2025.11.08
閑・感・観~寄稿コーナー~
Ⅰ.はじめに
昨24年10月11日~16日の「三国志・赤壁の旅 湖北省(武漢、感寧、赤壁、荊州)と湖南省(岳陽)」に続いて、25年10月11日~18日、「雲南省麗江、四川省成都・楽山の旅」を旅してきました。ちょうど、毎友会総会と重なり欠席し、申し訳ありませんでした。
私が毎日文化センターの社長時代に「中国の世界遺産」講座の講師をしていただいた胡金定甲南大学名誉教授を中心としたツアーメンバーは、昨年の「三国志・赤壁の旅」とほぼ同じ。ご夫婦組が少し増えました。が、私は家内に振られて一人での参加(残念!)。
四川省は蜀漢の地で、私にとっては「三国志ツアーの延長」の感覚でしたが、実態は、というと……訪れたのは中国奥地の山岳地帯が大半で、前半では雲南省麗江市で世界自然遺産の玉龍雪山(ぎょくりゅうせつざん、最高峰5596㍍)の4680㍍まで登り、後半には四川省で世界複合遺産の峨眉山(がびざん、最高峰3099㍍)の次鋒3079㍍に登るのがメインという「登山」の旅とも言えました<実際には、観光コースなので車と電動カート、ロープウェーを駆使>。
ですが、中国の奥深さは、やはり古代文明でした。なかでも、まるで赤塚不二夫の漫画のように目玉の飛び出した巨大な青銅器の仮面などが発掘された三星堆遺跡とその遺品を展示した三星堆博物館では圧倒されました。1920年代に地元民が偶然見つけ、当初は「世紀の発見」といわれていましたが、1980年代に本格的な発掘が始まり、日本も参加して研究が深まった現代では、殷の青銅器文化圏と同時期の中華文明の源流の一つとされているようです。
旅の目的は「日中友好と民間交流」がメインです。あちこちで、中国の人たちのあたたかいもてなしを受けました。高市早苗首相と習近平国家主席との会談など日中、日米、日韓の首脳会談が相次いだ昨今のニュースが連日、流れる中でこの原稿を書きながら、改めて「日中友好なくして、アジアの安定と世界の平和もない」との先人の言葉を実感しています。
また、「日中友好は『涓滴(けんてき)岩を穿(うが)つ』の譬えの如く、心ある先人たちが一滴また一滴と、両国の間に立ちはだかる頑強な岩盤を穿ちながら切り開き」「長い歳月を通じて堅実に積み重ねられてきた友好交流の絆の重みがある」との言葉があらためて胸に迫りました。
8日間の旅の概要を以下、記したいと思います。
Ⅱ.中国は「世界遺産の国」

25年10月11日① 関空➡広州白雲国際空港➡雲南省麗江(れいこう)三義国際空港➡麗江大研古鎮、麗江古城(1997年世界文化遺産)、ブルームーン渓谷ホテル泊
広州を経由して最初の目的地、雲南省麗江(れいこう)市に到着。町の周りは山に囲まれ、旧市街地の平均標高は2400㍍という高原の都市です。麗江市は中国南西部で、ミャンマー国境も近く、少数民族の納西(ナシ)族が築いた古都です。他都市と違って城壁を持たないユニークな街で、多くの異民族の文化を取り入れ、迷路のような街路と、世界自然遺産の玉龍雪山(ぎょくりゅうせつざん)から流れる雪解け水を活用した水路網と、それを巡る石畳の道、瓦屋根の木造家屋が織りなす独特の町並みなどを評価され世界文化遺産に登録されました。
到着時はすでに夜で提灯が灯り、古城内はライトアップされ眩いばかりの綺麗さで、クラブなどあちらこちらの店で音楽が鳴り始め、賑やかでした。中心地の世界文化遺産・麗江古城は、「千と千尋の神隠し」にも通ずる雰囲気で、古き良

