2024.12.24
閑・感・観~寄稿コーナー~
「これからは、私たちがやってきた運動を、次の世代のみなさんが工夫して築いて」。2024年のノーベル平和賞の被爆者の代表が、授賞式で世界の自覚を促しました。「核なき世界」の追求は、唯一の戦争被爆国・日本が率先して取り組むべき教育のテーマでしょう。新聞記者から大学教員になったときから、少しでも社会とキャンパスをつなぐメディアになれればと思ってきました。「自ら考える未来を」。平均年齢が85歳を超えた被爆者は問いかけます。教員生活12年を振り返り、大学の現場から報告します。戦後80年の2025年。何をすべきなのか。みなさんの考えもお聞かせください。
あのキノコ雲の下で何が起こったのか。世界の一人ひとりにヒバクシャの声は届いているのだろうか―。先輩の長谷邦彦さんの呼びかけで2014年、原爆被害者の証言を多言語に翻訳して世界に発信する活動を始めました。語られる体験の多くは日本語です。被爆の実相を伝えるには「ことばの壁」を乗り越えなければなりません。被爆者証言の世界化ネットワーク(Network of Translators for the Globalization of the Testimonies of Atomic Bomb Survivors 略称・NET-GTAS)と名付け、活動の事務局を教員として勤務する京都外国語大学に置きました。それから10年。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞受賞は、長年の被爆者の地道な活動による「核兵器使用のタブー」が弱まりつつあることへの危機感の表れといえるでしょう。
NET-GTASは外大をはじめ、筑波大学、横浜国立大学の外国語のできる教員やプロの翻訳家、平和活動家ら約40人に参加してもらい、京都在住の被爆者とともにスタートしました。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が保有する被爆者証言映像に多言語で字幕を付けて、祈念館のサイトから世界に発信しています。翻訳言語は2024年末で、英語、中国語、韓国朝鮮語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ハンガリー語、ポーランド語、ロシア語、スロベニア語、クロアチア語、アラビア語、ヒンディ語の15言語までになりました。いわゆる国際共通語の英語に偏るのではなく、多くの国の母語で被爆の実相を感じ取ってもらいたいとの願いがあります。会員も国内外で200人を超え、外大はもとより、ドイツのボン大学やオーストリアのウィーン大学では証言翻訳授業が行われています。
外大の事務局の小部屋に学生の出入りは自由。訪れる被爆者と直に接するうちに、サポーターになり、やがて証言翻訳にかかわるなど、さながら課外ゼミです。2019年にローマ教皇が来日した時には、学生が教皇あてに、その母語のスペイン語でNET-GTASの活動を紹介する手紙を送り、広島での「平和のための集い」に招待されたこともあります。
被爆の記憶の継承は当初からの課題でした。外大には、外国語学部と短大の新入生全員を対象にした「言語と平和」という必修授業があり、そのコーディネーターを続けてきました。建学の精神「言語を通して世界の平和を」に基づき、学内外の講師が社会のさまざまな課題をリレー講義形式で取り上げ、学生は「何が問題なのか」を知り、解決策を探ります。「平和」とは人間の自由を脅かすあらゆる「抑圧要因」が解消されること。これが授業の基本的な考え方です。学生たちは、さまざまな当事者の現場からの声に触れます。社会は多様性の中でこそ深呼吸しやすくなると感じてほしいからです。
テーマや講師は社会状況に即して変えていますが、不動のテーマが「ヒバクシャの声をいかに生かすか」です。ここ数年は、アラビア語翻訳家でNET-GTASの活動の中核を担う男子卒業生の講師(30)が向き合ってきました。教員の講義ではなく、身近な立場で対話することで、ともに考える狙いがあります。
彼は授業の冒頭で、学生たちが通う京都市やそれぞれの故郷も原爆投下の候補地だったと強調し、「自分ごと」として被爆の実態を知ることから始めてほしいと訴えます。無念さや怒り、差別への恐れ…。さまざまな思いが交錯し、長い時間をかけて語り出した被爆者たち。核兵器も戦争もなくしたいという被爆者の強い思いを伝えます。核廃絶を求めて被爆者とともに米ニューヨークで行進した経験や被爆者の声が、核兵器禁止条約の成立に果たした役割の大きさもわかりやすく解説します。
とはいえ、彼自身、NET-GTASにかかわるまで関心があったわけではありません。被爆者と交わり、証言翻訳作業で心情をくみ取るむずかしさを体験するうちに、生き方への変化が生まれたそうです。そうしたプロセスも正直に語り、核兵器禁止条約の締約国会議では国の代表だけでなくNGOや市民団体などが対等に発言していると説明。自ら考え、声をあげる意義を学生たちに問いかけます。
授業でアンケートしたところ、新入生の6割が被爆体験を聞いたことがあると回答したものの、原爆投下の被害の状況を外国の友人に説明できるのは、半数に満たない状況でした。ただ、社会貢献活動を「したい」学生が33%、「できればしたい」が63%に上りました。被爆証言の多言語化に関心を示した学生も8割近くいました。学生たちが踏み出す一歩に期待しています。
家族ぐるみで被爆証言の翻訳活動に取り組むハンガリーの女性が、NET-GTASに寄せた手紙の一部を紹介します。
<個人の中にはいろいろな文化があり、それらの文化が個人の心の動きに影響を与えていると言われます。(…中略…)被爆者証言の翻訳を通じ、私の中には「被爆者」に関する文化も宿り、作業を重ねることで、私の大切な一部となっています。翻訳した字幕付きビデオを見た人の中にも「原爆」「被爆者」に関する文化が宿るはずです。そういう人たちが増えれば、多くの人の考え・行動に影響を与え、世界の平和につながるかもしれない。(…中略…)自分の翻訳が正しいのか。家族(娘、息子、夫)との議論にも熱が入ります。私たち家族にとって素晴らしい経験となっています。>
NET-GTASは2019年、大学から独立し事務局を学外に移しました。活動を始めた当初の問いかけ、ヒバクシャの声はどれぐらい世界の市民一人ひとりに届いているのか。戦後80年の節目は、その検証から始めたいと思います。国境を越えた市民の連帯こそが世界の為政者を動かすと信じているからです。
NET-GTASのホームページ(http://netgtas.com/)もご覧ください。
(元社会部・池田 昭 2024年12月22日)