2025.06.06
先輩後輩
《毎日新聞西部本社の福岡本部は、〒810-8551福岡市博多区中洲中島町1の3のオフィスビル「福岡Kスクエア」11階に移転し、6月9日から業務を開始します》
これは、2025年5月下旬に掲載された社告である。
《福岡本部は1969年から56年間、福岡・天神の毎日福岡会館を報道、事業、営業、販売の拠点としてきましたが、一帯の再開発計画を受けて移転します。移転先は、49~66年に福岡総局(当時)があった地でもあり、新たな気持ちで情報を発信していきます》
75入社、元東京本社社会部長玉木研二さんに、移転の感慨を綴ってもらった。
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「福岡と小倉はいったいどういう関係になっているのか」。西部勤務の経験がない人が一様に尋ねるのがこの疑問だった。近年大幅な組織改編はあったが、いずれも西部の本拠地はここなるぞと気概高く、傍目には少々不思議でもこの「二頭立て」が西部特有の活気(時として摩擦)を生んだと、両方の勤務経験が計10年近い私は思う。
福岡都心の再開発に伴い福岡本部が天神かいわいから博多へ移る。こう書くだけで情景が浮かび、風のにおいまでかぎ分ける。そんな出身者は多いだろう。天神は最新情報と商い活況の街(かつて東宝特撮映画「ラドン」が翼を広げ降り立った)。博多は「山笠のあるけん博多たい」。一大ビジネス街を支える商人文化の街でもある。毎日新聞の新拠点もぜひその隆盛に溶け合ってほしい。
しかし一方で、長く親しんだ那珂川沿いの毎日福岡会館にも惜別の情は深い。誰か故郷を想わざるの心境だ。眼下に那珂川がネオンを揺らしながら博多湾の方角に消えていく。世の悦楽と哀愁を寄せたたような、西日本随一の歓楽街・中洲である。
会館に入居する福岡本部(往時は福岡総局)の真下の橋を渡るとすぐその世界。渡ってしまえばもう引き返す気が起きぬノーリターンの「帰らざる橋」だった。
そこを戻れば、会館の下は名物の屋台が提灯を並べて待つ。飲んでばかりと思われようが、仕事もした。東京に来て最初になじんだのは屋台だった。時折不思議にアイデアが出るのだ。「革命は銃口から生まれる」をもじって「企画は屋台から生まれる」と気勢を上げた。残念なのは、翌朝それをきれいに忘れていること。かろうじて断片的に覚えていても、実にくだらないことだった。
毎日新聞西部本社は大正時代、大阪毎日新聞(大毎)が九州に進出し門司港に拠点を構えたのが始まり。大陸向け輸送の要衝であり山口や東九州にも便が良かった。戦後の高度経済成長期に西部本社ビルを小倉に構える。既に小倉を含む北九州市は「五市合併」(1963年)で繫栄し、毎日新聞はその企画キャンペーンで新聞協会賞を得た。
福岡は商都としての伝統も生かし、戦災から復興。福岡本部移転で新たに生まれるカルチャーも楽しみだ。毎日会館があった福岡市中央区は元々城下の武家の街であり、博多区は商人の街だ。年一度、互いに囃子で交流し、仮装など無礼講を楽しむ伝統の大市民祭「どんたく」。この開放感としゃれっ気が新時代にも福岡・博多繁栄のカギになるだろう。
さて話が少々脱線した。出稿部門のほぼすべてが見通せた福岡総局の編集室フロアの適度な狭さは、意思疎通しやすく、強みでもあった。宿直ベッドの窮屈さには辟易したが……。はめ込みの大ガラスは半世紀以上にわたって記者や多くのスタッフの哀歓を映してきた。
記録によれば、会館竣工は1969年5月。その頃、福岡を騒然とさせていたのは、前年6月に九州大学で建設中の大型電算機センターに米軍機ファントムが墜落、残骸をさらしたまま学生たちが撤去を阻止し続けていた事件である。
私は広島の高校生だったから現場を知る由もないが、学園紛争の空気はまだ全国を覆っていたころである。いよいよ4000人の機動隊突入となった10月14日。当時の総局長が現場投入の記者を並べ、点呼をとって「興廃この一戦にあり」式の軍隊風訓示をひとくさりやったという伝説がある。
その翌年3月31日。赤軍派にハイジャックされた日航機「よど号」が福岡空港に着陸した。前代未聞の大事件である。通信、電送といえば有線電話の時代。記者は殺到すれど、情報は大混乱したありさまを後年、先輩記者らからよく聞いた。現場が大きな広がりを持つ事件事故は、速やかに有線電話がある事務所や民家を拠点として借り上げ、確保すべしという教訓は何度も聞かされたものだ。スマホ時代には無用な懐旧談だが、あの時代、新幹線事故に備えて、沿線の家々で取材拠点になりそうな所の一覧表と住宅地図を備えていた。今は笑い話だ。
福岡の気風は快活で、時に荒い。とある夜、総局内で言い争いが始まった。酔いもあったらしい。怒声とともに、机に跳び上がった者がいた。その時、デスク席と小倉の報道部を直通で結ぶ専用線の受話器が外れ、総局の騒動が筒抜けになった。小倉はそれをたしなめるでもなく、この実況中継を楽しんだそうだ。
屋台にまつわる思い出も多い。ある屋台からは転勤先に電話がかかってきて「困った事情で仕入れの金繰りもできない、すぐ返すから」と工面を頼まれた。とても応じられる額ではなかったけれど、何分の一か振り込んだ。予感した通り、それきりだった。連絡なし。あちこち頼んだようで、応じた人も少なくなかったらしい。不思議なのは、それで立腹したという話がなかったことだ。
たわいもない話だが、あの焼酎やおでん、自慢のそばの味とともに、福岡時代の記憶の点景となって残る。
あえて妄想めいたことをいえば、私は柄にもなく、この出来事に福岡・博多の土地の大らかさや気風を勝手に思い描いたのかもしれない。三十数年前のことである。
新しい拠点はまた、それにふさわしい新しい伝説を生むだろう。
(玉木 研二)
=東京毎友会ホームページから2025年6月3日
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