き中国の町並みにタイムスリップした感じでした。また、バスから、見えた風景の中の商店の看板などに変わった記号のような「文字」を見つけました。後に紹介する「世界で唯一、現在でもつかわれている象形文字」の世界記憶遺産の「東巴文字」で、とガイドさんが説明してくれました<後に詳報>。
食事後、路地を散策。レストランや土産物店、地上楽園、桃源郷のような風景を楽しみました。そして、ホテルへ。深夜になっていたにもかかわらず、女性社長の蒋伶さんが出迎えて、歓迎していただきました。
☆世界遺産 「人類共通の財産」といわれる世界遺産は、1972年、ユネスコ総会で採択された世界遺産条約で「世界遺産リスト」に記載された「顕著な普遍的価値」をもつ建造物や遺跡、景観、自然のことです。「顕著な普遍的価値」とは、世界の国や人々が、いつの時代のどの世代の人でも、いろいろな信仰や価値観を持っていても、同じように素晴らしいと感じる価値のこと、とされます。世界遺産には、人類が作り上げた「文化遺産」と、地球の歴史や動植物の進化を

伝える「自然遺産」、その両方の価値をもつ「複合遺産」に分類されます。2025年7月、フランス・パリのユネスコ本部で開催された第47回世界遺産委員会で、新たに文化遺産21件、自然遺産4件、複合遺産1件の計26件が追加登録。これで世界遺産総数は170カ国・地域に1,248件存在します。その中の第1位はイタリア(総数62、文化遺産55、自然遺産6、複合遺産0)▽第2位中国(総数60、文化遺産41、自然遺産15、複合遺産4)で、日本は第11位(総数26、文化遺産21、自然遺産5、複合遺産0)。関係者によると、実態としては、中国にはほかにも候補地が多く存在していて、イタリアを超えて実質的には1位だが、西欧中心の審査体制がゆがめている、などの指摘もあります。

今回は、麗江古城(世界文化遺産)、玉龍雪山(世界自然遺産)、峨眉山と楽山大仏(世界複合遺産)を訪れました。他に、世界遺産とは別にユネスコが1992年に始めた登録事業で、後世に伝えるべき歴史的文書などの保存を奨励しデジタル化などを通じて世界の人々がアクセスできるようにすることを目的とした「世界の記憶」(世界記憶遺産)があり、世界で唯の「生きた象形文字」とされ、世界記憶遺産に登録された麗江市の「東巴文字」を実際に学習しました。
Ⅲ.4680mに立つ!
25年10月12日② ホテル➡世界自然遺産・玉龍雪山(ぎょくりゅうせつざん、雲杉坪<標高3240mの雲杉坪までロープウェー>、3356m➡4506m➡4576m➡4680m<➡5596m>) ➡ホテル

2日目は、いよいよ、世界自然遺産の玉龍雪山へ。日本で旅行直前に、4000㍍級の山なので防寒用ダウンが必要との情報があり、急遽購入したダウンを着込み、早朝に出発しました。また、高山病になる恐れがある、と聞き、中国人のガイドさんがすすめる中国製の薬を購入しようとしていたところ、メンバーのから、欧州観光登山の際に日本で処方してもらい「効果があった」という日本製の高山病予防薬を分けていただき、服用しました(ラッキー!)。酸素ボンベはガイドの推奨する<彼は露天で安く売られているボンベは「中に酸素が入っていないかも」と警告!>酸素ボンベを持っていざ出発!
玉龍雪山は少数民族ナシ族の言葉で「ボスオル」と言い、「白砂の銀色に輝く山」という意味といいます。13の峰からなり、最高峰は5596㍍で、一年中雪を湛え、高原の青空に映える姿が、空を往く銀の龍のようで「玉龍雪山」という名前がついてそうです。

バスで麓(3356㍍)までいき、さらに小型バスに乗り換えてロープウェー乗り場(3356㍍、既に3776㍍の富士山越え)に。登山したのが日曜日だったためか、中国人の多数の登山者で大変な混雑で、ロープウェーに乗るために1時間、順番待ち。
その間、メンバーの一人が、酸素ボンベの使い方を次のように、(少し怪しげな)講義をしてくれました。いわく「いきなり酸素ボンベのボタンを押して、シューと吸うのではなく、いったん、肺を空にするぐらいに息を吐ききった上で、ボンベの酸素を吸うこと。ただし、直ぐに吐き出さない。5秒くらい我慢して、肺に酸素を十分いきわたらせて、それからゆっくりと息を吐く、これを繰り返して、酸素を有効利用しましょう!」と。「なるほど」と思って、その通りにして、何度かボンべのボタンを押して酸素を補給、などなど、その人のいうところの「高い山に登る心得」を実践。それから目標の4680㍍を目指して登り始めま

