閑・感・観~寄稿コーナー~
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「定年帰農」して(佐々木 泰造)

2019.09.06

閑・感・観~寄稿コーナー~

 2017年7月末に60歳で定年退職してから、京都府綾部市の実家に帰って農業をしています。「定年帰農」は1998年に『現代農業』の増刊号のタイトルとして使われ、流行語になったそうです。ぼくの定年帰農は入社する前から決めていたことでした。
 父は丹波の中山間地の農家の四男として生まれました。長男、三男は夭逝し、跡を継ぐはずだった次男が戦死したために、父は医者になる夢をあきらめて農業の道に進み、専業農家として一生を終えました。その長男として生まれたぼくは子供のころから農家の跡取りとして農業の手伝いをしながら育ちました。
 日本が工業立国によって高度経済成長を成し遂げる一方、中山間地の小さな田んぼや畑で統的な農業をしていたのでは生計を立てることができなくなりました。ぼくは自分がしたいことをしたらいいという親の勧めがあって、2浪して大学に入り、毎日新聞社に就職しましたが、そのときから、定年退職したら実家に帰って、先祖伝来の土地を受け継いでほしいというのが親の願いだったのです。
 在職中から実家に帰って田植え、稲刈り、草刈りなどを手伝い、父が高齢になって農作業ができなくなってからは、田起こしから稲刈りまでの一連の作業をぼくが中心になってするようになりました。トラクターやコンバイン、田植機は若いころから使っていたし、退職前にはトラクターに付ける畦塗り機や代かき用のハローなども買い足して使っていたので、何の準備もなしに定年帰農したわけではありません。
 定年退職していよいよ農業が中心の生活になりました。在宅の親の世話があって時間が自由に使えないとはいうものの、わずか5反(約50アール)しかない自分の家の田んぼだけを耕していたのでは、退職前とさして変わりがありません。
 遠縁の親戚から頼まれた2反の田んぼの他に、誰も手を付けないまま荒れ地になっている耕作放棄地を借りて、田んぼに戻す作業をしています。昨年借りた谷の奥の2枚の田んぼは、田植えをするところまでこぎ着けましたが、7月7日の西日本豪雨で山から土砂が流れ込んで川のようになり、2枚のうちの上の田んぼがほぼ全面、砂礫に覆われてしまいました。
 今年は自分の人力だけで下の田んぼの排水工事をして、イノシシよけにキュウリネットを張り、鹿よけになるというピンクのテープも巡らして、今のところ順調に稲が育っています。
 さらにもう2カ所、耕作放棄地を借りて開墾しています。そのうちの1カ所は水路が埋まってしまっているために下の田んぼにあちこちから水が流れ込んで迷惑をかけているというので、こちらも自分の人力だけで排水工事をしてなんとか田植えをすることができました。
 自分の家の田んぼでの米作りは年々、レベルが上がっています。退職前はカメムシ被害などで2等にしかならなかった米が、昨年は頑張って隣接するよその田んぼの草まで刈ったかいあって初めて1等になりました。退職後、畑での野菜づくりも始めました。退職前にはうまく作れなかったスイカが今年は初めてまともにできて、今年から出荷している農協の直売所で1000円で売れました。
 機械代の減価償却などで赤字が膨らみ、非課税世帯に転落しましたが、お金では買えない喜びを味わっています。ぼくの地域では、いったん外に出て就職した人が定年後、帰ってきて農業をすることはまずありません。それは義務ではないけれど、自分が生まれ育った土地を次の世代に引き継いでいくために誰かがしなければならないことです。いやいやではなくて、楽しんでできることだと、身をもって示すことができたらいいなと思っています。

(元学芸部  佐々木 泰造)

西日本豪雨で土砂が流れ込んだ耕作放棄地の田んぼ=2018年7月7日撮影