2022.02.21
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毎日新聞は2022年2月21日、創刊150年を迎えました。現存する日刊紙でもっとも長い歴史を持つ新聞ということになります。
ここまで続けてこられたのは、取材をして記事を書いてきた記者をはじめとして、販売、広告、事業など、新聞を発行し読者に届けることを支えてくれた社員も含めた、オール毎日すべての人々のおかげです。もちろん、それぞれの時代で毎日新聞を支えてくださったOBのみなさんや、私たちが作り、届けてきた新聞を丹念に読み続けてくれている読者の方々がいるからにほかなりません。150年を支えてくれたすべての人たちに、お礼を申し上げたいと思います。
一世代を30年と数えるとしたら、150年は5世代にもわたる長い時間です。この間、毎日新聞は様々な変化を遂げてきました。
1239文字の木版印刷で始まった歴史
明治5年、1872年に浅草で発行された東京日日新聞の記事は全部で1239文字にすぎませんでした。それでも、官報のような情報のほか、殺人事件や街ダネなどが掲載されていました。およそ1000部が発行されたという創刊号は、木版刷りで、12の部分に分かれた木片を組み合わせて印刷されたそうです。
毎日新聞のもうひとつの源流である大阪毎日新聞は、1882年2月1日に発行された日本立憲政党新聞から始まっています。もともとは政治的な主張を展開する新聞で、大新聞(おおしんぶん)と呼ばれました。一方、娯楽的記事を中心とした小新聞(こしんぶん)と呼ばれた新聞も存在しました。後発の朝日新聞や読売新聞は小新聞でした。
しかし、政治的な主張を中心に据えた大新聞は、読者を思うように獲得できなかったといいます。やがて小説や漫画、街ダネなどをとりいれて小新聞に近づいていきました。一方で、小新聞とよばれた新聞も、社説や硬派なコラムを掲載して大新聞に近づいていきました。
こうして特定の政党や政治的な主張ではなく、不偏不党な編集方針を掲げた、報道を重視する新聞が主流になっていきました。
新聞を手に取り、情報を知ることができる。当時は、新聞くらいしか世の中の情報を得る手段がありませんでした。特に、明治から大正、昭和初期と時代が混乱する中で、人々は最新の情報、正しい情報を求めていたことでしょう。新聞は、読者の求める情報は何かを考えながら、その形や内容を変化させながら、読者を獲得して成長していきました。
東京日日新聞の創刊号は木版刷りだったと言いましたが、19世紀の終わりには輪転印刷機が生まれ、新聞の大量、高速印刷が進んでいきます。原稿用紙にして3枚程度の1239文字の創刊号から始まった新聞の文字数は、現在では朝刊1部あたり、およそ新書1冊分とも2冊分ともいわれています。新聞がそれだけの情報量を盛り込んで、毎日、家庭に配達されてきた理由は、読者が必要とする様々な情報を、取捨選択しながら追加し、充実させてきたからです。
朝刊、夕刊の最終面は通称ラテ面と呼ばれています。ラテはラジオとテレビの略称ですが、現在はテレビ番組の情報だけが掲載され、ラジオは中面に掲載されています。
1960年代の新聞を見ると、最終面がラテ面なのは夕刊だけでした。当時の朝刊の最終面は地域面でした。地域面の下半分には、地域の求人広告が掲載されることが多かったようです。当時、多くの読者が新聞に求めていた情報が、地域の情報だったといえます。
自動車メーカーが新型車を出すたびに、新聞に一面広告を出していた時代もありました。1980年代などはそうでした。読者は、お気に入りの自動車メーカーが新型車を出したのを新聞で知り、近所のカーディーラーへ行くという、そんな時代でした。
現在は、例えばトヨタ自動車は自らが「トヨタイムズ」というネットメディアを立ち上げて情報発信するほど、状況は変化しています。一方、自動車メーカーが車を買ってほしいと思っている若者たちは、自動車を保有することに興味をあまり持っていないという現実があり、消費者の行動をどうとらえたらよいのか、企業も試行錯誤しているようです。
