2023.08.05
先輩後輩
本当はブレグジット(英国の欧州連合=EU=離脱)に関わりたくなかった――というのが、偽らざる本音だった。
ロンドン赴任はうれしかった。その前の勤務地ヨハネスブルクではテロや紛争の取材に傾注し、アフリカ大陸を駆け回った。取材すればするほど、テロ・紛争の内情に迫る機微のインテリジェンスやキーパーソンはロンドンに集まることが分かってきた。加えて、イスラム過激派による大規模テロがこのころ、欧州各国で頻発していた。ロンドンを拠点に欧州で「テロとの戦い」の深奥に迫る絶好のタイミングだと思い、やる気が湧いた。
ところが、である。2016年の国民投票で国民の選択が示されたはずのブレグジットは、私が赴任する19年4月段階になっても、遅々として進んでいなかった。本来のタイムスケジュールなら赴任直前の3月下旬に離脱を果たして、めでたく「終了」するはずだったのだが、離脱派と残留派の対立で英議会が膠着し、離脱するのか残留するのか、その方向性も見えなかった。
個人的に関心が持てない割には、EUとの交渉プロセスやその中身、英議会の動きや議論の内容はややこしい。一方でニュースバリューは大きいので、日々、取材して出稿しなければならない。「面倒くさいことに関わる羽目になったな」というのが、赴任時のネガティブな思いだった。
仕方ない。覚悟を決めてブレグジット取材に取り組もうと思ったのだが、まず、日本からこの問題を眺めていると、なぜEUから離脱したいと思う人がそんなにも多いのか、今一つピンと来ない。人々の心根をあれこれ推測できるほど私は欧州についての知見もない。だから、とにかくいろんな場所に行き、さまざまな人に会い、愚直に聞いていこうと思った。「なぜあなたはEUから離脱したいのですか?」(もちろん、残留派に対する「なぜ残留したいのか?」も)と。
あちこちでたくさん聞いて回るうち、巷間言われ、あるいは記事などで読んできたことが実態と少し乖離しているように思えてきた。
離脱を支持する理由としてしばしば「反移民」感情が指摘される。その面は否定できず、また離脱派の人々も具体的理由として実際に移民問題を挙げたりするのだが、離脱支持者の多い地域を歩いて観察し、離脱派の人たちの話を注意深く聞いていると、もっと根深い別の問題に突き当たる。「移民」というのは不満を表明する際に用いられる、ある種の「記号」なのではないかと考えるようになった。
では、その「根深い問題」とは何なのか。それについては「拙著を読んでください」ということに尽きるのだが、もし架空の離脱支持者の声でここに示すなら、こんな言い方が適当かもしれない。自分たちで選ぶことのできないEU官僚が主導することに従うことへの不満と、EUに唯々諾々と従うのみで困窮する地方の声をないがしろにしている英政府への「ノー」――と。
移民や貧困といった「記号」として表出する不満の下に、EUや英政府に「裏切られた」という感情の層があり、そのさらに下にナショナリズムがある。あるいは、ナショナリズムが駆動して「裏切られた」という感情や不満を噴出させている。取材を進めるにつれ、そんな感覚が私の胸に刻みつけられた。
だが、ここで俎上に上げているナショナリズムは英国という連合王国全体を包摂するナショナリズムというよりは、連合王国を構成するイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの四つの「国(ネイション)」のそれぞれのナショナリズムだ。そのため、四つの「国」はブレグジットを巡って異なる傾向を示した。なぜイングランド人の多くがEU離脱を望む一方、スコットランドでは多数派がEU残留を望むのか。またスコットランドでなぜ、イングランドとの連合王国解消も辞さないと考える人が増える傾向となったのか。それぞれのナショナリズムが様々な形をとったのだ。
英国から目を転じても、欧州一帯でナショナリズムは活発化している。ナショナリズムと右翼はイコールではないが、右翼を駆動する大きな力となっているのがナショナリズムであるのは否めない。イタリアやドイツ、フィンランドでは右翼政党が伸長し、スペインでも極右の連立政権入りの可能性が取り沙汰されている。ロシアとウクライナの戦争もまさに互いのナショナリズムの衝突と言って良いのではないか。第二次大戦後、平和と安定を享受してきた欧州に、再びナショナリズムの時代が到来しつつあるように見える。
米国の政治哲学者フランシス・フクヤマは、20世紀の政治は経済問題を軸にしていたが、2010年代以降、政治がアイデンティティを巡るものになったと指摘し、特にイスラム主義とナショナリズムを代表的なアイデンティティの政治の例として挙げた。アフリカでイスラム過激主義を追い、欧州ではナショナリズム取材にこだわった私は、知らず知らずのうちにアイデンティティの政治という深くて暗い森に迷い込んだような気がしている。
(編集編成局編集長補佐、服部 正法)
『裏切りの王国 ルポ・英国のナショナリズム』は白水社刊、定価2640円(税込み)
服部正法(はっとり・まさのり)さんは現在、編集編成局 編集長補佐。1970年、愛知県生まれ。早稲田大学第一文学部史学科卒業(東洋史学専修)。NHKディレクター、テレビ番組制作会社契約社員を経て、99年、毎日新聞入社。奈良支局、大阪社会部、大津支局などを経て、ヨハネスブルク支局長、アフリカ特派員として49カ国を担当する。外信部副部長、欧州総局長など歴任。著書に「ジハード大陸:テロ最前線のアフリカを行く」(白水社)。
=東京毎友会のHPから2023年7月24日
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