先輩後輩
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戦後80年に想う「8月15日夜のすき焼き(磯貝喜兵衛96歳)=東京毎友会のHPから

2025.08.25

先輩後輩

 2025年8月15日は終戦80周年記念日。齢96歳となり、種々の感慨をおぼえています。

 まず、開戦の昭和16年12月8日朝。大阪で、中学1年生の私は朝食時にラジオの臨時ニュースを聞きました。「帝国陸海軍部隊は本8日未明、西太平洋上に於いて、米英軍と戦闘状態に入れり」という大本営の発表です。父は大阪で蚊帳の製造業を営んでいまして、南米やインド向けのベッド用の蚊帳を輸出していました。まだ、2階に就寝中で、私は急いで開戦のニュースを伝えると、これで貿易は全面ストップするとあって、布団を被ってしまいました。

 私が天王寺の学校に登校すると、校内は戦争のニュースで大騒ぎ。3時限目の音楽の授業の最中に「宣戦の詔勅が出ました」という知らせが入り、音楽の先生の「太平洋行進曲を歌おう!」という呼びかけで、全員合唱したことを覚えています。

 2年生の時に勤労奉仕が始まり、農作業の手伝いや防空壕掘りに駆り出され、1年後には軍需工場への学徒勤労動員が始まりました。私の場合は当時、大阪港の方にあった中山製鋼所に通ったのですが、同じ工場内で英国か米国の捕虜たちも労役に駆り出され、その時、生まれてはじめて外国人の兵隊たちの列を見かけたのです。

 中学生の軍事教練は、農村への勤労奉仕、軍需工場への勤労働員と並行して、盛んに行われました。写真右のような装備で、教練に駆り出されました。

 昭和20年3月末の大阪大空襲の夜は、大阪城から東方へ5㌔ほど離れた自宅にいて、B29米軍爆撃機が旧市内の大半を焼き尽くした空襲を目撃しましたが、幸いわが家は無事。大空襲の数日後に、この年だけ政府が決めた、中学4年生の繰り上げ卒業が行われ、5年生と一緒の卒業式となりました。学友たちの間には、数日前の空襲で家を焼き出され、帽子も被れない者もいました。

 上級学校進学者は新しい動員先へ移り、私の場合は一足先に滋賀県の山奥に疎開していた家族のもとへ合流。そこから、草津市の軍需工場へ通うことになりました。7月末だったと記憶していますが、ある日突然、空母を発進した米軍の艦載機が草津市上空に飛来。私のいた工場付近を機銃掃射したのです。私自身、工場から艦載機が襲来してくるのを目撃し、夢中で近くの机の下へ飛び込んだのですが、耳もとで、ドラム缶を叩くような物凄い音がして、体中がしびれたのを、今でも鮮烈に覚えています。

 それから間もない8月15日。この日はお盆で、父の実家へ家族じゅうで行き、先祖のお墓参りを済ませたあと、正午から天皇陛下の玉音放送があるというので、古いラジオの前で聴いたのですが、雑音が多くてほとんど聞き取れません。わが家では「どうやら、最後まで戦争を続けるということらしい。」と話していたら、近所の人がやって来て「やっぱり、負けましたな!」という。やっと、敗戦と知ったのですが、家長の叔父が「占領軍が来たら、徴発されるから……」と、飼っていた鶏をつぶして、すき焼きの御馳走となりました。

 今となっては「お笑いの一席」ですが、これが私にとっての『敗戦の日の一席』です。

                                   (以上)

                          ◇

 磯貝喜兵衛さんは、1954年入社。徳島支局、大阪社会部、東京社会部、大阪社会部デスク、京都支局長、大阪編集局次長、東京編集局次長。毎日映画社社長。
=東京毎友会のホームページから2025年8月21日
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