過去との決別をうたった「毎日憲章」から「編集綱領」へ
世の中は変化しています。
毎日新聞社には、毎日憲章、毎日新聞社編集綱領、毎日新聞社企業理念という、いわば三つの指針があります。かつては社員手帳の最初に掲載されていました。その内容は、策定された当時の世の中を表しています。
「毎日新聞は言論の自由独立を確保し、真実敏速な報道と公正な世論の喚起を期する」
これは、1946年2月に策定された毎日憲章の一節で、冒頭に掲げられています。第二次世界大戦が終わり、終戦まで戦争を紙面で支持してきた毎日新聞社の幹部は、自ら辞表を書いた人も少なくありませんでした。公職追放の対象にもなりました。戦後すぐにまとめられた毎日憲章は、新聞社として世の中に民主主義を根付かせ、世界平和の確立に寄与し、言論の自由独立を確保して、公正な世論を喚起していいこう、という決意表明でした。
日本が貧しかった時代です。軍国主義が一夜にして民主主義に変わり、世の中に絶対というものはない、と昨年亡くなられた作家の半藤一利さんは思ったそうです。
毎日憲章は、戦時中の報道を総括し、過去と決別して新たにスタートをきったことを宣言する文書でもあったと思います。
毎日憲章の策定から約30年。毎日新聞社は1970年代に経営危機を経験します。毎日新聞は危機を乗り切るため、それまでに積み上がった借金の返済を目的にした旧社と、新たに設立する新社に切り分ける新旧分離を行って再生を図りました。その最中、1977年12月に発表された編集綱領には前文の中で「毎日憲章の精神と、百余年の伝統を受け継ぎ」とあります。
負の遺産を抱えた旧社から独立して、新会社として毎日新聞の紙面を引き継いだ時、毎日憲章の精神である、表現の自由や編集の独立、記者の良心などを引き継いでいくことをうたいあげる内容でした。
その年の11月、新会社を設立した際の資本金40億円のうち半分は、従業員持ち株会やOB、スポーツニッポン新聞社や東日印刷などの毎日グループ企業、販売店の方々の出資によるものです。残る半分は、財界の有志や、取引先、金融機関が支援して出資してくれました。
経営が困難を極めていた1970年代にあっても、毎日新聞は、田中角栄元首相が逮捕されたロッキード事件や政界再編を巡るスクープを放ち続けています。事実を追いかけ、ニュースを多くの人たちに伝えようという思いや努力が途絶えることはありませんでした。銀行などの資本が入ったとは言え、編集方針がゆらいだことはありませんでした。
新会社の経営が軌道に乗り、新旧両社が合併して新しい「毎日新聞社」としてスタートしたのは1985年でした。
その数年後から、毎日新聞社は「新聞革命」と銘打ったコーポレートアイデンティティ活動をスタートさせます。
創刊120年を迎える1992年を見すえた活動で、もっとも大きな出来事は、題字の変更でした。現在のインテリジェントブルーの四角い題字に変更されたのは1991年11月5日です。それまでは今の朝日新聞などと同様、縦長の白黒の題字でした。題字の変更は、大阪毎日新聞と東京日日新聞が毎日新聞として統一した題字になった1943年の元旦以来、約70年ぶりの大イベントでした。
そうした最中に、毎日新聞の企業理念は発表されました。
企業理念には、「人間一人一人の尊厳とふれあいを重んじます。生命をはぐくむ地球を大切にします」とあります。
終戦直後に作られた毎日憲章では、民主主義の確立や、文化国家の建設をうたっていますが、民主主義の確立や、経済の発展、社会全体の安定を通じて、個々人の感性や考え方を重視できるようになりました。社会の変化、発展、成熟とともに編集の方針も変化し、深みをましていったといえます。
創刊150年を迎えた現代、インターネットやSNSが発達し、ほとんどの人がスマホを手に情報を検索する時代。かつて、情報共有が簡単になれば、世の中は便利になり、お互いの理解が進み、世の中はより良いものになっていくと考えられていました。しかし、実際は、気に入った情報ばかり検索してしまうなどネット社会の弊害で、社会は逆に分断が進んでいるように見えます。
