閑・感・観~寄稿コーナー~
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民藝100年と岩井武俊(藤田 修二)

2025.12.03

閑・感・観~寄稿コーナー~

 今年は「民藝」という言葉が生まれ100年。民藝揺籃の地、京都の京都市立京セラ美術館で「民藝誕生100年 京都が紡いだ日常の美」展が開かれた(2025年9月13日-12月7日)。主催の実行委員会の中に毎日新聞社も加わっている。紅葉の季節にのぞきに行った。

 民藝とは、無名の工人たちが生み出す日常の美「民衆的工芸」の略称として宗教哲学者の柳宗悦、陶芸家の河井寛次郎、濱田庄司らが命名したもの。それまでは雑器や下手物(げてもの)などという名で安く売られていたものに美を見出した。そうした概念は陶芸にとどまらず、染、織、木工、さらには建築にまで広がっていった。

 関東大震災で柳が京都に居を移して河井らと深く交わる中で民藝運動は生まれ、やがて各地に波及した。京都が揺籃の地と言うのはそのような経緯があるからだ。その時代の民藝の発展を支えた1人に岩井武俊がいたことをこの展覧会で改めて知った。主催者の一員に毎日新聞社の名があるのもそれゆえのようだ。

 岩井武俊(1886-1965)とは誰だ。1927年に大阪社会部デスクから京都支局長に転任、以来定年まで14年間もその任にあった伝説の人。元々考古学者だが、それにとどまらず広範な分野の文化人と付き合い、援助を惜しまなかった。民藝もそのうちの一部だったが、民藝側にとっては大いなる恩人だった。例えば、1927年に名もない、金もない若手の民藝作家たちが「上賀茂民藝協団」を発足させ、運営に苦労しているとき「岩井武俊の尽力で毎月の会費を納める後援会組織が作られ、協団員の作品を売る展覧会も一度開かれた。岩井は河井との交友を機縁に、柳らとの親交を結んだことが協団への親身な支援につながった」(後藤結美子・京都市京セラ美術館学芸係長、展覧会図録より)。恐らく金銭的な支援も相当したと思われる。

 第一回民藝協団作品展は1929年大毎京都支局の京都大毎会館(現1928ビル)で開かれ、毎日新聞には連日紹介記事や広告が掲載されて、2日間の会期で2000人もの人が訪れたという。出品作はほぼ売約されたそうだ。今年の京セラ美術館での展覧会ではその時の会場写真や新聞記事がいくつも展示された。ただ、残念ながらそれらの記事や写真の提供は日本民藝館や京都府立京都学・歴彩館などである。毎日新聞には残っていないのだろうか。添付の図録カバー下の表紙写真(大毎京都支局で撮影。前列左から岩井、河井、柳)も河井寛次郎記念館提供だ。

民藝誕生100年展図録表紙。前列左端から岩井、河井、柳ら

 京都大毎会館では民藝協団作品展のほか何度も民藝関係の展覧会が開かれている。また柳らは毎日新聞京都版に頻繁に執筆、柳は1930年から2年間毎日新聞大阪学芸部客員として遇された。一方、京都支局独自でも京都市内と近郊の古民家を訪ねて紹介する京都版連載を行い、正・続2冊の『京都民家譜』にまとめられた。装丁は河井寛次郎(写真)。

 

 

続京都民家譜

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 岩井支局長の下の京都支局はいかなる有様であったか。毎日放送の実質的創業者、高橋信三について書かれた『放送人 高橋信三とその時代』(辻一郎著)を基に紹介したい。以前、この毎友会HPまいまいサロンに私が寄稿したものの一部再録だが、お許しいただきたい。高橋も、著者の辻さんの父平一も岩井が京都支局長時代の支局員。辻平一は後にサンデー毎日編集長として発行部数を爆発的に伸ばした人として知られる。なお著者の辻一郎さんは元毎日放送取締役報道局長(今年9月死去)。

 岩井は一流の学者、文人、芸術家を深く交わり、河井ら当時の気鋭の人たちを育てるのに心を砕いた。そういう場に加藤三之雄、森正三、城戸又一、小瀧顕忠、辻平一、高橋信三、井上靖ら支局員をよく同席させた。井上は岩井について「私は新聞社にいる間、氏に頭が上がらなかった。宗教や美術は勿論のこと、広く一般の文化問題にふかい造詣と独自な見識を持っており、大学出の青二才が立ち対える相手ではなかった。……私は新聞記者で氏の如くひろい教養を持ち、権力に屈せず、己を曲げない人物を知らない」(サンデー毎日1961年4月2日号)と評している。高橋も「当時の京都支局は、まことに新聞記者修行のための恰好の場所であったと思う。十何人かの支局員だけで、京都大学の各学部をはじめとして各宗各派の総本山クラスの寺院や一流の美術工芸家たちから取材するためには、聞き手として恥ずかしくないだけの見識を持たなければならないと勉強させられた」(毎日放送社報1977年5月1日号)と述懐している。岩井は支局員たちも育てたのである。

 岩井の活動にはお金の裏打ちもあった。辻一郎さんは余談として書いているが、1934年、岩井は勤続20年賞与として4300円を支給されている。辻さんによれば「今(2022年)の金だったら5000万円以上になるかもしれない。当時の新聞社の威勢の良さがうかがえる」と書いている。支局経費はどれほど潤沢であったのかはまた別の話である。余談の余談だが、1980年ごろ、当時の神戸支局長が支局経費について「俺が入社したころと変わらん」と嘆いていたことを覚えている。

 今展の図録の最後に協力機関・関係者の名前が列挙してある。その中に岩井敏孝の名がある。武俊のお孫さんだろうか。

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 展覧会を見た後、10月31日の毎日新聞京都版に展覧会の紹介記事が出ているのを知り、参照した。感謝。僕は京都支局を経験していない。岩井について書くのはもっと適任の人がいるだろうが、ご寛恕のほどを。

                      (元社会部、藤田 修二)