した。
少し登ると、メンバーの中には早くも頭痛などを訴える人も出て、その場で待機・休憩する人が半数以上に。私は、特に体の変調もなく、途中の休憩もはさみながらゆっくりと登り、整備された山道を4680㍍まで登り切りました。この地点は、切り立った13の峰のうちの一つの頂上の近くで、観光客が登れる最終到達点。そこでお互いに写真を撮り合いつつ、下山を開始し、途中で休んでいたメンバーにも声掛けして一緒に、ロープウェーの乗り場まで降りてきました。
雨はパラついていたのですが、びしょ濡れになるほどでもありませんでした。しかし、あたり一面が霧で真っ白で、まるで雲の中にいる

状態。視界は超不良で、下界は見えませんでした。麓までの小型バスに乗ったのですが、窓の外を見ると、文字通り「雲の上」からの景色。下界を見下ろし、たなびく雲と下界の様子を写真に収めました。
そのあと、北京五輪開会式のチャン・イーモウ総監督制作で、下山してきたばかりの玉龍雪山をバックに民族舞踊と素朴な歌の野外・露天演劇「印象麗江」を鑑賞しました。
舞台は、海抜3100㍍超の高地、雄大な玉龍雪山の麓という特別な、また巨大な空間に、ほぼ360度<は少しオーバー!>のオープンエアステージがあり、地元の約10の少数民族500人以上(との説明でしたが、私がざっと数えても1000人近い人が演技している、

ように見えました。また、俳優の大半は学生、との話も)の人たちが、マイクをほぼ介さずに繰り広げる優雅な舞踊と響き渡る歌声は、観客の私たちを圧倒し、感動を与えてくれました。
ご当地・麗江は、かつては「茶馬街(古)道」と呼ばれるお茶を他の地域に運ぶ重要な交易拠点でした。舞台には多数の馬にまたがる男たちが登場し、馬上で舞い踊る姿を通して、古代の隊商の力強さと不屈の精神を再現――するシーンも。険しい山岳地帯を乗り越える能力に長けた短足の馬は、ナシ族にとって守護神として崇められる神聖なシンボルと言われているそうです。
ホテルに戻ると、女性社長の蒋伶さんが「歓迎の宴」を開いてくださり、地元の少数民族の方も参加して、一緒にダンスを踊ったり、地ビールをふるまっていただいたり、和やかに懇談する機会がありました。


Ⅳ.世界記憶遺産の東巴文字に出会い、「世界平和」を祈る!
251013③ ホテル➡東巴書院<トンパ文字(世界記憶遺産)>➡拉市海(らしかい)湿地渡り鳥保護区・乗馬・湖・拉市海➡納西族民居博物館
冒頭に書きましたが、3日目の午前、世界記憶遺産のトンパ文字を体験できる「東巴書院」にホテルの蒋社長が案内してくださいました。トンパ文字はナシ族に伝わる文字で、世界で唯一の「生きた象形文字」とされ、「木と石のしるし」という意味があるそうです。ナシ族の祖先は木や石など目に見えるものを描き、感情や知識、経験を具象化して文字にし、象形文字「トンパ文字」を作り出し、代々伝えられてきた、とのこと。
約1400の単字があり、2003年、ユネスコの世界記憶遺産に登録。ナシ族の中でも少数の祭祀だけに受け継がれてきたといいます。異体字も多く、しゃべった言葉をそのまま書き記すものではなく、内容も宗教や伝承に関するものも多く、理解するのはとても難しいとされます。絵文字に近い独特の象形文字で、古代中国の甲骨文字に類似する点もあるが、文字に込められた民族的な意味合いなどは同じ意味の文字でも異なる場合もあるとのこと。トンパ文字で作成された古代ナシ族の百科事典ともいえる宗教典籍「トンパ経」が残されていて、デジタル保存が進められています。また、日本では、キリンビバレッジの「日本茶玄米」のパッケージデザインに採用され話題となったこともありました(写真は、缶缶辞典のHPから)。