毎日新聞創刊150年のキャッチフレーズ「社会をつなぐ、言葉でつむぐ」はそんな中で生まれました。
人々は生きるために情報が必要です。単に生きるだけでなく、人生を充実するためにも情報は不可欠です。私が毎日新聞社に入社した当時、「新聞は読んで当たり前」、「新聞ぐらい読め」と言われていましたが、いまでは電車などで新聞を読んでいる人を見つけるのが難しいくらいになりました。多くの人の手にはスマホがあり、その画面から様々な情報が流れていきます。
現在でも、毎日新聞を宅配で読んでくださっている多くの読者がいます。そうした愛読者が毎日新聞の屋台骨を支えてくれています。同時に、新聞業界全体の問題ですが、新聞をまったく購読しない無読者と呼ばれる人たちが増えています。
そうした時代状況に対応して、紙の新聞以外でも情報を伝え、新聞を読まない人たちにも、必要な情報を届けていくのは私たちの大事な使命です。企業ですから、経営も強固なものにしていく必要があります。守るべきところは守りながら、変えるべきところは変え、変化しながらさらに進化していくことを、時代から求められているのです。
ボトムアップで生まれたビジョンとミッション
毎日新聞、毎日新聞社はどのように変わっていけばいいのか、また、守るべきものは何なのか、私はずっと考え、実行に移してきました。
昨年の夏、若手、中堅から毎日新聞社としてのビジョンやミッションの策定が必要だという声が上がりました。国内外の先進企業は時代に合ったビジョンやミッションをかかげ、経営行動の指針としています。
そこで、毎日新聞社の150年委員会に「2030年ビジョン分科会」を発足させ、中堅、若手を中心に、公募で参加を求めました。初会合で私は、「自分が2030年の毎日新聞社でこんなことをしたい」「こんな会社になっていたらいいな」ということを強く意識して活発に議論してほしいとお願いしました。その後、職種や本支社の壁を越えた多くの社員が参加した分科会は、複数回、長時間にわたって議論しました。
・2030年にどのような社会課題が存在し、毎日新聞社はどのような解決策を提示、提供できるのか
・毎日新聞社が150年の歴史の中で培ってきた経営資源をもとに、どんな未来を切り開けるか
――などについて、熱心に話合いました。
ボトムアップで積み上げられた分科会の意見を、われわれ経営陣も重く受け止め、役員会での議論を経て、かたちになったのが、このビジョンとミッションです。
これは、毎日新聞社で働くひとりひとりのビジョンであり、ミッションです。
これがビジョンとミッション、2030年に毎日新聞が目指すべき姿、果たすべき役割です。
「コミュニケーター・カンパニー」は聞き慣れない言葉だと思います。
この言葉には、「全ての社員がコミュニケーションのプロという意識を持ち、これからの時代を明るい未来へとブレークスルーするために、“社会をつなぐ、言葉でつむぐ”ために150年磨いてきた伝える技術を駆使していく意志」を込めています。社員や会社が起点となり、双方向のコミュニケーションを生み出し、広げることで、多くの人を支える存在になる。伝えることをきっかけにして人と人とをつなぎ、社会のあり方や人々のくらしを前向きに変えていく会社。時代に求められるコミュニケーターはいかなる存在かを常に自らに問いかけ、他社との差別化を図り、毎日新聞の個々人が社会においてコミュニケーターとして機能していく存在となっていくことを目指します。
このビジョンとミッションに沿って、新年度からはビジョン分科会と各部局で、具体的な行動指針などの策定にも取り組んでいきます。幹部だけでなく、2030年以降も活躍する二十代、三十代のモチベーションを喚起するために、各部局内での世代を超えたコミュニケーションを期待します。
毎日新聞社はより挑戦的な企業に変わります。2030年の毎日新聞社で社員がわくわくしながら仕事ができるように、高い志を持って会社を変革していきます。