてみても入学を認められるはずはないと思わぬわけでもなかった。しかし夫は『やれるだけやってみるんだね』といって、百合の無謀としか言いようのない女子大学への望みに理解を示し、励ましてくれた。(中略)入学試験は、口頭で行われた。面接の時、学長代理の安井てつ学監は、いきなり言った。『ここは勉学の意気に燃えているお嬢さんたちの集まる所です。結婚しているめくらの女が、大きなお腹にでもなったら、どんな勉強ができるというのですか。』覚悟はしてきたのだったが、こんな言い方をされようとは思わなかった。しかし、こうまであからさまに言われると、彼女の気持ちはかえって落ち着き、相手が聞いているかどうかどっちを向いているのかもわからなかったが、言いたいことだけは言おうと思った。盲女子の置かれている社会的地位がいかに低いか、それを高める為に1人でも2人でも高等教育を受けたい。いや、受けなければならないのです。と、百合は喋るだけ喋って帰ってきた。それから1週間後、東京女子大から『特別生として入学を許可する』という文面の速達便が届いた。すでに諦めていた百合は、その手紙を胸に抱いて声をあげて泣いた。」とあります。

 

 このように戦前期、それぞれ身分は違いますが、数多くの大先輩たちがいたのです。

 

◇就職浪人二年で点毎記者に

 私は高校大学の7年間、会う人ごとに「点毎記者になる」ことを公言し、点毎に投稿したり、時には点毎から取材の依頼をされたりで、卒業後入社できるものと決め込んでいました。ですから「入社当初は晴眼記者と肩を並べて仕事をするには2人3脚でいくしかない」と思い、卒業見込みのついたところで結婚しました。その後、日本点字図書館長の本間一夫先生と3人で点毎編集長を訪ね、正式にチャレンジさせて下さい、とお願いしました。ところが、編集長からは「君の才能は認めるが、点毎の定員枠がなく、当分採用の予定はない」という予想もつかなかった返事で、私は大ショックで二の句がつげませんでした。しかし、本間先生は帰り際「高橋さんは必ず記者になって予想以上の仕事をする人だ。それまでの2人の生活は私達が支えるから諦めないで」と激励してくれました。

 浪人中は点字図書館の点訳書の校正や製本、聖明福祉協会からは家庭訪問で点字の指導や家族の相談事に対応するなどの仕事を頂き、記者業で経験できないことを沢山させてもらいました。

 浪人2年後の1960年、点毎に採用された折の面接で私は「大小の差こそあれ、仲間たちは進路、進学、学習、就職で苦渋を舐めてきた。このようなことを後輩には味あわせたくないので、公私共にこの問題と取り組んでいきたい。」と訴え賛同を得ました。

 私が卒業した年に日本盲大学生会が自然消滅したことで、これによって折角開かれた大学や、進学生の減少によって門戸が狭まりかねないことと、向学心に燃えた若者が進学して職業選択ができるよう、職域開拓をしなければならないと浪人時代に考えていましたから、編集長の回答は、記者生活に一層の意欲がわいてきました。

                                                                                                                                                         (元点字毎日・高橋 實)

「盲人と大学」

 

◇盲人と大学―門戸開放70周年記念 抜粋

目次

発刊にあたって 髙橋實 ………………………………………………………………… i

祝辞 文部科学省視学官 青木隆一 …………………………………………………… 1

祝辞 社会福祉法人 聖明福祉協会会長 本間昭雄 ………………………………… 3

 

第1部 記念講演会

 日本盲大学生会の自然消滅と文月会の果たした役割

 社会福祉法人 日本失明者協会理事長 茂木幹央 ……………………………… 7

 二重障害と通信教育 

 元・大阪市立盲学校教諭 藤野高明 …………………………………‥………… 12

 インクルーシブ教育から大学進学 

 独立行政法人 国際協力機構(JICA)職員 福地健太郎 ………………… 16

 視覚障害学生の卒業後の進路について ― 70年間の変遷と今後の課題 ―

 社会福祉法人 日本盲人福祉委員会常務理事 指田忠司 ……………………… 23

 現場の教師から見る進学と就職の現状と課題

 筑波大学附属視覚特別支援学校 石井裕志 …………………………………… 27

 講演会での質疑 ………………………………………………………………………… 31

第2部 門戸開放から40年

 まえがき  ……………………………………………………………………………… 39

 前史(明治時代末から1948〔昭和23〕年まで)…………………………………… 41

 第1期 大学進学の開拓期(1949〔昭和24〕年から

  1955〔同30〕年まで)……………………………………………………………… 45

 第2期 大学進学の後退期(1956〔昭和31〕年から

  1964〔同39〕年まで)……………………………………………………………… 60

 第3期 大学の門戸開放運動期(1965〔昭和40〕年

  から1970〔同45〕年まで)………………………………………………………… 67

 第4期 点字受験の促進期(1971〔昭和46〕年から

  1976〔同51〕年まで)……………………………………………………………… 79

 第5期 雇用促進運動の展開期(1977〔昭和52〕年から

  1982〔同57〕年まで)……………………………………………………………… 99

 第6期 大学の門戸開放促進期(1983〔昭和58〕年から

  1988〔同63〕年まで)……………………………………………………………… 103

第3部 最近の30年を8人のインタビューで明らかにする

 Ⅰ はじめに ………………………………………………………………………… 135

 Ⅱ 1990年代の動向とこの時代を生きた視覚障害学生 ………………………… 135

  1 1990年代の動向 ……………………………………………………………… 135

  2 1990年代を生きた視覚障害学生 …………………………………………… 136

    1.藤下直美さん …………………………………………………………… 136

    2.大胡田誠さん …………………………………………………………… 142

    3.伊藤丈人さん …………………………………………………………… 148

 Ⅲ 2000年代の視覚障害大学生 …………………………………………………… 152

  1 2000年代の動向 ……………………………………………………………… 152

  2 2000年代を生きた視覚障害大学生 ………………………………………… 153

    4.澤村祐司さん …………………………………………………………… 153

    5.森下美帆さん …………………………………………………………… 156

    6.板原愛さん ……………………………………………………………… 161

    7.山口凌河さん …………………………………………………………… 168

    8.菅田利佳さん …………………………………………………………… 172

 Ⅳ まとめ 事例からこの30年の歩みを振り返る ……………………………… 179

 

巻末資料1.鳥居篤治郎氏の同志社への嘆願書と

 鳥居伊都夫人の手紙 ……………………………………………………………… 187

 巻末資料2.第一回全国盲大学生大会開催要項(抜粋) ………………………… 190

 巻末資料3.文月会から社会福祉法人視覚障害者支援総合センター

 (2019年)(略史)…………………………………………………………………… 193

巻末資料4.視覚障害者の雇用促進運動略史 ― 文月会ならびに

 全国視覚障害者雇用促進連絡会(雇用連)の活動を中心に ………………… 215

 巻末資料5.故人五人の遺産  ………………………………………………………… 223

 巻頭言 ふたつの祈り 勝川武  ………………………………………………… 223

 センターと私の『事始め』 星伊久江 ………………………………………… 224

 「縁の下」生活者の手記 当山啓 ……………………………………………… 226

 進学と雇用促進で共闘 西岡恒也 ……………………………………………… 228

 視覚障害者の教職への採用について ―― 特に全盲および

 強度弱視者の場合 高田剛 ……………………………………………………… 230

 協賛団体・企業 個人の皆さま ………………………………………………………… 233

 

◇発刊にあたって 

      実行委員長  髙橋 實

 昨秋、東京から「司法試験に板原さんという盲女性が点字で合格した。大阪出身だということだけれど、知ってる?」という電話をもらい、心当たりを調べて驚きました。元文月会仲間の板原さんのお嬢さん、愛さんとわかりました。また、新年になって菅田利佳さんが東京大学に推薦入学で合格したことを知り、またまた驚きました。本当に嬉しいことです。

 利佳さんは、ピアノが好きで、和歌山盲学校小6の頃大阪で開いた点譜連セミナーにお母さんと来られ、「点字楽譜を覚えたいが教えてもらえない。転校してでも勉強したい」と言っておりました。その後「中学で習えるようになった」という連絡を受けホッとしていました。3年後「一般校に入りました」と明るい声の電話があったきりでしたから、「音大を目指しているのかなぁ」と思っていましたら、なんと予想外の朗報でした。