日本と中国も今、微妙な関係ですし、世界では、分断が進み、戦争・紛争がやみません。私は、東巴書院の和先生に「世界平和」と「中島章雄」と東巴文字で書いていただき、世界の平和を祈念しました(写真参照)。
午後は、拉市海(らしかい)湿地渡り鳥保護区に移動し、湿地帯と湖に囲まれた山道を乗馬で巡るツアーに参加しました。雲南省産のプーアル茶を運んでチベットなどと交易するために作られた「茶馬古街道」がかつて存在していたことは、前日の露天演劇「印象麗江」の演目にもありました。その「茶馬古道」と呼ばれる交易ルートを想定した(?)と思われる山道のコースを、馬と馬をロープでつないで隊列を組み、それに我々が乗って約1時間、「パッカ、パッカ」と「散策?」しました。
初めての乗馬経験でしたが、地元産の小型の馬で、暴れることもなく、おとなしい馬ばかりで、のんびりと、抜けるように澄んだ青空と美味しい空気、気持ちのいい緑の中を、乗り心地のよい乗馬体験を楽しみました。

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Ⅴ.中国の古代文明に圧倒される
251014④ ホテル➡麗江空港から四川省成都天府空港➡昼食(三国志・龐統(ほうとう)ゆかりの成都の話)➡広漢市三星堆博物館➡食事➡成都市錦里古街<買い物>➡寛窄巷子<同>

4日目は麗江空港から早朝便で成都空港着。予定では当初、三国志ゆかりの蜀の丞相・諸葛亮と、主君・劉備と功臣を一体に祀る「武侯祠(ぶこうし)」に向かう予定でしたが、変更になりました。「20世紀最大の発見」と当初いわれていた「三星堆(さんせいたい)遺跡」の出土品を展示する「三星堆博物館」に向かったのです。
と、その途中寄ったレストランで、三国志の専門家で、ツアーの団長から、成都にゆかりがあり、劉備玄徳に仕えた武将龐統(ほうとう)の逸話が披露されました。諸葛亮孔明が「臥龍」(世に出るのを待って伏せている龍)と呼ばれたのに対し、龐統は「鳳雛」(鳳凰の雛)と呼ばれ、この二人のうち一人でも味方にすることができれば天下を取れる、と言われていた人物です。

三国志は、『正史』の三国志と、のちに蜀(劉備)を正統として描いた(フィクションが多い)『三国志演義』があり、龐統はどちらも高く評価していて、諸葛亮と並ぶ英傑として描かれています。劉備は天下三分の計を実現するために益州(現在の四川省)へ侵攻したさい、龐統が立案した攻略策を採用。劉備と同じ「劉」一族の劉璋の蜀の国・成都を攻略しました。しかし、その途上で龐統は流れ矢を受けて戦死。歴史にifはありませんが、もしも龐統が孔明とともに劉備を支えていれば、というお話でした。
で、三星堆遺跡と同博物館。どんな遺跡なのか、事前の下調べが不十分でした。バスの中で、ガイドさんからは「目玉がビヨーンと飛び出した仮面」「宇宙人だと思った」などとの説明を聞いて、なんとなく見たり聞いたりしたことがあるな、思ったのですが…………。博物館は、大変な混雑でしたが、日本語で学芸員の方が丁寧に説明してくださり、「これはすごい!」と本当に圧倒されました。
約5000~3000年前に栄え、滅亡した古代中国文明遺跡で、大型の青銅仮面(巨大な突き出た眼や誇張された仮面)、青銅の神樹(ツリー状像)、巨大人

物像、玉器、金器、象牙・漆器の一部が壊されて埋納されたと考えられる大量の青銅器断片などが発見され、その多くは焼かれ、壊され、慎重に埋められていました。1920年代に発見されましたが、本格的に世界の注目を集めたのは1986年、地元の人々が多数の青銅・玉・金器を見つけたことで、世界の考古学界に衝撃が走ったのです。
発見当初の評価は、私が教科書で学んだ「中国中原(黄河流域)の青銅文化」と違って、「別系統の高度な地域文化」などというものでした。奇抜な外観から(科学的根拠のない)「異民族起源」や「宇宙人説」のようなセンセーショナルな解釈もあったといいます。
博物館の方の説明でも「不明」とか「よくわからない」が連発されていました。それまでの私の知識は、「中国文明=黄河文明」でしたが、研究が進んだ現在の評価では、当初と大きく違ってきています。「大規模・恒常的な宗教・儀礼センター」という見方が大勢のようで、放射性炭素年代測定などの分析で、三星

