2022.03.24
先輩後輩
読売新聞社が 1964年9月、北九州市小倉に進出した。毎日新聞西部本社も翌年、門司か
ら小倉に移転。毎日、朝日、読売3社が小倉に集結することになり、新聞販売競争が始まった。守る毎日、朝日と、攻める読売との攻防は年々激化し、公取委の排除命令など西部管内の乱売は新聞業界で注目の的となっていった。
読売は各地で攻撃一本で仕掛け、これに毎日、朝日も応戦するも資金力、動員力による乱売戦は読売の得意とするところだった。朝日は紙面力と店力で受けに強く、被害は毎日の方が大きかった。読売は進出10年の 1975年には発行部数で毎日に急接近し、その勢いは増す一方であった。危機感を抱きながら「負けるものか」との決意をもって若手7人の担当員は早朝1時間の勉強会を実施し、販売の歴史、戦略、戦術などの学習に取り組んだ。
北九州市の販売網は老舗中心の販売組織で担当員もデスク、ベテランの担当区だった。同年、それを北九東、北九西の二つの販売組織に分け、担当も中堅若手の田中健治、向江道徳の同期2人となった。本社お膝元での反転攻勢作戦であった。まずは守りから攻めの意識改革に着手するとともに、4本の柱を掲げた。
① 専売会組織を、東、西に分け、ブロック会、各委員会、セールスセンター設置し、タテ・ヨコの連携、強化、活性化し、戦う専売会組織を目指す。折込は個人店扱いから折込会社へ移行
② 売店組織
基準として、3000世帯に1店舗・1000部(普及率 33%)の販売店作り。そのための販
売店の分割、新店設置を推進
③ 増紙第一主義
配達店から拡張店へ。ナイター拡張、店主交流拡張、日祭日入居対策、従業員拡張コンクールなど
④ 社との連携
移転連絡、ニュース速報、社員交流会(店区域内)
若い2人は、月々火水木金々と常に販売店、従業員、セールスと共に働いた。敵を知り、味方に学び、己を磨く時を重ねた。1年を経過する頃には、新店を中心に急ピッチで増紙店が続出してきた。特に世帯増地区の入居対策の成果は素晴らしかった。この結果、内輪で増紙競争が始まり、先輩店も動き始めた。創業からの部数を2倍、3倍に増やすなど従来では考えられなかった増紙ペースは、読売に引けを取らなった。このような増紙店が点から線、線から面へと拡がっていった。部数増になると折込も増え収益が良くなり、増紙意欲は更に高まり店舗建築などの夢も近づいてきた。
それまで門司区のみが部数1位だったが、八幡西区、若松区と順次1位へ躍進し、社長賞受賞店は 117年間に 20回を数えた。
1979 年、オール毎日500万部の目標がスタートし、西部は65万部を西部本社代表以下一丸となって取り組んだ。新設の総合推進部の先導で社員拡張は大きな成果をあげ、推進部と販売店との交流会などで販売店の士気を鼓舞し、3年間で目標部数を達成して西部販売部は1981年社長賞を受賞した。
西部 65万部達成には北九州地区の貢献も大きく、同地区1位の朝日との差は17000部に
迫っていた。有志店から「次は北九州政令都市部数1位をやろう」と声が上がり、新たな目標へ向けスタートすることになった。そして、1975年の反転攻勢から17年。田中健、向江、堀、松崎、橋野、野村順、野村真、橋詰、宗、永井、宮崎の11人の歴代担当員が連綿と増紙作戦を継続し、1992年、ついに「北九州部数1位」を達成した。朝日が1996年、読売が2004年、福岡市へ本社移転した後、毎日は北九州市の地元紙として各事業などと共に読者の支援を得て現在も部数1位であり続けている。このことがフリーペーパーのサンデー新聞(発行部数104万部)やポスティングに結びつき、販売店支援になっている。
新聞業界もデジタルの方向へ進んでいるが、アナログの新聞販売が経営の核となり、人の心を捉え癒す紙面がある限り、毎日新聞は存続すると確信している。
(西部毎友会・田中 健治)
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