 愛さんは地域の小学校から筑波大学附属盲学校の中高に進み1年浪人後、青山学院大学に進学。司法試験を目指して早稲田大学に入り、2度目で難関を突破しました。

 1949(昭和24)年の大学門戸開放以来1988(昭和63)年までの40年間は、このような情報は文月会や視覚障害者支援総合センターが、盲学校をはじめ各方面の協力を得て調査して、『視覚障害』やマスコミでニュースとして取り上げ、社会の関心を高め、盲人の地位向上と開拓者魂を持ち続けてもらえるよう学習支援を行っていました。

 しかし、時代の推移とともに「個人情報保護」という思想が定着して、盲学校や当事者の協力は得られにくくなりました。幸い1990(平成2)年から全国盲学校長会などが中心になって、「大学進学問題」を専門に取り組むシステムができたことで、私たちが行ってきた「大学進学希望調査」「大学合格者一覧」「卒業後の就職調査」などは取りやめました。

 それまでは「点字入試を認めていますか」とか、「視覚障害者の入試を認めてください。点字作業については責任を持ちますから」とかいった文章を全国の大学に出したりするなど、文書活動や時には大学まで出かけたこともあります。金沢大学と「視力制限」を話し合うため、4~5人で出かけた帰りに、雪吊りで有名な兼六園で食事をしたことは今も覚えています。

 進学も門戸開放の1年目は6人、2年目は3人、3年目は4人でしたから、卒業後の問題はあまりおきなかったようですが、1952(昭和27)年は7人、翌年は8人、そして私の進学した1954(昭和29)年は16人、翌年は15人と二桁の進学でしたから、職域が広がっていないのですから、飽和状態になって当然です。

 私は進学前に、日本大学の二部を出て平塚盲学校の理療科教師をしておられた志村さんを訪ねて「心構え」を聞きました。「君は三療の免許を持っていないのだからアルバイトは無理だ。進学校でない岩手盲学校なのだから友達といっても少ない。都会暮らしは孤立しかねない。学習環境は皆無だけれど真面目に授業に出ていれば卒業はできるがコネがない。経済的破綻と精神的な孤独から脱落する人が多くなる。君は点字毎日記者を目指しているようだが、いらんお世話かもしれないが相手にも事情があるかもしれない」としこたま脅され(当時は)ましたが、進学して先輩の言うことがすべて当たっていて就職浪人2年もしました。ですから、決めつけるのは問題ですが脱落者もいましたし、バイトをしながら卒業にまでこぎつけても、行き先がないという仲間が結構いました。

 このようなことから、「1日の先輩」として私たち仲間の大半が「就職浪人」「Uターン」といった苦渋を、後に続く人たちに味わわせたくないという思いで、なりふり構わず「職域開拓」に1990年代まで取り組みました。文月会と全視協で「視覚障害者雇用促進連絡会(雇用連)」を組織して文部省・厚生省・労働省・人事院・自治体などに足繁く陳情し、国会にも4回請願書を提出しました。1回は衆参両院本会議において全会派一致で採択されました。もちろん法的には効力はありませんが、行政・立法・司法関係者の意識改革と社会問題化させ運動は一層盛り上がりました。その波及効果は予想以上のものだったと思います。

 80年から90年までの11年間は1年に1回は衆参両院の本会議か各委員会で「点字と視覚障害者について」の熱気に満ちた質疑が総理大臣を巻き込んで行われたことは歴史に残る当事者を中心とした運動の成果だと思います。地方公務員・普通校教員採用・司法試験・国家公務員をはじめ各種資格試験に点字を導入させた実績は雇用連の熱意と行動だったと思います。

 これも「個人情報保護」という壁に阻まれ、新職域希望者を見いだせなくなり雇用連は構成を変えざるを得ませんでした。

 板原さんや菅田さんのように能力と体力・努力・周辺の協力などを持ち合わせた人たちがたくさんおられると思います。見よう見まねのできない「見る文化」に恵まれない視覚障害者の社会的地位はまだまだ低いのです。

 いつかある偉い人が「多くの国民が現状に満足し、将来のことを考えていないのが今の日本だ」と言われていました。「何」を指してコメントされたかはわかりませんが、少なくとも「合理的配慮」などいろいろ私たち視覚障害者をバックアップする制度はできつつあります。これらに満足して声を上げ行動することに躊躇してはいられない時代だと思います。努力することを惜しまず、何らかの形でお互いが意識の共有を図り連帯感を持って邁進することを、忘れてはならないと思います。

 今年は記念すべき令和元年です。私たち元文月会がこの年に記念すべきことはないかと考えあぐねていたときに、ふと板原愛さんと菅田利佳さんのことを思い出し「盲人の大学門戸開放70年の中に諸先輩とともにこの若い女性たちもいる」という事業を行いたいと思い、榑松・田中・本間・茂木さんらに呼びかけ賛同を経て実行委員会を立ち上げることができました。また、日盲委をはじめ13団体と4人の皆様から高額のご協賛をいただきました。協賛くださっているタナカ印刷(株)様から活字書製作費の請求書をいただいたほかは点字書製作・発送を含めてすべてはボランティアで労力と知力の提供をお願いいたしました。

 記念誌の構成はお二人の「祝辞」に続き、第1部は去る7月20日、日点で行われた5人の「講演」と「質疑」。第2部は谷合侑さんがまとめ執筆された「視覚障害者と大学」シリーズ1『門戸開放40年の歩み』(平成3年4月1日文月会盲学生情報センター発行)を転載。第3部は元筑波大学附属盲学校教諭の大内進さんに門戸開放40年後から今日までの「30年間」の背景と流れを当事者8人の取材を通して状況を知ることができればとお願いしました。そして、「巻末資料」となっております。

 資料3と資料4は第2部とだぶっている部分がありますが、編集上やむを得ませんでした。また、資料5については、まだまだたくさんの方の文章を「文月会資料」から転載したかったのですが、紙数の関係で断念しました。すべての人たちが文月会の活動に多大な力と期待を与えてくださっていました。

 鳥居イト夫人(資料1)が1974年1月14日付の手紙の中で「これからまた60年先(2033年)はどんなことになりますのやら、楽しみでもございます」と書かれていましたが、私も同感です。若い人たちが諸先輩の生きざまをそれぞれの立場で受け止め継承していただければ、これ以上の喜びはありません。

 記念誌は全国の盲学校・日盲社協加盟の情報サービス部会など関係者に寄贈させていただきますので、ご活用ください。

 本当にありがとうございました。

                                   2019(令和元)年12月27日

                                   (元点字毎日・高橋 實)

◇Ⅳ まとめ 事例からこの30年の歩みを振り返る

 本報告は、1990年頃から現在までの30年の間に大学に進学した視覚障害者の方々を対象におこなったインタビューをもとにまとめた。数少ないケースではあったが、ご協力いただいた皆さんには、ご自身の体験に基づいて大学進学に至るまでの経緯や視覚障害がある学生としての大学生活について語っていただいた。皆さんから伺った回答を概観すると、この30年という時間経過の中で大きく変わったことがある一方で、大学生活を送る上では、時代が変わっても大事にしていかなければならないことも浮かび上がり、「不易流行」があることを思い知らされた。

 まず、流行の方であるが、何よりも大学の受け入れ態勢が大きく変わった点を挙げておく必要があるだろう。非常に大きなターニングポイントは、平成28年4月に「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」(「障害者差別解消法」)が施行されたことである。これにより、障害を理由とする不当な差別的取扱いの禁止や合理的配慮の提供が法的に義務ないし努力義務とされ、大学・短期大学・高等専門学校においても一定の取組が求められることとなった。この結果、障害学生を積極的に受け入れる大学が増えてきて、視覚に障害があっても、大学を受験すること自体のハードルがとても低くなってきたといえる。また、「障害者差別解消法」の批准をきっかけとして「合理的配慮」への対応の理解が進み、ハード面・ソフト面での整備も進み、入学後の当事者の負担も軽減されるようになってきた。さらに国レベルでの働きかけもあって、トップダウンで大学の教員や職員の姿勢も変わりつつある。また、2000年前後から、推薦・AOなどの特別選抜が注目され選抜方式が多様になってきたことも大学進学に影響しているようである。こうした近年の変化は、インタビューのエピソードからも読み取ることができた。

 しかし、障害者差別解消法が施策課題になる以前の組織的な動きは鈍かった。この報告では2000年を一つの区切りとしたが、確かに1990年代は、受験できる大学が限られていた。入学後もテキストの点訳を自分で手配していたなど、より自助努力が求められていたなどの声が聞かれたように、障害学生の受け入れに対する大学等の組織的対応はどちらかというと守旧的であったといえる。