堆遺跡の主要な埋納・祭祀活動は殷末期~周初期に重なり、中原の殷王朝(黄河文明)とほぼ同時代に活発であったことが分かってきました。
したがって「完全に孤立した“異質”文明」ではなく、中原と接触・交流しつつ、独自の美術様式・宗教体系を発展させた地域的な強い勢力(蜀の一文化)という見方が主流、といいます。三星堆は「中央(中原)文化の単なる分岐」でも「孤立した奇妙な例」でもなく、中原の殷と同時代の、四川盆地(古蜀)の強い地域文化――政治的・宗教的中心を持つ重要拠点であることが分かってきている、といいます。
まとめると、三星堆遺跡は、中国四川地方で、独自の発達を遂げた青銅器文明の遺跡。両目の飛びだした仮面など、独特な形態が見られるが、殷の青銅器文化圏と同時期の中華文明の源流の一つ、と定義されています。
Ⅵ.中国の国宝・パンダは正直、かわいい! 驚きの治水施設!
251014④ ホテル➡パンダ谷(成都ジャイアントパンダ繁殖研究基地都江堰野生復帰繁殖研究センター)➡都江堰水利施設

5日目は、女性陣のお目当てのパンダ。個人的には今年6月に和歌山から中国にパンダが返還されたばかりだったので再会できるか期待しましたが、パンダ基地は複数あり、再会はかなわず、でした。ツアーで訪れたのは成都ジャイアントパンダ繁殖研究基地都江堰野生復帰繁殖研究センター。敷地面積は1336km²で、上野公園(約0.540km²)の約25倍。千年の歴史がある都江堰(とこうえん)の水利プロジェクトと道教の聖地青城山に隣接したところに立地。竹や木が茂り、小川のせせらぎ、鳥のさえずりと花の香りも心地よく、自然条件や気候に恵まれ、700種以上の動植物が生息する天然のパンダの野生復帰のための基地となっています。
パンダ約20頭がいて、繁殖と野生への復帰のための作業が実施されていました。合わせて、レッサーパンダも。愛らしい写真を、と思ったのですが、ほとんどのパンダが妊娠中で、寝ていました。なので、ちょっと残念な状態で、女性陣からは、不満の声が上がっていました。が、そこは、時の運と割り切ることに。中国の観光客も大勢いて、途中、ベンチに座っていたメンバーに中国の女性から

