2022.09.27
先輩後輩
「正直に言えば、杉原千畝の『命のビザ』については、あまり関心はなかった。何かユダヤ難民を救うために、日本政府の命令に背いた外交官がいたらしいという程度の理解しかなかった」。今回出来上がった本の冒頭に書いた「初めに」の文章である。
1939年9月、独ソ両軍がポーランドに侵攻した。第二次世界大戦の始まりで、大量の難民が発生した。隣国リトアニアの杉原千畝領事代理の所へも難民は押し寄せてきた。杉原はやってくる難民のほぼ全員にビザを発給した。おかげで、多数のユダヤ難民が絶滅収容所での死を免れた。その話を聞き、「ソ連政府は数千人の難民のシベリア横断を何も言わずに許したのか? そんなことはありえない。何か隠されている」と思った。その疑問が、この本を書くきっかけとなった。
しかし、ソ連は2回の世界大戦で4000万人近くの死者を出したとされる。数千人のユダヤ難民の救出劇を上回る大きな悲劇やドラマがあちこちで起きていた。だから、『杉原ビザ』には、誰も関心がなく、知られていなかった。杉原ビザの研究をしている人はわずかで、文献もデータもなかった。何が起きたのか、誰も答えられない状況だった。
2014年、ロシアの研究者が、「国家最高決定機関のソ連共産党政治局が討議し、ユダヤ難民にビザを発給する決定を行っていた。それは秘密とされ、公開はされなかった」と発表した。これまで語られていた『ユダヤ難民救出物語』とは全く違う驚くべき見解だった。ただ、日本も、世界も、あまり反応をしなかった。ロシア語という特殊言語の大きな壁があったのかもしれない。
ということで、これはきちんと日本の社会に伝えるべきだと考えた。しかし、調べていくと、この問題は、ユダヤ難民にビザを与えたという官僚手続きにとどまらない、深い溝が開いていることに気付かされた。その溝を探っていくと、様々な事実が明らかになり、それがまた新しい謎を生み出した。杉原個人を超える大きな話に膨れ上がり、500ぺージを超える“大作”となってしまった。
あちこちの出版社を訪ねたが、どこも、「今時、200ぺージ超える本は、よほどのことがない限り、誰も買いませんよ」と断られた。
それでも、手紙を次々に出版社に出した。すると、五月書房新社の杉原修編集長から返答が来た。実は、杉原千畝の家族との付き合いがあり、前からソ連関与の話を薄々聞いていた。いつか本にしたいと思っていたという。この偶然の出会いがなければ、この本は世に出なかったと思う。
実は、この本は様々な疑問が残されており、未完でもある。本のタイトルは暗示的に「杉原とスターリン」とされているが、今後、どのような事実が出てくるのか不明で、タイトルも変わるかもしれない。
杉原とソ連とユダヤ難民の三者の間に、何が語られ、何が起きていたのか、謎は始まったばかりで、まだ出発点に立っている形だ。
第二次大戦は、不条理としか言えない殺戮が繰り返され、人々は何が正しく、何が悪いことなのか分からないまま、混乱と恐怖の中で、暗闇に落とされていった。
その一方で、多くの人々が、絶望した人々に手を差し伸べ、必死に助けた事実もあった。日本人には馴染みがないユダヤ問題でもあるが、世界の歴史につながる暗黒と希望の話でもあり、人間とは何か、世界とは何かを問う話にもなっている。
日本から遠く離れた地の人々の話で、カタカナの固有名詞がいっぱい出てくる。日本人には分かりにくいかもしれない。途中で投げ出す人もいるかもしれない。そこで、出てくる人々の写真や画像を懸命になって探し出し、本に掲載した。若い読者の皆さんのために、それなりに、頑張ったつもりである。世界では何が起きていたのか、今一つ考える材料にして欲しいと願っている。
(石郷岡 建)
『杉原千畝とスターリン』。五月書房新社。 定価3500円+税 2022年9月20日発行。ISBN 978-4-909542-43-4。
石郷岡 建(いしごおか けん)さんは1974年毎日新聞入社。横浜支局。東京社会部。外信部。カイロ、ハラレ、ウィーン、モスクワ各支局勤務。
=東京毎友会のホームページから2022年9月21日
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