閑・感・観~寄稿コーナー~
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被爆者とともに歩む~「後期高齢者」の肩書きを手に(長谷 邦彦)

2019.10.30

閑・感・観~寄稿コーナー~

 2019年がもう終わろうとしている。日本社会は来るべき年を「2020東京オリンピック」一色に塗り込める準備に明け暮れる。その渦が巻き始める直前、私は「後期高齢者」という「人生のおまけ」のような肩書を勝ち取った。はて、この「おまけの人生」をどのように生き抜くか。あってもなくても、どうでもいい? そのような「はずれくじ」を手に終電車に乗り込むことは避けたい。--その思いに駆り立てられ、私はこの6年ほど広島、長崎の原爆被爆者の苦難の世界とともに生きる道を走り続けている。

 

日本語で語られる被爆体験 

 

 20世紀の前半と言えば、第1次、第2次の2つの世界大戦。人間は戦争技術の開発、大量殺戮の効率化に狂奔した。その極致が原子爆弾の開発、実戦使用、そして戦後70数年、いまだに続く放射能被ばくの後遺症だ。被爆地からは終戦後すぐに「原爆被害は広島、長崎という太平洋の西端の小さな島で起きたローカルな事件ではない。史上最大の歴史的事件として人類が共有しなければならない悲劇だ」との声が上がった。

 にもかかわらず、終戦と同時に顕在化した東西両陣営の冷戦構造は、米ソを中心に核兵器の狂気の開発競争を生み出す。20世紀末に冷戦構造が崩れた後にもなお、「核兵器のない地球」は実現しないどころか、新たな核戦争を予感させる黄信号に人々は怯えているのである。

 なぜ人間は「自滅」の恐怖を断ち切ろうとしないのか。

 忘れてならないのは、被爆者の多くは日本人であることだ。

 「飛び出した眼球を手に持ち、炎の市街地を逃げ惑う」「大やけどの痛みに耐えかねて川に飛び込み死に絶える人々」「川に浮かぶ死体のおなかが膨れ上がって、ぽんぽんと破裂、腸が飛び出る」「木切れと遺体を積み重ね火葬するが、生焼けのまま」「息も絶え絶えの負傷者。やけどの身体にハエがたかり、ウジ虫の群れが肉を食う音がする」「救護所になった校舎には医者も薬も足りず、包帯をするだけで廊下に放置、いつの間にか息がない」などなど、被爆者の語る体験談は、「その日」のできごとだけでも前代未聞、へどが出そうな世界だ。核分裂のエネルギーがつくり出す超高熱と爆風(圧)、そして放射能の結果としての「死」の光景は数限りない。ところが、被爆体験を語ることばは日本語である。そのままでは、外国人には伝わらない。「ことばの壁」が立ちはだかるからだ。

 その一方で、多くの国では「核兵器は大国のシンボル」「自国の安全保障のために核兵器を持つ必要がある」などの思想が盛んに宣伝される。核を持ったり、核の傘に依存する国の政府が宣伝する「核兵器」からは「人間の死」のイメージが消し去られ、「都市破壊の威力」が前面に押し出される。こうした情報のロンダリングの繰り返しの結果、外国人の多くは「ヒロシマ、ナガサキ」という地名は知っていても、その現場で人間がいかにむごたらしい死に方で死んでいったか、を知らない。人々の脳裏にはせいぜい「1発の爆発で10万人くらい殺す」程度の統計数字しか記憶に残されない。3発目の核兵器使用が生み出す地獄絵図を人々が想像できないとすれば、「核廃絶」を求める根拠は甚だ弱いものになるに違いない。

 

NET-GTASとは

 

 そこで2014年1月に始めたのが「被爆者証言の世界化ネットワーク」の活動である。略称「NET-GTAS(ねっと・じーたす)」。日本人向けにしか作られていない証言映像の日本語をできるだけ多くの言語に翻訳し、インターネットを通じて世界中に広めようと、外国語のできる人たちに集まってもらったのだ。 

 私は2003年に新聞社を定年退職、翌04年から京都外国語大学の教員をしていた。NET-GTASの多言語翻訳事業を始めたい、という思いは2010年ごろから芽生えており、13年春に京都外大の教職もやめ、1年ほどの準備期間を確保したのだった。

 NET-GTASは当初、京都外大のほか横浜国立大学、筑波大学などの教員や、新聞社時代からつながりのあった被爆者、平和活動家、翻訳のプロなど約40人で組織。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館と提携して、同祈念館が制作・保有している被爆者証言映像を借り出し、1年に5人の証言映像の日本語字幕を英語、フランス語、ドイツ語、中国語、韓国語に多言語翻訳。広島・長崎の両祈念館が共同制作しているサイト「平和情報ネットワーク(https://www.global-peace.go.jpにアップロードを始めた。