おいしいお菓子と果物をたくさんいただき、私もご相伴にあずかり、日中の民間交流をさせていただきました。
次いで、都江堰(とこうえん)水利施設に向かいました。中国の春秋時代の「斉」の宰相、管中は「善よく国を治める者は、必ずまず水を治める」と、語ったといいます。国を安定して治めるためには、まず治水(水害を防ぐこと)が最優先されるべきだという考え方で、政治の基本で、現代にも通じます。その代表例の都江堰を見学しました。
都江堰は、長江(揚子江)の支流の岷江(みんこう)が山脈を抜けて成都平原(四川盆地の西部)に出た場所にできた扇状地の扇頂部に設けられた堰(せき)。岷江の水を左岸(東側)一帯へと分水し、2
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300年後の現在も5300 km2の農地の灌漑に活用されており、爆薬も土木機械もない古代の優れた土木技術を今に残すもので、2000年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。
水不足に苦しんでいた成都平原はこの堰によって水田や桑畑などが急速に広がり水運も便利になり、「天府之国」といわれる大穀倉地帯となった、といいます。都江堰の先端部分、扇頂部の「魚嘴(ぎょし)」に行き、写真を撮りました。形が魚の頭に似ていることから名付けられ、岷江の真ん中にあって、川の流れを内側と外側に分けて、西に分割された外江を主流とし、排水のために使用。東の内江は、人工水路に引き入れ、灌漑設備として利用。古代の魚嘴は、竹カゴで組み立て小石を積んで作られていた、そうです。
☆閑話休題①<胡金定先生が杜甫の詩を朗詠> 都江堰は揚子江の支流の岷江の水利施設ですが、支流といっても岷江は実にでかい川。魚嘴にたどり着きまで、山中を昇り降りし、とても長い吊り橋を2回渡り、また戻るまで、かなり歩きました。その途中の東屋=休憩所で、胡先生が杜甫(「国破れて山河あり」<「春望」>などで知られる盛唐の詩人。李白と並び称され、「詩聖」といわれています)の詩「登楼」を中国語で朗詠するシーンがありました。「花は高楼に近くして客心(かくしん)を傷(いた)ましむ」「この夕暮れ、私は口ずさんでみる。諸葛亮の愛唱した『梁甫吟』を」<最初と最後の句の日本語訳>云々などと。この詩について三国志の専門家の団長が通訳。詩は、53歳の杜甫が成都で、唐の首都長安が他国に侵略されたことを聞き、劉備が諸葛亮孔明の助けを得て蜀を建国したことに想いをはせて、自らも、孔明が劉備を助けたように、唐のためにできることをしたいと、孔明を追慕する詩である、との解説をしていただきました。
「歴史を知ろうとするには、何よりも歴史的事件のあった地へ行ってみることだ」とは20世紀の大歴史家トインビー博士の言葉です。孔明・劉備の時代から5世紀を経て、杜甫は唐王朝の国難を救いたい、孔明のようになりたいとの自身の思いを詩に託したのでしょう。
Ⅶ.世界最大の石仏にびっくり!
251016⑥ ホテル<理事ら楽山市書記と面談>➡昼食・楽山市政府と懇談、記念品交換➡楽山大仏景勝地➡郭沫若故居➡夕食<新・3兄弟誕生>

6日目は、午前中、胡先生らが楽山(らくざん)市政府の幹部と面談。その後、世界複合遺産の「峨眉山(がびざん)と楽山大仏」の楽山大仏に向かいました。
楽山大仏は、713年着工、803年(871年説も)に完成。山が連なる内陸部を流れる長江の支流の岷江(みんこう)など3つの川の合流地点の岸壁に掘られた摩崖仏で、その顔は100畳分もあり、高さは71㍍もあります。 東大寺の大仏の5倍の大きさの弥勒菩薩の坐像で、近代以前に造られたものでは世界最大・最長の仏像・石像です。
その威厳に満ちた姿は「山は一つの仏、仏は一つの山 佛是一座山、山是一尊佛」と称えられています。他の大仏の大半は国家が造ったのに対して、楽山大仏は民衆の力で作られました。大仏周辺では、塩分を大量に含んだ地下水を煮たてる方式で製塩。年間生産高は現在価格で1千億円以上とも。塩は岷江など水路を使って運ばれましたが、頻繁に水害を起こす川だったため、塩の恵みに感謝し、暴れ川を治めてもらいたい、との願いから人々の布施を受けてこの巨大な石像仏
が彫られ、工事中に出た土砂を川に流し入れて川底を浅くし、氾濫を減らすことに成功しました。楽山大仏は、千年以上も水運の安全と民衆の営みを見守り続けています。
午後からは、楽山市出身で20世紀中国を代表する文学者・歴史学者・政治家の郭沫若(かくまつじゃく、1892―1978)の旧居を訪問。そういえば、三星堆博物館でも考古学者としての郭沫若のことがパネルにあったことを思い出しました。甲骨文字や青銅器銘文の研究で知られています。
彼は日本に留学し、魯迅のように医者を目指して九州大医学部を卒業したものの、文学、歴史の分野に方向転換。中国の近代文学運動「五四運動」の先駆者となり、古代社会を唯物史観から分析した「中国古代社会研究」(1930年)はマルクス主義的歴史学の嚆矢(こうし)といいます。さらに政治家・文化指導者として中国共産党を支持、戦後は中国科学院院長として来日もしました。
郭沫若の旧居にたたずむと、この多才な人物が詩人・劇作家・歴史学者・政治家という複数の顔を持つ淵源を見た思いがしました。一方で、彼の女性関係は複雑で、「いい加減な人」という厳しい声も聞きました。「天才的詩人だが政治に屈した知識人」「体制に協調した文化官僚」など評価が二分する人物でもある、という評価があることも知り、ちょっと複雑な気分になりました。