 それから、もう一つ大きく変化したのが、「情報保障」である。ICTを活用した支援技術の進展によって、視覚障害に起因する「情報障害」の問題が飛躍的に改善されてきているということである。かつては、資料収集や点訳に苦労していたが、インターネットと「音声」や「点字情報端末」等を利用することでその制約が大きく軽減されてきていることや教員や他の学生との連絡や情報共有に関連するストレスも大幅に減少してきていることなどが、インタビュー回答において具体的に示された。その意味で、これからの大学生活では、一定水準以上のICT活用能力が不可欠であり、情報リテラシーについては、視覚障害教育の分野で一層重視していかなければいけない領域だといえる。

 また、こうした状況の変化の影響で点字を利用する機会が相対的に減少してきているという実態を知ることにもなった。点字にはさまざまな有用性がある。支援技術の普及と点字の使用とが安易な形でトレードオフにならないようしていくこともこれからの大きな課題だといえる。

 次に不易の部分であるが、時代を超えて変わらないのは、本人の姿勢である。現状でも盲学校から大学に進学するケースが多いが、配慮の行き届いた環境からone of themの世界である大学で円滑に生活するためには、「合理的配慮」を超えて、本人の自立と社会参加の姿勢も求められる。その基礎となるのはコミュニケーション力だといえる。今回インタビューに協力してくださった方々は、例外なく大学生活を円滑に進めるためには「コミュニケーション」が大切であると述べられていた。

 大学に進学する視覚障害学生は、もはやチャレンジャーではない。大学を選ばなければ、大学進学が叶う状況になっている。こうした状況で、大学に進学したものの途中であきらめてしまったり、卒業はしたものの社会参加が思うにいかなかったりしている人も少なくないという声を聞くことがある。しかし、その実態は詳らかになっていない。こうしたことは視覚に障害がある学生に限ったことではないが、現代の短期間で成果が求められる社会は、視覚に障害がある人にとって、より生活しにくい社会であることは明らかである。

 大学進学の成果だけを誇っても虚しいだけである。大学進学はスタートに過ぎない。大学卒業後、視覚障害という狭い世界ではなく、共生社会構築の担い手として、一般の社会や企業の中で活躍する「チャレンジャー」と呼ぶにふさわしい人をどれだけ育てられるかが問われていることを改めて認識しておきたい。

 他方で、真の意味での視覚に障害がある人の「自立」と「社会参加」を支えていくためには、社会の意識改革も不可欠である。いわゆる「職域開拓」が古くて新しい問題のままとして進展していないのはその象徴であろう。新職業の開拓は容易ではない。既にある職業に視覚障害がある人を包含していくことこそが喫緊の課題ではないかと思われるが、これは、当事者の努力だけでは越えることはできない。大学を出た後の社会参加については、当事者だけでなく当事者と共にある盲学校や福祉機関、当事者組織が性根を据えて、社会に向けて具体的な提案をしていかなければいけない課題だと思われる。

 最後になりましたが、本報告でのインタビューに協力してくださった皆様にお礼申し上げます。

                            国立特別支援教育総合研究所名誉所員 大内 進

◇巻末資料3

文月会から社会福祉法人

視覚障害者支援総合センター(2019年)(略史)

                                                          (敬称略)

 

 1949(昭和24)年:盲人の大学進学が正式に認められ、同志社大学・日本大学・早稲田大学に合わせて6人が盲大学生として誕生した。その後、25年に3人、26年に4人がそれぞれ進学した。新憲法の下、大学の道は開かれたとは言え、失明というギャップ、幾多の困難が横たわっている。それらを見据え、解決していくためには、当事者が協力しあっていかなければならないとして、1951(昭和26)年9月、東京で日本盲大学生会が組織された。

 これは「巻末資料2」にあるように、全国盲大学生大会後に開かれたものである。盲人に大学の門戸が開放されたとは言え、まだまだ狭き門で課題は多い。その上、日本の職業は三療一辺倒の中で、盲学徒がどれほどの職域を拡げられるのかは、関係者の意識にもかかっている。盲学徒の意欲を引き出し、それを育てていくことと同時に、社会の理解を深めることが重要だと考えた日本ライトハウス創設者の岩橋武夫は、盲学徒の経済的負担を軽減しようと、東西の毎日新聞社会事業団とヘレン・ケラー財団に、一切の経費を負担しての全国盲大学生大会の開催を要望して実現した。したがって、大会参加者は付添者を含めて1泊2日の交通費と宿泊費などは主催者持ち。その大会の前後に日本盲大学生会の総会などを開いていた。

 1957(昭和32)年7月:日本盲大学生会は事実上、消滅した。盲教育関係者の「盲人は安定した三療で自立することが望ましい」という考えに、向学心に燃えた若者が反発して、27年には7人、28年は8人、29年は16人、30年は15人と進学者は増え続けた。新職域が拡がらない中で、就職先は飽和状態になり、就職浪人やUターンする人が出て、自然、進学者は激減した。また、松井新二郎、緒方一誠、青木優、尾関育三、髙橋實へと引き継がれてきた同会の委員長に、なり手がなかった。その結果、苦肉の策として、東京と関西でそれぞれ最低限の会活動をすることで、全国組織としての体をなさなくなった。

 1958(昭和33)年7月:本来なら第8回全国盲大学生大会が開催の予定だったが、主催者である東西の毎日新聞社会事業団とヘレン・ケラー財団は「学生に気迫と意欲が見られない」として大会を休止した。したがって、同時に開かれていた日本盲大学生会の事業もなくなった。それ以来、36年7月の「文月会」が組織されるまで、盲大学生は全国の情報を得られないまま、孤立した状況に置かれていた。

 1961(昭和36)年7月:大小の差こそあれ、進路・進学・学習・就職で苦悩したOB27人が大阪の太融寺に集まり、夜を徹して話し合いを行い、次のことを決めた。(1)わが国の盲人の職業教育は、まだまだ三療に偏り過ぎている。志を持つ盲人が、希望する大学に進学できるような環境作りと、その盲人が三療を含めて選択できるような職域を拡げる努力を、当事者も関係者もしなければ、盲人の未来は無い。そのような理念とビジョンを持った強固な全国組織を作り、学習即行動することによって社会の理解と支援は得られる。そのために、37年は中部地域で、38年は東部地域で、原則として7月にそれぞれ例会(総会と研修会)を開き、会員の合意を諮り、39年に再び西部地域で例会を開き、定款・名称・役員などを決める。(2)それまでの間、会名を7月にちなみ「文月会」とする。(3)役員は、この集まりを呼びかけた点字毎日(以下「点毎」という)記者の高橋實を代表委員に、幹事に兵庫盲教諭・大上康男、京盲教諭・竹内勝美、名古屋盲教諭・冨田伴七、岡崎盲教諭・勝川武らを選び、会員の相互扶助と親睦を中心に運営する。事務所は代表委員宅に置く。

 会員は、正会員・賛助会員・名誉会員。正会員は、大卒者・在学生と、本会の趣旨に賛同する人。賛助会員は、物心両面にわたって協力してくれる人。名誉会員は、本会の運営や各種事業に貢献してくれる社会的地位のある人。

 主な活動は、大学の門戸開放(第2部)と雇用関係(巻末資料4)。その他、他の組織や施設が手を染めないであろう盲人の教育・職業・福祉・文化に関わる重要なこと。

 1963(昭和38)年4月:『新時代』第1号発行。会員が全国に散在し、ややもすると孤立しがち。会員相互の距離感をなくし、連帯感を強めることなどを目的に、会員の意見や論文などを掲載する機関誌『新時代』を復刊。巻頭言「二つの祈り」(勝川武)は「巻末資料5」に掲載。墨字版は翌年、1・2号合併で発行。これは日本盲大学生会が28年~33年まで年1回発行していた雑誌。同誌も大学の門戸開放や日本盲大学生会の組織作りなどに尽力された岩橋武夫の提案で発行され、誌名も氏が決めた。「編集は学生会が行い、印刷・製本・発送はライトハウスがサービスする」ということで継続されていた。 

