2025.01.02
閑・感・観~寄稿コーナー~
2024年の元日の午後4時10分、金沢市のマンション内の自宅で震度5強の揺れに遭遇した。お節料理におとそと新年の朝を楽しみ、初詣をして帰宅後のことだった。ドドーンと揺れがきて、先に台所のテーブルにもぐった連れ合いから「早く机の下に」と怒られ、私も勉強机の下へ。すると、さらに激しい揺れがきて室内の棚の上から食器などが転げ落ちて、大きな音をたてて割れた。「怖いよー」と彼女は絶叫。揺れの合間に、家を出て近所の駐車場へ逃げた。
深呼吸をして気を取り直し、スマホで地震速報を見ると、金沢市から100㌔先の能登半島奥部は震度7。「えっ、阪神大震災と同じやん」と手が震えるほどに驚き、あわてて支局へ向かった。
その夜のうちに大阪本社から応援記者が続々と到着し、2日早朝に能登半島へ車で向かわせた。しかし、道路は地盤隆起等で切れ落ちるか、地すべりで埋まっているというあり様だ。それでも迂回路を探し、2日夜には奥能登の入口まではたどり着いた。生き埋めになった人の救助があちこちで行われており、記者はその取材にあたった。泊めてもらえる施設はなく、厳寒期ではあったが、車中泊などでしのいだ。3日には輪島市の中心部へ入れるルートをようやくみつけた。その先にあったのは、丸焼けとなった輪島朝市通りだった。
この地震での家屋被害は全壊が6400件以上、半壊が2万3000件以上だった。黒瓦を屋根に乗せた堅固な昔ながらの民家も数多く倒壊した。土砂崩れは3000カ所以上に及んだ。津波も発生し、浸水域は190㌶で波の高さは最高4㍍になったという。この結果、地震の影響を直接敵に受けて亡くなった人は230人近くに達した。
半島特有の地形が救援を困難にした。どの道も半島のつけ根近くの金沢市と結ぶように作られているが、いずれも損傷が激しいうえ、通行可能だったいくつかの道は大渋滞に陥った。半島であるから、陸上に別方向から奥能登と行き来できるルートはない。半島沿岸部各地で起きた海底隆起のため、ほとんどの港が干上がり、船も使えなかった。こうしたことは
避難生活の長期化にもつながり、直接死の死者数を上回る270人以上の災害関連死を生じさせる結果につながった(2024年12月現在)。今回は幸い、北陸電力志賀原発に大きな被害はなかったが、海底隆起地から非常に近く、立地場所で大きな地盤隆起があったら、どのような事態に陥ったことだろうか。
被害規模も想像以上であったうえ、圧倒的な地球の力を見せつける地震だった。最高4㍍の海底隆起地が能登半島外周部一帯に生じた。海岸沿いの岩礁には石灰藻などが付着していて、干上がると白化する。海底隆起地は真っ白な新たな〝陸地〟となった。神々しくもあり、その景色には息をのむばかりだった。
夏に入っても、復旧・復興作業はろくに進んでいなかった。輪島市の朝市の焼け跡には、まだ黒く焼け焦げた建物の残骸がたくさん残っていて、「7、8カ月もたって、なにも変わらない。こんな状況は、東京や大阪が被災していたならありえない」などと、辛抱強い北陸の人々でも怒り始めた。この後、家屋解体などがようやく本格化していく。
9月21日朝に能登半島で線状降水帯が発生し、集中豪雨が襲った。記録ずくめの大雨だった。24時間雨量は輪島市で400ミリ、珠洲市で300ミリを超え、観測記録を塗り替えた。この水害だけで死者16人、重軽傷者47人の人的被害が出て、住宅被害も全壊113棟、床上浸水53棟など計1800棟に及んだ。能登地震で被災地の山々には多数の倒木などが放置されていたが、そうしたものが流出し、橋や堤防を破壊し、被害を増大させたという見方もある。能登半島地震から9カ月後のことで、自宅の修理を終えたり、ようやく営業再開した店が濁流でめちゃくちゃになった。山間部や海辺の限界集落にも人が戻る動きが出ていたが、頓挫させた。「地震以上に、あの豪雨に心を折られた」と嘆く被災者が少なくなかった。
そして、能登半島地震から1年となる。再び冬を迎えて、応急措置で通れるようにした道路が雪で覆われる。亀裂や凸凹が見えなくなり、通行の安全性が懸念されている。雪の重みに地震の悪影響を残す建物がどこまで耐えられるかも問題だ。仮設住宅は冷えるから、入居者の健康にも目配りが必要だ。能登半島の復旧・復興の道のりは遠い。
(元社会部。現金沢支局長、戸田 栄)