と郭沫若(楽山市の郭沫若故居で-300x225.jpg)
Ⅷ.迷子になる
25101⑦ ホテル➡峨眉山➡途中で迷子➡金頂

7日目は、もう一つの複合遺産、峨眉山(がびざん)へ。成都市の南約160kmにあり、中国四大仏教名山の一つ。標高3099mの万仏頂(まんぶつちょう)を最高峰に、4つの峰からなり、中でも2つの峰が向かい合っている姿が美しい眉のように見えることから、峨眉山との名がついたそうです。峨眉山の次鋒で標高3077㍍の金頂(きんちょう)には普賢菩薩を祀る黄金伽藍が立ち並んでいました。
なかでも目を引くのが「四面十方普賢金像」。2016年に完成した銅像で、金メッキを施され、高さ48㍍、重さ660㌧。3頭の六牙白象の上に蓮の台座があり普賢菩薩が座り、360度見渡せるように10面の顔をもつ珍しい姿です。で、「金頂にある雲海テラスからは、山を覆うように流れる雲海が一望でき、神秘的な光景を眺めることができ、特に、日の出の時に雲海を見ると、太陽の光によって雲に影が投影され、影のまわりに光の輪が発生する仏光をみられる場合も」、などと説明がネット上にありますが、今回は悪天候で、時折雨がぱらつき、雲の中にいるように状態で視界ほぼゼロ。直下にいても「四面十方普賢金像」は、霧の中にぼんやりとたたずんでいるようで、写真もご覧の通り(別途、

好天時の写真をネットで見つけ拝借しました)。場合によっては数メートル先の人の顔が見分けられないほどでした。
☆閑話休題②迷子になる!! 4680㍍の雲南省麗江市の玉龍雪山(ぎょくりゅうせつざん)には及びませんが、3077㍍の金頂も結構な高さでした。しかし、酸素ボンベなどは必要ありませんでした。が、私自身にとっては重大事件が発生したのです。麓でバスを降りる際、ちょっと、手間取り、最後になってしまいました。降りると、先に降りたメンバーの姿が見えず、右か左かどっちに行ったのか分からなくなったのです。霧も濃くなっていくばかり。約10分、周囲をウロチョロし、「ロープウェーに乗ったのかも」と思い、それらしい待合ホールに入ってメンバーを探しても誰も見つからず、これまた勝手

に「先に乗ったのか」などと考えて、入場口から強引に入ろうとしたところ係員に止められてしまいました。が、ここであきらめられない、と「入場させてくれ」と英語で伝えましたが、まったく通じず、強引に通り抜けました。が、しばらく進むとロープウェーの入り口ではなく、下りのバス乗り場と判明。元に戻り、係員に頭を下げて謝って屋外に出て、途方に暮れていると、幸いにも、ガイドさんに発見され、無事、メンバーと再会--という「失敗」をやらかしてしまいました。反省!
Ⅸ.再見! 悠久の中国!
251018⑧ ホテル→成都天府空港➡関空
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最終日8日目は、朝食後に反省会を開き、メンバーそれぞれが今回のツアーの思い出を語り合いました。また、来年も中国に行こう!との思いを固め、関空に。さらに10月27日には、駐大阪中国総領事館を訪れ、薛剣(せつけん)総領事と懇談させていただきました。
前漢の学者、政治家の劉向(りゅうきょう、BC79~BC8年)は「説宛(ぜいえん)」巻七政理篇で、「耳で聞いたことは、目で見ることに及ばない。目で見たことは、足で踏むのに及ばない。足で踏むことは、手で確かめることに及ばない」と記しています。これは、耳で聞く情報よりも目で直接見る経験が重要であり、目で見るだけではわからないことも、実際に自分の足で歩いて確かめることでより深い理解が得られ、最終的には手で触れて細部まで確かめることが最も確実であるという考え方を示しています。さらに言えば、情報が伝聞されるほど不確かになり、実地での経験や直接的な確認が最も重要であることを説いています。今回の旅で、この言葉の通り、まさに「中国に行かなければ、中国の真実が分からない」ということを実感しました。
(元編集局、 中島 章雄)