 1964(昭和39)年7月:京都で総会を開き、36年に決めた「37年の愛知県蒲郡市」「38年の東京都青梅市」での総会で周知徹底を図ったことや、予想以上に参加者が多く関心の高かったことなどが報告された。その後、会名を日本盲人福祉研究会(文月会)とし、「文月会」を通称とする。定款を承認した後、役員は、会長に本間一夫(日本点字図書館館長)、副会長に松井新二郎(日本盲人職能開発センター所長)、監事に本間昭雄(聖明福祉協会理事長)、代表委員に髙橋實(点毎記者)、会計に勝川武(岡崎盲教諭)を選出。組織を西部・中部・東部の3地区に分け、それぞれリーダーを中心に地区活動を通して組織の充実・強化を図る。『新時代』を年1回、西部地区委員の担当で発行するなどを決めた。

 1966(昭和41)年7月:総会で日盲委(日本盲人福祉委員会)に「盲大学生奨学金制度」と「『新時代』発行費に資金援助」を要望することなどを決めた。その後、日盲委から「愛盲十字シール協力金の中から『新時代』発行費として3万円を助成する」という回答を得た。

 1969(昭和44)年4月:聖明福祉協会創立15周年記念事業として、貸与型の「盲大学生奨学金制度」(後に「聖明・朝日盲大生奨学生制度」)を創設。毎年若干名に年額6万円を支給する。この公募と推薦を本会に委託。本間昭雄理事長が、尊敬する点毎初代中村編集長の「優れた指導者を養成するためには奨学金制度が必要だ」との記事に賛同して創設。

 1971(昭和46)年1月:会活動強化のため、啓発図書の出版を企画。1作目は、点毎が高橋實の企画により72回にわたって連載し好評だった「盲学校教育の今日と明日」の版権の無償提供を受け、『この子らとともに― 盲学校教師の実践記録』として2千冊を発注。費用は役員のポケットマネーで作業を進めた。最悪を想定して予約を取ったところ、完成前に2千冊は売り切れ、3千冊を再版して、運転資金を返済しても利益が出た。2作目は、NHKの「盲人の時間」で放送された『働く盲人たち』の活字化で、これも予想以上の速さで完売した。その後も30点以上の活字書を出して、「良書は文月会から」というキャッチフレーズとともに、在庫とチラシで日本点字図書館(以下、「日点」という。)の書庫で目立つようになった。

 1972(昭和47)年7月:総会で定款の一部を改正。(1)専門委員会の大学進学対策と就職対策に加え、調査研究と出版事業の両委員会を新設。(2)全国委員会を常任委員会、代表委員を常任委員長とし、構成は、正副会長・常任委員長・3地区と4専門委員会の正副委員長。(3)3地区のリーダーを委員長とする。(4)『新時代』17号(S47.11)からの編集は、出版事業委員会が担当する。

 『新時代』19号(S48.10)から年4回の発行で、機関誌の役割は「会報」に移し、「視覚障害に関する研究と情報誌」として一般購読に広げる。31号(S51.10)から誌名を『新時代』から『視覚障害 ― その研究と情報』に変更。41号(S54.5)から隔月刊に。173号(H13.4)から文月会の解散により、発行者は視覚障害者支援総合センターに変わる。191号(H16.4)から月刊に。346号(H29.3)で発行・編集長の髙橋實が退任。それまで「編集後記」で「晴盲の架け橋」として取り上げてきた意見や批判・提案など当事者目線で論評してきた「コラム」欄はなくなった。347号(H29.4)から編集人は星野敏康。

 1976(昭和51)年2月:NHK会長に「NHKの番組内容紹介のための点字刊行物発行のお願い」を提出。

 1977(昭和52)年9月:文部大臣に「国立大学の共通1次学力試験の実施に関するお願い」を提出。

 1978(昭和53)年1月:「大学で通信教育を受講している視覚障害者の実態調査」を実施。

 同年7月:総会で志村一男が「早急に法人化すべきである。会の使命と役割を十分果たし、その目的を達成するためには、もはや単なる任意団体では無理である。財源の確保にしても、対外的な交渉にしても、さらにいろいろな社会的活動を行う上からも、法人化は焦眉の問題である。また、専従職員を配置しなければならない。役員が片手間でやっている体制では、抜本的体質改善は望み得ない」との提案を受け、検討課題とした。

 1979(昭和54)年4月:「研究費助成制度」を創設。毎年1件ないしは2件を全国から公募。視覚障害者の職業・教育・福祉・文化・日常生活の向上・発展に寄与する独創的・実践的な研究に対し、その研究費の助成を行う。1件につき10万円。第1回は「小学校普通学級における盲児統合教育の実践的研究」の私立和光小学校教諭・平林浩。1999年まで継続した。

 同年7月:総会で「事務所の東京移転と、専従職員の配置」が議題に。いずれは都内に拠点として盲学生情報センターを創設しなければならないが、それまでの間、日点館長の配慮で「10月から事務所を日点内に移し、年度内は館長秘書が連絡係を受け持つ。55年4月から机と棚を置くスペースを借り、専用電話を引き、専従職員を採用する」ことが決定。

 1980(昭和55年)11月:筑波技術短期大学問題で以下の要望書を文部省など関係方面に送付した。(1)身障短大計画のうち、盲人の伝統職種といわれるものの研究と継承のための部門設置には、あえて反対するものではないが、一般大学などにある学科などと競合するような分野については、「盲人の高等教育は一般大学で」という本会の門戸開放運動にも支障をきたすことから、再検討を要望する。(2)特殊教育カウンセリングセンター(仮称)の設置については、全国の国公私立大学が利用できる共同利用施設として実現を望む。この問題については、58年10月にも再度要望書を送っている。

 1981(昭和56)年7月:総会で、「国際障害者年記念事業」としてミュンヘン大学法学部教授ハインリッヒ・ショラー博士(弱視)を招くことを決定。10月10日・東京(聴衆200人)、11日・名古屋(130人)、18日・大阪(130人)で講演会を開催。

 同年12月:『標準点字表記辞典』を発行。この世界では初めての辞典で、版を積み重ね、今日も実用書として評価され、会にとっては物心両面で大きな役割を果たしている。この企画から今日まで編集に関わっているのは現・日点の田中徹二理事長だけである。当時出版委員長の田中徹二は、「日本点字委員会の『改訂・日本点字表記法』の改訂作業や編集方針を横目で見ながら、表記の揺れが多すぎるので点訳ボランティアはどちらの表記に従えば良いか迷うだろう。それならいっそ、辞典を作って決めてしまえば、ボランティアは助かるだろう、という発想だったと思う。当時、本会の出版を全面的に手伝ってくれていた日点の当山啓さん(「巻末資料5」に掲載)との話の中で出てきたのだが、当然“売れる”という予感もあった。一般の書店に並んでいなければ売れないと思い、博文館新社に持ち込み、販売元として全国の書店から注文を受けられるようにしたのである。」(『日本盲人福祉研究会(文月会)の歩みと成果 ― 誕生から解散までの40年』2002)と述べている。

 1983(昭和58)年4月:日点から文月会に対し「日点の業務に差し障りが出てきているので、事務所と書庫の退去をできるだけ早く行ってほしい」との申し入れがあった。会のめざましい躍進で事務職員も2人になり、図書の出版も増えて人の出入りも多くなっていることから、「申し入れ」を受け入れるためにも「拠点を確保し、会の法人化促進」に努力することを決めた。

 同年12月:会員の研修と交流を深めるために「海外研修ツアー」を行う。第1回の「ヨーロッパ」を皮切りに、2回目は60年の「アメリカ」、3回目は62年の「オーストラリア・ニュージーランド」、4回目は67年の「アメリカ」で、いずれも近畿日本ツーリストの協力を得て実施した。

 1984(昭和59)年7月:総会で、日点の事務所の移転、盲学生情報センター設立のための募金の趣意書作り、文月会の法人化を促進するため厚生省との交渉を早めることなどを申し合わせた。

 1985(昭和60)年7月:総会で、本間会長の「これまでも会の中心的な役割を担ってきた髙橋實さんが来年7月、点毎で定年を迎え、社の慰留を受けていると言われている。それを辞退してもらい、盲学生情報センターの設立と法人化に専念してもらい、横たわる多くの問題解決に取り組んでほしい」という提案を髙橋も同意して満場一致で可決した。