 組織立ち上げから6年近く。今は会員数が2000人を超え、日本人と外国人がほぼ半々。20か国近くに分散していて、翻訳可能な言語は、当初の5種類に加えてイタリア、スロベニア、クロアチア、スペイン、ポルトガル、ロシア、ヒンディ、ハンガリー、ポーランド、アラビア語。合計15種に増えた。翻訳版の対象になった証言は31人分で、延べ157本になった。(2019年10月現在)

 1本の証言映像(20~30分)の字幕を一つの言語に翻訳するごとに最少2人から数人レベルの翻訳チームを編成する。翻訳先の言語に長けた日本人と、日本語に長けたネイティブの人が最低1人参加することがチーム構成の条件。1チームは半年余りかけて翻訳⇒監修⇒祈念館に納品⇒祈念館が日本語版映像に翻訳字幕を貼り付け⇒チームの監修者が映像上の翻訳字幕を点検し問題点を指摘(字幕校正)⇒完全になれば校了⇒祈念館サイトにアップロードする。年間にほぼ30数本の翻訳作品を完成させるので、2020年には累計200本に到達の見込みだ。

 

翻訳授業が生み出す「語り継ぎ」

 

 主に国内外の大学を舞台に組織化を進めたせいもあって、大学の言語学や近現代史などの教員が担当の授業で証言翻訳実践を行うケースが増えつつあり、「若い世代に原爆・核兵器の問題を語り継ぐ場面」として大いに役立つ、と期待できる。

 ドイツのボン大学では、日本語教員である日本人が、ドイツ人の教員と組んで証言のドイツ語への翻訳授業を積み上げていたところ、アラビア語翻訳学科の教員と学生らから「アラビア語にも翻訳したい」とNET-GTASに申し入れがあった。ドイツ語翻訳の成果をアラビア語に再転換、という”リレー翻訳“の提案に、祈念館側は「伝言ゲームのように、語り手の本意からずれるのではないか」と尻込みしたが、私たちは「2言語ぐらい大丈夫でしょう」と押し切った。イスラムの人々との言語の共有は「やらない=0」に比べて「やる=0.8」ほうがましに決まっている、そう思った。(実際にやり始めたら、パソコン上で右から左に書き進めることの難しさや、記号類のルールの違いなど、大いに苦心をしたのだが。)

 また、同じボン大学では韓国語翻訳の受講生らが日本語翻訳組の取り組みをわきから見ながら「太平洋戦争の原爆被災を日本人や韓国人がどのように受け止めているのか、勉強したい」と言い出した。担当の教員からNET-GTASに相談が入り、日本語翻訳組の次の証言翻訳授業では広島で原爆に被災した朝鮮人の証言を取り上げた。戦争が終わり、日本の植民地から「解放」された喜びの感覚や、戦後も続く「朝鮮人差別」への抵抗感など、ドイツ人学生には通常体験できない感情を知る機会になったようだ。

 昨年夏にはオーストリアのウイーン大学と京都外国語大学の学生らが、ウイーンと京都の街で一般市民に向けて自分たちが授業で翻訳した被爆者証言の映像を公開する共同企画を催した。ウイーンでは現地8月6日の夕刻、「広島デー」のイベントに合わせて、大阪・茨木市在住の「被爆者・濱恭子さん」のドイツ語翻訳版をタブレットに映し出し、市街地を練り歩いた。京都では同5日夕、壇王法林寺(東山区)で開かれた京都宗教者平和協議会主催の平和シンポジウムの会場で京都外大の学生サポーターたちが英語翻訳した京都在住の「被爆者・花垣ルミさん」の英語字幕付きの作品をテレビ上映した。

 こうして、世界各地で若者たちが証言映像の多言語化を進める過程で、翻訳によって自分たちの母語で広島、長崎の事件の実相を知り、「老いた被爆者に代わって自分たちが『核廃絶』への願いを発信しよう」と動き出している。

 

 と、ここまでは順調に活動が広がりつつある様子を描いた。

 市民のボランティア活動をめぐる事態はしかし、そのように前ばかりを向いて進むものではない。「SOS」のサインを、いつ、だれに向けて、どのような表現で発信するか。悩み悩みの日々でもあるのだ。その話はまた改めて――。      <つづく>  

 (元特報部・長谷 邦彦 2019年10月30日)


NET-GTASに参加のウイーン大学の学生たちが、自分たちでドイツ語の翻訳字幕を付けた原爆被爆者の証言ビデオ映像をウイーンの街で市民にタブレットで上映した。(2018年8月、ウイーンの街で。クリスチャン・ラングさん提供)