 1986(昭和61)年5月:富士(現・みずほ)銀行本店で、富士記念財団が新年度から始めた「富士盲学生点訳等介助事業」の贈呈式を開催。このような奨学金制度は初めてで、すでに半年の試行テストも行われた。学生に現金を支給するのではなく、学生が、必要とするプリントやテキスト・専門書をリクエストして、それに要した費用を財団が負担する。毎年5人~8人を公募し、在学の期間1人に年30万円。その公募と運営を、設立される盲学生情報センターに委託。同様の制度を東京メイスン財団にも要望。2003年度から単年度事業として毎年10人の学生に年30万円ずつを支給していた。いずれの制度も、諸般の事情で2016年度で休止された。

 同年7月:総会で、設立をめざしている盲学生情報センターの所長に、点毎を退職した髙橋實の就任を決め、日点からの事務所と書庫の撤去を急ぐため、「盲学生情報センター開設準備室」を設け、問題解決を早めること、また本間昭雄理事長の好意で、準備室を聖明福祉協会内で11月にオープンすることなどを決めた。

 同年12月:都内高田馬場駅前で第1回盲学生情報センター設立資金街頭募金を開始。その後、新宿・渋谷・荻窪・阿佐ヶ谷・名古屋・京都・大阪などの駅前11ヶ所で募金活動を行った。

 翌年、名古屋での街頭募金に参加した金澤明二は、その時の様子を以下のように綴っている。

 盲学生に必要な資料や情報を提供して、学習・就職促進の援助をすすめるための、盲学生情報センター建設が提起され、「3年間に1千万円」の募金計画が決められたのは1984年、名古屋で開かれた総会でした。その提案を受けた時の偽らざる気持ち―それは永年にわたって視覚障害者の大学の門戸開放に努力してきた文月会として、たしかになすべき課題であることはわかるが、会員が全国に散在し、総会参加者もごく限られている組織の実態から見て、「荷の勝ちすぎた」仕事ではないのかという思いでした。そして、その後予想をはるかに越えた地価の高騰という極めてきびしい事態に直面し、募金計画も「5年間に3千万円」へと、その修正を余儀なくされました。

 とにかく、スタートした以上簡単にはおろせない、まさにやるしかない課題、そこでより幅広い市民の協力を求める方策の一つとして提起されたのが、各地区での街頭募金の計画であり、この間に東京・大阪・京都・名古屋で8回が実施されました。それまで「調査研究と会員の親睦」を軸に活動してきた文月会の多くの会員にとって、街頭に立って寄付をうったえるといったことは初めての経験であるだけに、計画の段階では「労力のわりに成果が期待できないのでは」「センターからはなれた地域ではやりにくいのでは」など、消極的な声があったことも事実です。

 私達中部地区では、名古屋で2回とりくみました。 1987年5月、ある日曜日の夕方Mデパート前で行った1回目のことです。その日は朝から雨、連絡してあった新聞社からは「こんな日だがやるのか」の電話が相つぐ状態でしたが、せっかく東京から所長を迎えたことであり、少しくらい無理をしてもということで実施にふみきりました。およそ2時間スピーカーを通してうったえる髙橋所長、会員、学生、ボランティアなど十数名の参加者の、声をからしての呼びかけが続けられました。結果は、悪天候や初めてのとまどいなどもあって、かならずしも満足のいくものではありませんでしたが、参加者から「改めて天気の良い日にぜひやろう」という声も出て、それなりの手ごたえを感じたようでした。が、それ以上に当日の模様は朝日、毎日、中日など、地元5紙によって報道され、改めてその反響の大きさを知らされました。ある老婦人から「ここ何年かにシルバー人材センターを通して働いた清掃の謝礼をためたものですが、役立ててください」と、毎回の袋に入ったそのままにずっしり重い20万300円が私のもとに届けられ、また、ある婦人からは「当日も箱に入れさせてもらったが、記事を見てあれでは気がすまないので」と、知人を介して1万円が寄せられ、また直接センターに送金されるなど、大きな感激であり勇気を与えられました。こういったエピソードは他の地区の場合にもいくつか聞かれました。そして、1988年3月に行った名古屋駅前での2回目のとりくみでは、地の利もあり参加者のなれもあって、前回の2倍以上の成果を得ることができました。

 そして今、仮住居のかたちではありながら、センターが開所にふみ切って2年、髙橋所長を先頭に続けられている地道な日常活動は高い評価を受け、決して大きくはない、しかも任意団体であるわれわれの事業に対して、物心両面の支援・協力の輪が広がっている現状をきくことは、すばらしいことです。

 街頭に立つとりくみはわずか2回でしたが、今回の経験を通じて、それを求める者自らの積極的な行動が、多くの人々の心を動かし理解を広める力であることを、実感として学びました。と同時に、こうした力の結集によって、国や行政の公的な保障の現実に結びつけていくことの必要性を痛感するこの頃です。

                                                                                                            (センター2年の歩み記念特集号、1989年10月1日)

 1987(昭和62)年1月:第1回専門点訳者実践養成講座を開講。既存の点字図書館などに属している点訳者に依頼して盲大生のプリントやテキスト・専門書の点訳を受けてきたが、「迅速」をモットーにすることでセンター直属の点訳者(後に朗読者も)の養成が急務となり、センター開設準備室主催で行った。対象は、日本語点字に熟知していて、英語・ドイツ語・フランス語・理数・音楽などに精通している人。毎週2時間、15週(以後は10週)、原則として1回以上は講座を休まないこと。年2回開講することもあったが、パソコン点訳が普及し始めたことも幸いして、学生の希望に応えることができた上に、地方公務員・教員採用・社会福祉士など各種試験や、国家公務員の受験が認められてからはⅠ種・Ⅱ種などの試験問題集など、多種多様なニーズに対応してくれた。応募者も、首都圏に限らず、京阪神はもとより北海道や九州からも飛行機を使って受講する人も多くなった。しかし、2000年代に入り、学生をはじめ点字利用者のニーズは拡がり、養成講座は2014年休止し、「点字通信教育」のみ継続している。

 利用者と点訳者の文章を紹介する。

【1989(平成元)年、武蔵野音楽大学に入学した寺西満裕美】

 私は大学にはいり、はじめてドイツ語を学び始めました。大変興昧のもてる科目になり、学校の先生に紹介していただいた参考書を、点字でほしくなりました。先輩やボランティアの方に、盲学生情報センターが依頼を受けてくださると教えていただき、早速お願いいたしました。そして、お2人に1冊ずつしていただくことになりました。ドイツ語にも略字があり、それは、英語の略字とは違うということは聞いたことがあったのですが、これまではフルスペルで点訳していただいておりました。今回、支える会で点訳していただけることになった2冊については、略字を使っていただけることになりました。また、「ドイツ語点字速解」も点訳していただき、略字も知ることができました。

 大変感謝しております。まだ、略字もすらすら出てこなかったり「速解」を見たりといった状態なので、これからがんばってノートなども略字を使用して書けるようにしていきたいと思っております。点訳していただくうえに、略字まで教えてくださるボランティアの方に感謝申しあげるとともに、このようなチャンスを作ってくださったセンターの所長様はじめ、皆様にあつくお礼申し上げます。

 今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

                   (『視覚障害者と大学-シリーズ2 学習条件整備を求めて』より)

【第2回養成講座に参加した佐々木準子の「専門点訳者実践養成講座に参加して」】

  朝日カルチャーセンターで1年間本間先生に点字の講義をうけて卒業後、昭和63年に新聞で専門点訳者養成講座の募集をみつけました。たしか新聞のコラムの点訳を送って、第2期生として英語のクラスにいれて頂いたのでした。

 同期生は7人、講師は英語点訳の本をお書きになった福井哲也先生、場所はその頃センターの事務所のあった阿佐ヶ谷のアパートの2階、急な階段をのぼった3DKでした。入ると左手が事務所、右手はお台所と食堂、奥に2部屋あって左側の所長ご夫妻のお部屋が教室でした。福井先生は華奢なお身体にリュックをせおってお見えになりました。私は英語はろくに勉強していない戦中育ち、とてもついていけないと悩みつつの勉強でしたが、休むことはなく快い緊張のうちに10回を終えました。おやつには何時もコーヒーをいれてくださって和やかな雰囲気で勉強させて頂きました。

 その頃のことで強く印象に残っているのは大学進学を志す視覚障害者の支えにと情熱を燃やされている髙橋さんと、プライバシーの殆どないようなお暮らしの中でその夢を黙々と支えていらっしゃる奥様のことでした。

 その後細々ながら点訳の仕事を続けさせて頂き感謝していることは、明るく前向きに生きる視覚障害の学生さんにいつも励まされてきたこと、そして年のはなれた若い友人に出会えたことです。

 今後センターの活動がますます視覚障害者の心のよりどころとして発展し、彼や彼女たちの将来が明るく希望に満ちたものになりますように心から願っています。

                                     (『センター10年史』より)

 同年4月:名古屋ライトハウス岩山光男理事長の紹介で、都内杉並区成田東の中村さん宅の2階(60平米)を借り、7月1日、センターのオープンを決めた。

 同年7月:待望の日本盲人福祉研究会(文月会)盲学生情報センターの看板を掲げ、日点の事務所と書庫の在庫図書なども移した。1952(昭和27)年の第2回全国盲大学生大会で「盲学生寮の設立」や1955(昭和30)年の第5回同大会で「盲大生センターの設立」が訴えられて20数年、やっと仮住まいながら自前の居を構えた。

  1988(昭和63)年4月:「盲大学生を支える会」の規則が発効。1986年からスタートした「富士盲学生点訳等介助事業」に採用された5人~8人の学生のテキスト・プリント・専門書などのリクエストが予想を遙かに超え、フリーの点訳者や図書館などに所属している点訳者らに依頼しても、「迅速」をモットーにした学習支援には応じきれなくなった。パソコン点訳が導入されはじめたが、大半の点訳者は点字タイプライターを使用していた。2年目で奨学生に採用された広瀬浩二郎が持ち込んだ「日本史」は仲村和子(センターの持ち主)が担当したが、片面書きで1万ページ(全99巻)にもなっている(今も活用されている)。当時、センター直属の点訳者、それも日本語点字に精通しているだけでなく、英語・ドイツ語・フランス語・理数・楽譜に関心のある点訳者を養成するための「盲大学生の点字テキスト・専門書保障のための講習会」を開いていたこともあって、規則を作った。朗読や墨訳を希望する学生がいたり、「寄付や雑用でお役に立ちたい」という申し出もあり、会員の対象を拡げ、会費も年間5千円以上とした。「支える会」は、盲学生情報センターから視覚障害者支援総合センターに名称も目的も変更されているが、限りなく存続している。会長は河井春穂。河井は1955年、新聞の投書で髙橋と出会い、支援者として関わっている。

 1989(平成元)年6月:第1回センターチャリティーコンサートを都内・虎ノ門ホールで開催。若い視覚障害音楽家の社会参加促進を図る目的で、専門家の賛助出演も受けてコンサートを盛り上げようという企画。7回を通して星伊久江が指導する女声コーラス「コール・トゥインクルスター」の賛助出演と星のチケットさばきで、7回とも大成功裡に終わった。特に1回目は、それこそバケツをひっくり返したような大雨だったが、1千人以上の会場は、ずぶ濡れの観客でいっぱいだった。賛助出演で「歌のお姉さん」で有名だった眞里ヨシコも舞台を盛り上げた。1991年の第2回はヴァイオリニスト和波孝禧指揮の「いずみごうフェスティヴァルオーケストラ」の演奏。最終回の2000年は、名古屋で活躍するラテンバンド「アンサンブル・アミ-」の演奏で、7回とも司会は小川道子だった。

 同年11月:文月会が第20回博報賞ならびに文部大臣奨励賞を受賞。

 1990(平成2)年11月:朝日新聞の朝刊「声」欄に、髙橋理事長は次のような投書を寄せている。

 「年賀状のシーズンとなりましたが、書き損じはがきや出しそびれたはがきなどがありましたら、ご提供ください。私たち「盲人福祉研究会」は7年前から、「盲学生情報センター建設」と取り組んでいます。障害者、特に重度障害者である盲人の場合、進学できるのは全国の国公私立大の1割にも達しない110校足らず。卒業後の就職については、やっと、点字による国家公務員試験が実施されるかも、という状況です。私たちは、これらの問題と積極的に取り組むために、街頭カンパ、チャリティーなどを通して寄付を呼びかけてきました。しかし、「地価高騰」に追いつけず、いまだに物件を取得できずじまいです。そこで、この春からは、書き損じはがきなどの提供もお願いし、これまで1万枚近くのご協力を得ました。」

 こうした新聞による呼びかけに、予想を超える多くの反響と協力者があり、翌1991年12月には、その感謝と近況を同・朝日新聞「提案します」の欄に投稿し、掲載された。

 「書き損じはがき、出しそびれたはがきがお手元にありましたら、ご提供くださいと昨年お願いしてから、これまでに、書き損じはがきや募金など約1千万円が寄せられました。8年前からの募金と合わせて5500万円に達しました。昨年までは、盲人に対して大学の門戸開放、学習援助、就職の相談などを進めるための拠点作りに力を注いできました。今年からは長年の夢が実現し、点字による国家公務員試験が実施されました。しかし、全員が不合格でした。そのうちの1人から「どこを探しても受験用の資料がなくて困った」と聞かされ、責任を痛感しました。また、今年、司法試験に4回目で合格した人も「合格はうれしいが、資料不足がつらかった」と話していました。そこで私は、数多く出ている国家公務員試験問題集の中から取りあえず1点ずつ点字化していこうと思い、ようやく「Ⅱ種」を「盲大生を支える会」の協力を得て入力しました。300ページ足らずの本が1000ページにもなりました。入試で、学習で、就職で、盲人が実力を発揮できるような環境づくりに、お力添えをお願いします。」

 同年12月:文月会30周年記念事業として、谷合侑の編集で「視覚障害者と大学」シリーズ4部作を企画。シリーズ1『門戸開放40年の歩み』、同2『学習条件整備を求めて』、翌年に同3『点字による国家公務員試験が実現するまで』、92年に続編『実践記録-民間企業に働く視覚障害者』をそれぞれ出版。

 1993(平成5)年7月:総会で「国は社会福祉法人の統合と整理の方針で、組織である文月会の法人化は難しい。したがって、文月会から盲学生情報センターを切り離して、文月会の「理念とビジョン」を踏襲した施設として法人を取得する」という方針を確認し、翌年7月の総会で「盲学生に限らず、視覚障害者の学習支援と就労促進など、既存の施設では手を染めないであろう事業に取り組むこと」を目的に、盲学生情報センターを視覚障害者支援総合センターに名称変更して、法人化に努力することなどを決めた。

 1994(平成6)年6月:社会福祉士資格試験出題に録音テープ導入の要望を、社会福祉振興・試験センターに提出。その他の資格試験にも同様の要望を行った。結果は、いずれも認める回答があった。

 同年6月:国際協力事業団青年海外協力隊に「隊員として視覚障害者の応募を認められるようご配慮のお願い」を提出。「視覚障害者であるだけの理由で、応募は妨げません」との文書回答があった。

 同年11月:東京都立大学総長に「中国文学への点字入試を実施するように」との要望書を提出。同大教養科長から電話で「該当者と話し合い、同授業を聴講してもらい、障害者協議委員会で結論を出したい」という回答があったが、願書受付に至らなかった。

 1995(平成7)年1月:センターはJBS日本福祉放送の依頼を受けて、視覚障害にかかわる情報をどこよりも早く紹介する「杉並発情報ウィークリー」の番組を企画し放送。

 同年8月:センターは、JTB海外旅行虎ノ門支店主催、筑波大学附属盲学校後援会とカナダ国立視覚障害者協会の協力で、第1回「盲学校生徒のための海外体験-カナダサマーキャンプと文化交流」を支援。9回目の2003年はSARS発生のため休止。2004年で終了。添乗員は9年間、齋藤珠恵。

 1996(平成8)年4月:法人認可の要件である基金1億円の不足分800万円を大阪の(株)エポック・アイが寄付。

 同年5月:法人認可の要件に「建物は耐火建築」とあるため、センターは区内上荻2-37-10のKeiビルに文月会事務所とともに移転。

 同年6月:認可要件の最後「基金1億円」の残高証明を東京都に提出。

 同年10月:国家公務員試験Ⅱ種に合格した福島義忠(21歳)が北海道ハローワークから採用内定書を受けた。

 同年11月:センターは都知事より社会福祉法人視覚障害者支援総合センターの認可証を受ける。これを機に、年に数回『支援センターだより』を、支える会をはじめ関係方面に送ることを決め、その創刊号を発行した。

 同年12月:日本の視覚障害者の職業は伝統として三療業が圧倒的で、次に多いのが邦楽とされてきた。しかし、「邦楽」に従事する若い視覚障害者は全国でも数える程になり、将来に禍根を残すことは間違いない。センターは、文月会の理念に沿って、若手視覚障害音楽家の社会参加促進に力を注ぐ。そのひとつとして「視覚障害音楽家によるコンサート 夢に向かって パートⅠ」(個人編)を開き、演奏と交流会を開催。翌年1月には、その「パートⅡ」(グループ編)の演奏会を開いた。

 1997(平成9)年3月:視覚障害音楽家の社会参加促進事業として、全国初の『視覚障害音楽家(演奏・教授)リスト』4千部を作成。都道府県や政令指定都市、区市など障害福祉関係や全国社会福祉協議会の加盟施設などに送付した。反響は大きく、2005年に第2版を、2016年に第3版を発行した。3回ともリスト作りでは「個人情報」「特別扱いはされたくない」「玉石混交のリストには載せたくない」などの理由で掲載を辞退する人がいた。

 1998(平成10)年5月:センターは、大学や盲学校卒業生で何らかの事情で就職できなかった人を支援する就労訓練施設「チャレンジ」をオープン。初年度は定員3人。1年以内で都公務員など就職先が3人とも決まった。翌11年7月、杉並区から身体障害者授産施設「チャレンジ」として認可。定員は8人。13年10月、国と都から「法内小規模施設」として認可。平成18年4月施行された障害者自立支援法で「チャレンジ」は就労継続支援B型施設に移行し、障害別のない運営となり、定員は20人。

 2000(平成12)年7月:総会で髙橋会長から「会発足40周年を迎える来年3月末で、日本盲人福祉研究会(文月会)の栄誉ある解散をする」という提案が提出。昨年の総会でも「提案せざるを得ないかも」と話題になった。「組織離れと、会に魅力がない」として、90年代に入り、学生ら若者の参加が少なくなったことや、後半になって会長のなり手がなく、法人の理事長が会長を兼務していた。会員に「解散の賛否」を採ったところ、「理念とビジョン」をセンターの事業に反映させて解散賛成が圧倒的だった。しかし、総会では会員の一部(特に西部地区)の「会のやるべきことはまだまだ残っている。しかし、執行部に選ばれるのは困る」という意見が強く、「再度、賛否のアンケートを取り、賛成が圧倒的だった場合は来年4月に最終理事会を開き、「会長提案を認める」ということになった。4月の理事会で「解散賛成」が多数を占め、昨年の総会で会長が提案の「栄誉ある解散」が決定した。また、『視覚障害』をはじめ、会の事業と残余金は、社会福祉法人視覚障害者支援総合センターに譲渡する。7月に「文月会の40周年を記念」して、語る会を開くことなどを決めた。

 2001(平成13)年3月:センターが全国視覚障害大学生ミニ大会を開催。1952年以来の学生大会で、以前同様、旅費・宿泊費など一切の費用は主催者持ちで、「ミニ」としたのは毎年の例会に学生の参加が少ないことと、文月会解散前に学生に実態を知り、センターの事業に反映したいという狙い。経費は公益信託村石久二障害者福祉基金から助成。参加者は九州や関西からが予想以上に多かった。司会進行は、京都大学卒で今春就職が決まった広瀬浩二郎、講演は、厚生労働省障害者雇用対策課の吉泉豊晴、障害者職業総合センター研究員の指田忠司、筑波技術短期大学助教授の長岡英司。討論では「学習環境の皆無は少なくなっているが、学生任せがまだ多い。以前と変わっていないのは、学生の主張が強ければそれなりの対応がされている。2、3の国公私立を除いてはお粗末そのもの。中には年間30万円の富士奨学金を使い切った後のテキスト代などは一切、大学が保障し、奨学金の何倍かの支出をしているところもある。試験は口述筆記、口頭試問などまちまちで、2、3の大学が学内試験の点訳・墨訳などをセンターと契約して実施している。いずれにせよ、学生間や大学間での話し合いや連帯感などは感じられない。就職については、国家公務員や地方公務員・教員採用・司法試験など、点字で受験できる職種は拡がっているが、狭き門であることには間違いない。昔と違って、奨学金が育英会だけでなく、いくつもの奨学金や年金もあることから、就職に対する悲壮感はなくなり、ゆとりさえあるような感じ」だった。

 同年3月:日盲社協(日本盲人社会福祉施設協議会)主催の第1回点字技能検定試験(試験は1月実施)の合格者を発表。受験者577人中、合格者は21人(点字10・墨字11)、合格率3.6%。髙橋實が日盲社協理事・点字出版部会長当時の2000年6月の日盲社協理事・評議員会に「点字技能師制度」の創設を提案し、承認された。手話通訳士のような制度をめざしたが、国の「国家試験の規制緩和」の方針に反するとして認められず、日盲社協社内検定として「点字技能認定制度実施要項」を作り、日本盲人会連合・全国盲学校長会・日本点字委員会などの理解と協力を得て結実した制度で、点字の世界では画期的。しかし、試験実施前の半年間は、疑問・クレーム・難問で専用電話は鳴りっぱなしだった。

 同年10月:センターは、文部科学省の盲学校小学・中学部の点字教科書入札に初めて参加。翌年の7月、高等部の点字教科書製作にも参加した。

 同年11月:文月会の解散に反対した西部地区の若い人達を中心に「視覚障害者文化を育てる会(愛称、4しょく会)」を立ち上げ、毎年、機関誌『SHOKU』を発行する。4しょくとは「食べるしょく」「色のしょく」「触るしょく」「職業のしょく」で、会長は竹田恭子。

 2003(平成15)年3月:日本点字技能師協会発足。点字の普及と、点字技能師の認知を図るためにも同会の発足が急務と考え、日点の田中徹二と、センターの髙橋が準備をして、会発足にこぎつけた。理事長は込山光廣が選ばれた。

 同年6月:センターは、若い視覚障害男女の活躍を顕彰する「チャレンジ賞」と「サフラン賞」の制定を決めた。毎年1人ずつを全国から公募して表彰する。それぞれに賞状と賞金50万円とケージーエス(株)から副賞が贈られる。第1回の受賞者は、チャレンジ賞に渡邊岳(弁護士、36歳)、サフラン賞に高橋玲子(玩具メーカー・トミー勤務、35歳)、制定を記念してサフラン特別賞に中間直子(三療、40歳)が選ばれた。制定の経緯について、髙橋理事長はこのように説明している。

 「私がサフランホームの閉鎖と財団法人の解散を知ったのは一月前の2003年2月。サフランホームは、日本盲人キリスト教伝道協議会婦人部が「毎日献金」という浄財で1958年に発足。以来45年間、全寮制による、盲学校卒業の盲女子に生活指導と三療技術の向上を目的に実践を続けてきた。その間、100人に及ぶ人達を職業人として、また家庭人として、社会に送り出し、高い評価を受けてきた。しかし、時代の趨勢により対象者が激減したことなどから、閉鎖と解散を決めた。財団は残余資産を関係法人5ヶ所に寄付することを決めていた。私は駄目元を承知の上で、次のような文書を財団に送った。

 ひも付きでない高額の寄付をいただけることは、どこの施設にとってもありがたいことですが、いずれサフランホームの実績と伝統と、関係者の汗したことなどは薄らいでいくのではないでしょうか。45年という歴史と、100人に及ぶ卒業生の努力と社会に対する貢献、善意から寄せられた浄財と関係者の熱意を、何らかの形でいついつまでも継承することが大切でないかと私は思います。残余財産の寄付を受けて、サフランホームの伝統・実績と精神を永久に継承する「サフラン賞」を制定して、視覚障害女性で職業自立して社会貢献しようという意欲・情熱と信念を持った若い人を毎年一人選び、賞状と賞金50万円を贈呈したい、そういう事業を当法人にさせていただきたい。財団は大所高所から検討され、満場一致で私の願いを叶えてくれました。

 また、親しくしていたケージーエス(株)の当時社長だった榑松武男に「副賞」を出してくれるように頼んだ折、「男性版も作りたいので、援助をしてもらえそうなところを紹介してほしい」と頼みました。社長は「弊社は去る6月11日、創立50周年を迎えることができた。皆様に感謝の気持ちを込めて、理事長の言われる金額を出させていただきましょう。」ということで、私の好きな「チャレンジ」という名をつけた「男性版」ができたのです。」

 2004年(平成16)年1月:「2004年チャレンジ点図カレンダー」を製作販売。センター創設以来の支援者で、センターが都内で行うコンサートに賛助出演とチケットさばきで中心的な役割をしている星伊久江(巻末資料5)が指導する女声コーラスの20周年を記念して製作し、プレゼントしたもの。それが好評だったことから製品化、毎年テーマを決めて販売している。2011年には第62回全国カレンダー展で全国中小企業団体中央会会長賞を、国際カレンダー展で銅賞をそれぞれ受賞している。テーマは“arabesque”。イスラム美術の一様式「アラベスク」。

 同年4月:美智子皇后陛下から「点字楽譜に有効活用してください」とご寄付をいただいたことを機に、「点字楽譜利用連絡会」を設立。代表にヴァイオリニストの和波孝禧、副代表に髙橋實、事務局長に田中徹二を選出。

 同年6月:第1回「点字技能師研修会」と「点字技能チャレンジ講習会」を開催。「点字技能師試験」の受験者と合格者の増加をめざして、2006年まで3回行い、以後は日本点字技能師協会に引き継ぐ。

 同年7月:日盲委の「選挙公報プロジェクト」に参加。髙橋理事長が日盲社協大会でその必要性を訴えて作られた。

 2005(平成17)年1月:全国視覚障害児童・生徒用教科書点訳連絡会の設立に参加。普通校で学ぶ全ての視覚障害児童・生徒に点字教科書がスムーズに行き渡るシステム作りに取り組む。

 同年2月:日本自転車振興会(現・JKA)の助成を受けて、2016年度まで「競い合い助け合うコンサート-羽ばたけ視覚障害音楽家たち」を開催。最初の3年間は年3回(東京1回、政令指定都市2回)、その後は年1回東京で、『視覚障害音楽家リスト』に掲載の人を中心に出演を依頼。このコンサートでも、東京の場合は、故人になった星伊久江が指導された女声コーラス「コール・トゥインクルスター」に賛助出演とチケットさばきをお願いしていた。政令都市の開催地は、札幌・名古屋・大阪・神戸・広島・福岡の6ヶ所。

 2006(平成18)年11月:視覚障害者のための国際情報・機器&サービス総合展、第1回サイトワールドを都内で開催。髙橋理事長は実行委員に加わり、第2回から第6回までセンターが事務局を担当。当時、ケージーエス(株)社長だった榑松武男の「欧米の福祉機器の展示会が、当事者をはじめ関係者に関心が持たれている。日本でもそのような催しをしては」という発想が具体化した。主催は、日盲委から実行委員会を経て、2019年からNPOサイトワールドに引き継がれている。

 2007(平成19)年3月:センターは、創立20周年記念として『一日の先輩として―髙橋實と視覚障害者支援総合センター20年のチャレンジ(挑戦)』を出版。執筆は武藤歌織。

 同年10月:名古屋ライトハウス愛盲報恩会は、「名古屋ライトハウス創立60周年」(2006年10月17日)を記念して日本初の『視覚障害人名辞典』を企画。その編集委員に髙橋實も加わっていた。名古屋盲人情報文化センターに事務局を置き、60周年に発行するとして準備を進めていたが、物故者を調査して執筆を担当した元・千葉点字図書館の秋葉博子が2006年10月に交通事故で亡くなり、事務局を担当していた浦口明洋所長が病気療養(2007年10月逝去)するなどで作業は頓挫。完成を期待していた髙橋は、製作の事務局をセンターが引き受けて、日点理事長の田中徹二を編集委員に加え、作業を続行して1年遅れで結実させた。内容は、視覚障害者とその関係者など、晴・盲・生存者・物故者を問わず選ばれた3千人から692人を収録している。点字・墨字で発行。

 浦口は、東京在勤中も視覚障害者に関わる数多くのボランティア団体を立ち上げたり、支援活動を行っていた。盲学生情報センター立ち上げの頃から、職員や支える会のパソコン指導、各種助成申請などでアドバイスをくれ、1994年からセンターの運営委員として発展に力を貸してくれた。2006年、厚遇されていた会社を2年繰り上げ定年して、名古屋ライトハウス盲人情報文化センター所長に転職した。

 2008(平成20)年6月:点字『基本地図帳-世界と日本の今を知る』を出版。盲学校の社会科教員を中心にした「日本視覚障害社会科教育研究会」が、従来の盲学校世界地図帳を全面的に見直し、新しいアイデアによる画期的な点図の地図帳を目標に編集した。この地図帳は、盲学校で教材として採用され、地図好きな視覚障害者にも歓迎されている。センターはそのほか地図を用いた図書として、2010年に『鉄道手帳』を出版、全国の鉄道路線を日本地図上で表現し、大きな反響があった。2011年には『鉄道手帳 私鉄編』も発行。

 同年6月:混声合唱曲集クラス用『New Chorus Friends』を出版。統合教育を受けている中学生の教科書問題で学校を訪ねた折、音楽の授業で当事者だけ楽譜を持っていなかったのを知り、学校と当事者の意向を聞き、点字出版した。

 2011(平成23)年3月:11日14時46分、東日本大震災襲来の瞬間、Keiビル8階で法人の役員会、質疑の真っ最中、大きく揺れ出し、収まるのを待って外階段を使って4階に降りた。役員は、職員や利用者と同様に大半が帰宅難民となった。センターの被害は幸い少なかった。

 同年11月:社会貢献支援財団の平成23年度表彰者にセンターが選ばれ、帝国ホテルで受賞を受けた。

 2012(平成24)年4月:阿佐博著『点字の履歴書』と『父のノート』出版。阿佐は、センターが「エッセイや論文」などを募集して製作した『ルイ・ブライユ生誕200年記念作品集-点字エクササイズ63』『石川倉次とその時代-点字が繋ぐ過去と未来』『点字から未来を-日本点字120年記念作品集』などでも歴史や伝記などを執筆している。

 同年5月:センターは、創立25周年記念事業として、助成団体などの協力を受け、5年計画で、不安定な視覚障害者の就労状況を、資料・研究・調査・取材などを通して明らかにし、社会の理解と支援の輪を拡げ且つ関係者や当事者に実感してもらえればと、次のような報告書を作成する。12年は『視覚障害地方公務員・普通科教員の採用状況とその配属先についての全国調査』、13年は『視覚障害公務員調査―35人の事例集』、14年は『視覚障害者就労実態調査2014―あはき施術所・視覚障害関係施設・音楽家(特に邦楽家)』、15年は『視覚障害自営業者ならびに小規模事業者31人の事例集』、16年は『視覚障害者の国家公務員、地方公務員、普通科・理療科教員の採用状況とその配属先についての全国調査』。

 同年7月:センター開設25周年記念祝賀会を、関係者95人を招いて開催。席上、15の団体と50名の個人に感謝状を贈った。

 同年12月:センターは、視覚障害者支援総合センター開設25周年記念誌『4半世紀のあゆみ-視覚障害者の大学門戸開放からセンター開設25周年まで』を発行。執筆は法人理事の阿佐光也。

 2015(平成27)年8月:センターは、Keiビル建て替えのため、区内桃井4-4-3 スカイコート西荻窪2に移転。

 2016(平成28)年7月:『社会福祉法人視覚障害者支援総合センター30年の軌跡-視覚障害者支援総合センター開設30年 社会福祉法人認可20周年記念誌』を発行。法人認可後からの『支援センターだより』から、髙橋實が執筆したものの抜粋。

 2017(平成29)年6月:センター発足(1987年)以来、理事長を務めていた髙橋實が退任。後任は榑松武男副理事長。

 2018(平成30)年10月:センターの「チャレンジ」が紅白の点図入り祝儀袋24万枚を印刷。赤はダルマ、白は水引で、利用者が1枚1枚を手際よく印刷した。

 同年12月:『東京メトロ・都営地下鉄バリアフリーガイド』(点字全13巻)を発行。視覚障害者情報提供事業として製作した。東京メトロ9路線、都営地下鉄4路線のホームの形、階段、エスカレーター位置や、乗り換え路線、改札口、トイレなどの案内をきめ細やかに説明している。点字データをホームページに公開。

 2019(平成31)年1月:視覚障害者支援総合センター前理事長・髙橋實は、1949(昭和24)年に盲人の大学進学が認められてから今年で70周年になることから、記念事業を行おうと、榑松武男、田中徹二、本間昭雄、茂木幹央らに呼びかけて実行委員会を組織。講演会の開催と、記念誌の作成を決めた。

 2019(令和元)年12月:『JR山手線バリアフリーガイド』(点字本文2巻、図入り1巻)を発行。視覚障害者への情報提供事業として製作。点字データをホームページに公開。